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選ばれたのは綾鷹ではなかった。

「どっちがいいと思う?」

二月の夜風は刃物のようだった。縁石に座って丸くなっている僕の事には目もくれず、先輩は自販機の前で指を迷わせている。先輩は帰り道のこの路地で、必ず飲み物を買っていく。

「綾鷹が良いと思います」

お茶の中身の違いが分からなかった。一刻も早く暖かい部屋に避難したい僕は、適当に答えた。

先輩が振り向く。「綾鷹派?」
「悩んだら、綾鷹に決まってます」

先輩はお茶の違いがわかるのかもしれない。アメリカ人にはLとRの違が分かるみたいに。

「なるほど。綾鷹派か」
「別にそういう訳でもないです」
「照れなくていいよ。綾鷹美味しいからね」

路地には街灯が少なく、僕に見えているのは、自販機で逆光になった先輩の後ろ姿だけだった。楽しそうな雰囲気は伝わるが、どんな表情をしているのかは分からない。

「さっさと綾鷹にして早く帰りましょ」
「え〜、ちょっと待ってよ」

度々通る自販機の前でも先輩は優柔不断だった。カフェやファミレスでは必ず最後のページまで隅々見てから注文するのである。そして僕はそれを待つ時間がさして嫌いではなかった。


どうしてこうなったのだろう。


ふと恐怖を覚える。もはや寒さにも慣れてきた。立ち上がれば風に晒されるから、座っている方が暖かいようにさえ思えた。
しかし、慣れは危険だ。一度着いた折り目は反対に折ろうが伸ばそうが完全には消えないように、不可逆だった。

「あ、もしかして君の名前に綾ってつついてるから?」

先輩の呑気な声色が、僕を焦燥をかき消す。その温かさが危ういことは知っていた。どうしてこうなったのだろう。もしも僕が、何かを言い出せていたのなら、という考えが僕の心臓にぶら下がり続けていた。

「お待たせ。行こっか」

先輩が振り返っていた。その手には、ホットのペットボトルが、まるでこの世でいちばん大切なものみたいに包まれていた。

選ばれたのは、綾鷹ではなかった。

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