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「サロメのヴェール」(批評:吉田広明)


以下に掲載するのは、「サロメの娘」アクースモニウム上映の初演(2015年3月27,28日)について、第二期全発言採録にご寄稿いただいた、吉田広明さんによる批評文です。

文中にあるように、上演から時を隔て(数か月後に)書かれた文章ですが、当時の我々の状況を踏まえ、客観的かつ的確にワークインプログレスとしての作品を分析いただいており、貴重な資料だと思います。
この度、吉田さんにもご許諾いただき、転載いたします。


サロメのヴェール                 吉田広明

 2015年3月27日と28日の両日、『サロメの娘』アクースモニウム上演が行われた。これは「音から作る映画2」と副題されており、これに先立つ「音から作る映画1」である2014年度の映画作品『映画としての音楽』(screening version)からの流れをくむものである。「音から作る映画」と言う通り、先ず音源が作られ、その後に映像を構成したライブ版が上演され、さらにその録音源と映像をリミックスしたものが『映画としての音楽』(screening version)となる。さらにまた、『映画としての音楽』両ヴァージョンに前後して連続講座「映画以内、映画以後、映画辺境」の第一期が、『サロメの娘』の前に同講座第二期が開催されていた。『映画としての音楽』の音源、そのライブ版、そのscreening version、『サロメの娘』、そして連続講座第一期、第二期。これらの関係性は錯綜しており、当然ながら一点透視で見通せるわけのものではない。かつ、これはワーク・イン・プログレスの一環であり、今後も発展してゆく過程の、一段階に過ぎない。
 連続する過程のどこまでが対象と言えるのかに逡巡を覚える、そのこと自体、一個の「作品」に対して言葉を差し向けることに慣れている者を困難に立ち至らせるに十分なのだが、困難は他にもある。この稿を書いている時点で既に上演から数か月が経過し、日に日に記憶が薄れつつあるという人間である以上避けられない生理的事情(現場の空気が重要な役割を果たす「上演」であるだけになおさらだ。知られる通り、演劇などは、初日翌日の批評が最も生き生きしている)。そしてそれ以上に作品自体に内在する本質的事情。即ち『サロメの娘』という作品自体(そしてそれは『映画としての音楽』ライブからしてもそうなのだが)、後述する通り従来の映画鑑賞(暗闇の中で一方向的に、集中的にスクリーンを見つめる)をあえて阻害してくるような類の作品であり、従って従来の映画の見方、記憶の仕方ではなかなか捉えきれないところがある。とりわけ後者を鑑みる時、そもそもこのような作品を前にして、映画批評自体が変更を迫られているのではないか、という気さえする。そのような前提を踏まえた上で読んでほしいのだが、以下は、映画批評的方法を自身の方法論とする者が、ある程度七里監督の作品を見て来た経験の上で今回の上演作品を見、その特異性と思えるものを記述したものである。

 『映画としての音楽』は、日夏耿之介によるオスカー・ワイルド『サロメ』の翻訳『院曲サロメ』を題材としていたが、『サロメの娘』はそこから離れ、オリジナルのテクストが付けられた。母に連れられた娘が山登りに行く。娘は同行の人々の中のとある男に手を借りる。同行の一団は劇団らしく、サロメを題材にした劇を演じている。というようなことをその娘が語っている(ように思う)。この母娘が誰なのかもはっきりしない。題名が『サロメの娘』なのだから、『サロメ』との連関があるのだろうとは想像されるだけで、実の所その確証すらない。連関があるとしても、この母娘がヘロディアとその娘サロメなのか、サロメとその娘なのかもよく分からないし、サロメの娘、と言った時後者の方を普通は思う筈であるとしても、ではサロメの「娘」とは一体何を意味するのか。ともあれテクスト上では、誰の、というアイデンティティを曖昧にした(ヘロディアの、なのか、サロメの、なのか、あるいはそのどちらでもないのか)「娘」という存在が増殖する。母に対する「娘」、同じ血を分かちながら他者でもある存在。そのような「娘」の境位は、『映画としての音楽』に対する『サロメの娘』の境位に相当するものであることは間違いない。
 「娘」の増殖。それはアクースモニウムという上演形態にもふさわしいものである。アクースモニウムは、もともとの作品には一本しか存在していないサウンド・トラックを演奏者が分解し、数十個のスピーカーに振り分ける。『サロメの娘』上演にあたっても、一つの声が複数のスピーカーから同時多発的に流れ出て、それが同じ人物の声だと即時に理解することを妨げていたように記憶する(そしてそれは「娘」の声に限らなかったが)。声の増殖。そしてそれは『映画としての音楽』において、一人の登場人物の声を、複数の語り手=歌い手が発していたのと対照をなす。一は多であり、多は一である。

 「娘」の(という存在の、声の)アイデンティティが曖昧になる一方で、アイデンティティが明確になる存在もいる。『映画としての音楽』では、ナレーターによって示唆されるだけだった「馬」が、『サロメの娘』では画面に現れる。『映画としての音楽』では、自分は馬だと分かったとナレーターが語る。そのナレーションは元々の『院曲サロメ』にはなく、七里監督らによって新たに創られたものであり、その声は恐らくヨハネに帰属するのだろうとは想像できたものの、曖昧なままだった。しかし「馬」という言葉と、馬の映像とではやはり説得力が違っている。放牧場にたむろする数頭の馬、そしてとりわけその中の白い一頭の、老いているのだろうか、佇まいに老成を感じさせ、目に叡智を思わせる光を宿すその姿は、人間的なものを超えた何か高貴なものの存在を、確かに感じさせてくれた。『映画としての音楽』では、なぜ馬なのか、戸惑う所もあったのだが、こうして画面として見るとすんなり腑に落ちるところがあるのである。馬とは人外、人知の及ばない領域に住まうものだ。神の到来を知ったヨハネは、人の領域を超えたのであり、人外の境地に至っていた。そのようなものとして、ヨハネは、馬なのだ(人知を超えた存在として、『眠り姫』の一瞬言葉を発する猫の存在が想起される。これもよつあしだ)。アイデンティティが明確になる、と書いたが、実の所『サロメの娘』でも、馬=ヨハネだとテクスト上ではっきり述べられていたわけではない(と思う。ただし上演の際に配られた監督の言葉に、その旨の言葉が記されていた)。この辺りもテクスト上そのものでは実は曖昧なのだ、ということは改めて想起して置いていいかもしれない。

 本上演の最大の特色である上映形態について述べなければならない。会場に入って席に着いて直ぐにその異様さは感じ取れる。観客の正面に掛かっているのは、映画の上映の際に通例用いられる白いスクリーンではなく、黒い紗幕(ヴェール)なのだ。そしてその後ろに空間があり、そこに人がいる。ラップトップ・コンピュータが置かれているので、どうもそこがアクースモニウムを演奏する檜垣智也氏の席であるらしい。会場が暗転しても、紗幕の奥はコンピュータを光源として微かに明るみを湛えていて、そこに人影があることを意識せざるを得ない。紗幕に映像が投影され始めると確かにその人影は消えはするのだが、画面が暗くなるとその人影は再び現れることになる。さらに、檜垣氏のいる空間の奥には、当然ながら壁があるのだが、どうもそこにも何か映像が投影されているらしいことが分かってくる。つまり、『サロメの娘』は、黒い紗幕上、その奥の空間、その更に奥の壁と、三重の空間を映像の舞台としているのである。『映画としての音楽』ライブがここで想起される。あの時、観客はスクリーンに向かって直角の位置に配置され、スクリーンと、それに対峙する位置にいる演奏者たちを見るために左右へと首を振らねばならず、なおかつ、相対する二つの観客席の中央にある通路にはスクリーンに映っている映像を反転させた映像が投影されてもいたのである。観客は同時多発的に異なる位置で発生する映像と出来事を捉えるために、能動的に目を、耳を、動かさねばならなかったのだ。『サロメの娘』では、確かに見る方向性は一方向的であるにしても、その奥が二重、三重となっていて、そのうちどこに焦点を合わせるかは、その都度観客が判断することになる。さらに、複数のスピーカーを用いるアクースモニウムは音源を多元化し、音が様々な方向から飛んでくるような印象を与える。『映画としての音楽』ライブに匹敵する多重な音響=映像空間が現出していると言っていいだろう。このような空間での経験は、暗闇の中に静座し、一方向的に、集中的に映像=音響を鑑賞するという従来の映画の経験とはまるで異なっている。「上映」というよりは確かに「上演」なのだ。しかし、七里監督が今回このような紗幕を使ったについては、映画とは何なのか、を巡って重ねて来た思考がその背景にあるように思える。これは映画の域を拡張するような試みであると同時に、「映画」の本質を問う試みでもある。

 連続講座「映画以内、映画以後、映画辺境」第一期において七里監督は、映画がデジタルに移行したことによって、「影」が失われたことを強調した。物に光が当たると影ができる。その影をとどめているのが映画である。一方デジタルではそれは影ではなく、黒味、色のグラデーションの中の一つに過ぎない。ブラック・ライトなのだ、と監督は言う。そこにはアンドレ・バザン的な映画概念(映画は世界の痕跡である)が色濃く見られる。光と影を物質として宿すフィルムという素材への信仰。フィルムを見て育ち、フィルムで長編映画を撮り得た最後の世代として七里監督はフィルムへの愛着を隠そうとはしない(ただし、七里監督はデジタル・カメラが出始めた初期からそれを用いて撮影を行っており、デジタルに最初に触れた世代でもある)。そのフィルム原理主義者としての側面が最も強く表れた作品が『DUBHOUSE : 物質試行52』ということになるだろう。そこでは冒頭で「建築は闇を作る力がある」と字幕が出、建築家鈴木了二氏のインスタレーションに様々な角度から照明が当てられ、その時壁に映る複雑な影を捉えられる。監督が影を生み出す建築物に映画そのものの在り方を見ていることは明らかである。その上七里監督はこの作品を、コダックとフジの二種類のフィルムに焼き、二つのヴァージョンを並べて上映するという試みもしており、この作品は七里監督の中で最も「映画(フィルム)」であることにこだわった映画、フィルムに最も寄った作品である。
 しかし映画はもはやフィルムではなくなってしまっている。デジタル変換されていない作品もまだまだ存在する以上フィルム上映自体は残ってゆくだろうが、こと新作となると、フィルムの製造自体が終焉した(FUJIは)今、映画をフィルムで撮るということはもはや不可能である。ではどうするか。無論デジタルで撮られたにしても、映画館で鑑賞するという習慣は残る(しかしその視聴態度も変化しつつあり、かつての「映画」の視聴と同じものではなくなりつつあるが)。一つの平面とそこに着けられる音響という制限の中で、映画が百年以上にわたって作り上げて来た豊かな表現の力もまだまだ健在である。である以上、映画は例えデジタルになったとしても、これまでと同じ作法で作られ続け、またその中で新たな表現の模索も十分可能ではあるだろう。とは言え、デジタルによって映画が決定的に失ってしまったものがあり、それが「影」なのだ、と七里監督は考える。「影」はスクリーンと親和性が高い。何かに光を当てた時できる影は、その物体を中間にして、光に対して正対する平面に映ることになる。光=物体=平面の構図はそのまま映画(フィルム)の構図に等しい(撮影時における光=物体=フィルム、および映写時における光=フィルム=スクリーン)。映画(フィルム)特有の影にとって、スクリーンは不可欠だった。ならば、映画がフィルムでなくなってしまった今、スクリーンそのものも見直すべきではないのか。かくしてスクリーン自体が、ここでは用いられることがなくなった。ここで紗幕が使用されていることの意味は、映画が今や映画ではなくなってしまったのではないかという、講座を通しての七里監督の問題意識にある(紗幕への映写自体は、既に多摩美術大学での『to the light 2.2』上映において先行して実験されていたのだが)。
紗幕は映写される光を受け止め、おぼろげな映像を結びはするが、その背後を透かし見ることを妨げない。どころか、その背後の人影、さらにその後ろの映像を見るよう人を誘いさえする。ここではもはやフィルムであるかデジタルであるかは問題とならない。スクリーンではない以上、それは「影」なのかそうでないのかは問題とならないのだ。一方、紗幕に映る映像があまりにも曖昧過ぎて、それ自体で自律した世界を形作っているのかどうか、いささか心もとないという気がしたのも確かだ。無論、それは映画というもの、スクリーンに映し出される映像を一個の自律した別世界と見なす事に慣れ過ぎた眼からの物言いであることは承知の上であるが。紗幕の上、その奥、さらに奥と焦点深度を調節し、多方向からやってくる音に驚く。そのような『サロメの娘』アクースモニウム上演体験は、パソコン上でイヤホンをしながら複数のウィンドウを同時に重ね開いて映像=音響を視聴しつつ、時にイヤホンの外から訪れる実音に驚く、そのような超現在的な映像=音響視聴環境の在りように似ているような気もする。しかし、それが現実の我々が置かれた環境の疑似的再現ではなく、映画(フィルム)に対して最も愛着を抱いているであろう映画監督が、映画とは何だったのか、映画が置かれている現状のその本質はどこにあるのか、そうした思考を潜り抜けた末に出してきた答えの一つであるということは留意しておいていい。

ヘロディア、その娘サロメ、そしてその娘。そしてヨハネと馬。二重化、あるは三重化され、アイデンティティが揺らぐ登場人物。物語内容上のそうした揺らぎに加え、紗幕と、その奥と、さらにその奥と、二重化、三重化される映像空間。加えてアクースモニウムで多重化される音源。ここには単一で神聖なる根源が存在しない。曖昧で、おぼろげで、固有性は揺るがされ、偽物めいている。しかし、映画もそもそもそのようなものだったのではないか。物質に対する「影」、その表象。真正性から常に既に遠い存在。しかし映画は、その表象性(偽物性)をむしろ利点として、フレーミング(一個の映像における内と外)やモンタージュ(複数の映像の関係性)等の技法を開発、駆使することで、現実とはまた別の世界を創造するに至った(しかし一方、現実との紐帯は、ではなくなったかと言えばそうでもなく、約束事としてではあれ、表象は元のモノとのつながりを有していて、そこから逆に、架空の世界である映画をリアルなものとして受け止めることも可能になるわけであるが。即ち、あるのにない、ないのにある表象の、欠如とそれと裏腹の力能)。映画とは偽物の力である。とするならば、この『サロメの娘』もまた、偽物の力を最大限に発揮しようとした作品であるという意味で、やはり映画なのだ、と言っていいように思う(ただ、先にも述べたように、二重化、三重化するのはいいが、それによって生じたイメージ同士の関係性、つながり、モンタージュの方向性の追求がどうなっているのか、もう少し考えてみる必要はあるだろう。なお、このような偽物としての映画の力についてはデュラスも同様の試みを行っていると考えられる。連続講座第二期ではデュラスについても語られている。その記録と同時に、筆者によるサイト「映画の國」コラム31回~33回原稿も参照していただけると有り難い)。『サロメの娘』は、映画の本質を受け継ぎながら、これまでとは違った形で更新する、あるいは拡張する試みである(無論金のかかるデジタル加工技術やCGといった最新のテクノロジーによらずに)。フィルムでの映画製作が完全に終焉し、しかしデジタル環境における映画とは何なのか、その見極めがまだついていない現在、映画は様々な揺らぎ、試みの中にある。『サロメの娘』がその中でも最も果敢な試みの一つであるということは、紛れもない事実である。

(2015年8月)


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