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【エッセイ】ひゃくたけくん – 僕も「ひゃくたけくん」も “さだめ” を生きて、そして死んでいく。

小学4年生から中学3年生までの6年間、放課後の夕方練習はもちろん、日曜・祝日も真っ白な練習着を真っ黒にして一緒に野球をがんばった「ひゃくたけくん」という同級生がいた。

経緯は不明だけど、PTAだかパートの職場だかで、お互いの母親同士が顔見知りとなり、そんな流れの中で、いつしか自然と「ひゃくたけくん」と友達関係になった気がする。

少年野球を始めたのも、先に「ひゃくたけくん」が入っていて、熱心に誘われたからだ。

チームメイトには同級生が9人しかいなくて、内1人は練習にもあまり来なかったので、僕は8番セカンドで「ひゃくたけくん」は9番ライトのレギュラー枠だったけれど、2人共チームの足を引っ張る凡ミスはあっても、残念ながらチームに貢献するような活躍をした記憶はない。

少年野球の監督さんに『中学でも野球を続けろよ』と諭されて中学校でも野球部に入って毎日一生懸命に練習をしたものの、体のデカい同級生には馬鹿にされ続けたし、打撃練習には参加させてもらえないし、結局のところ練習試合でさえ満足に出場できずに2人の3年間が終わりを告げた。

その後、平凡な学業成績だった僕は地元の商業高校に進学、優秀な学業成績だった「ひゃくたけくん」は “となりまち” の難関校に進学したことで、それっきり疎遠となった。

「ひゃくたけくん」と再開したのは、中学校を卒業してから既に10年近くが過ぎ去った頃で、不慮の事故で亡くなってしまった彼の弟さんの告別式に参列した斎場だった。

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カップヌードルの早食い競争

「ひゃくたけくん」は頭が良すぎるためか、人とは少し変わった挙動をすることがあって、そのことをからかわれたり、非難されたりで、ちょっとしたトラブルも多かった。

今でも印象に残っている出来事のひとつに、日清カップヌードルの早食い競争がある。

昨今ではありえない話だと思うけど、小学5年生当時の担任の先生が「週刊少年ジャンプ最新号」と「キン肉マンの単行本(2冊)」を優勝賞品にして、ホームルームの時間帯にカップ麺の早食い競争をレクリエーション(?)として開催したことがあった。

お小遣いの100円玉を片手に駄菓子屋さんにスキップして通っていたような小学生にとっては、優勝賞品の「週刊少年ジャンプ最新号」と「キン肉マンの単行本(2冊)」は喉から手が出るほど欲しくてたまらないお宝だったので、男子生徒のほとんどが参加することになったのだけど、当時の僕は食に問題があったので、女子と一緒に見学をする側に回った。

ルールは簡単で、熱湯を注いだ3分後の『よーい、ドン!』が競争開始の合図で、素早くフタをはがして麺だけではなくスープまで全て飲み干した後に、片手で挙手を、片手で容器をひっくり返して『食べ終わりました~』を、他の誰よりも早く周囲に宣言すること。

レクリエーションとは言っても、とんでもないお宝がかかっていることもあって、真剣勝負です。

緊張感が漂う中、先生の『よーい、ドン!』の合図と同時に、皆が熱々のカップ麺をふうふう・はふはふ言いながら必死に口に運んでいる中、「ひゃくたけくん」はコップに用意しておいた水道水をカップ麺に継ぎ足してから頬張り、減ったところに再度矢継早に水道水を継ぎ足して冷ましつつ、ひとり猛スピードでカップヌードルを食べ干してしまった。

額に汗をかきながらガツガツと胃袋に流し込み、得意気にカップ麺の容器をひっくり返して『食べたー』の完全勝利宣言(ドヤ顔)である。

これには『ひゃくたけ、ズリぃぞ! 反則だぞ!』と罵声が飛び交ったし、見学をしていた僕も『それってありなの?』となんとも複雑な気持ちになったのを覚えているけど、水を入れてはいけないルールはなかったので、先生から「週刊少年ジャンプ最新号」と「キン肉マンの単行本(2冊)」の優勝賞品を進呈されてクラスメイトから羨ましがられていた。

今思うと「ひゃくたけくん」は小学生にしては機転が効き過ぎていたし、悪気はなくとも目的達成のためには手段・方法を選ばないようなところが目立っていたのかも知れない。

仮に僕が “水を入れて冷ます” といった戦法を思いついたとしても、おそらく先生に『水を入れてもいいですか?』と事前確認をしてしまうだろうし、いくら冷ますことで食べやすくなるとは言っても、実際に水道水を継ぎ足して不味くする勇気はとてもなかったと思う。

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人生には幸も不幸もない

10年ぶりに斎場で再開した「ひゃくたけくん」に掛ける言葉はなかったし、10年前に一緒にテレビゲームをして遊んでいた「ひゃくたけくん」そっくりの弟さんが、二十歳そこそこで結婚をして、奥さんと子供もいて、長距離トラックのドライバーをしていて、長時間労働が原因の不慮の事故で亡くなってしまったことには、実感がまるで湧かなかった。

見た目から挙動から何から何まで「ひゃくたけくん」そっくりの弟さんも、いかにも利発な小学生で理系の研究職などにつくようなイメージがピッタリだったので、まさか長距離トラックのドライバーをしていたとは意外も意外過ぎて、余計に実感が湧かなかった。

斎場では目を向けられないほどに衰弱してしまったお母様の立ち姿と、「ひゃくたけくん」が弟さんの配偶者に対する愚痴をこぼしていたことの2つだけが今でも記憶に残っている。

「ひゃくたけくん」の家では、お父様も僕らが中学生の頃に亡くしているのだけれど、印象に残っているのは野球部の練習中に「ひゃくたけくん」の頭部に部員が素振りするバットが当たってしまい救急車で病院に運ばれた事故があった直後に、学校からの説明に納得がいかずに、病気で療養中のお父様が練習グラウンドまで殴り込みに来たことだった。

当時の中学校の野球部では、顧問の先生と一部の保護者との癒着があって、例えば主将のお爺さんが亡くなった際には、なぜか野球部全員が葬儀に出席させられたりしたのだけど、その後「ひゃくたけくん」のお父様が亡くなった際には、何の音沙汰もなかった。

これは随分後から聞いた話なのだけど、「ひゃくたけくん」はいつからか長期間に渡ってひきこもりをしているとのことで、新聞の投書欄に散文詩を投稿して頻繁に選出されていた繊細なお母様が、「ひゃくたけくん」とお祖母様の生活を支えている現実を考えると重たい気分になる。

「ひゃくたけくん」と最後に会ったのは、当時の僕が夢中になって勉強をしていたビジネスの教本を『読んでみたらどうかな?』と届けにいった翌日にお礼として豆大福を律儀に持ってきてくれたときのことで、僕が札幌に引っ越しをする直前のもう15年前です。

その後、実家に帰省した際に散歩がてら「ひゃくたけくん」の家の前を通ってみたこともあったけれど、日中であっても窓やカーテンは閉め切ったままにひっそりとしている。

人生には幸も不幸もない。

僕も「ひゃくたけくん」も “さだめ” を生きて、そして死んでいく。

このエッセイの見出し画像には「Marukimasu(丸亀敏邦)」さんの素敵な作品を使用させていただきました。「Marukimasu(丸亀敏邦)」さんの作品につきましては{みんフォトプロジェクト - Marukimaru(丸亀敏邦)展 :「物書きが手元に置く愛すべき小物たち」}の記事にて好評展示中です。

以上 –【エッセイ】ひゃくたけくん – 僕も「ひゃくたけくん」も “さだめ” を生きて、そして死んでいく。– でした。

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