孤独な自分と、孤独じゃない自分の橋渡し
時たま、発作のように強烈に怖くなることがある。
孤独感と、それによる不安感。
「自分は独り」という事実に気づくことが怖い。
その事実は自分の中では変更の効かないことで、僕はどうにかこうにかその事実から目を逸らして生きている、というような感覚。
だから誰かが自分の元から去っていったりすると発作がでる。強烈な孤独と不安を感じる。
心がずしんと重たくなって、朝ベッドから起き上がれない。目を閉じて、頭の中で巡る急速な思考になんとか追いつこうとする。仕事だからと起きて用意をしても、ふとした時にぼーっとして物思いに耽る。
そのくせ、誰かに近づきすぎると離れたくなる。本当はそんな環境を求めているはずなのに、会うのが億劫になる。
それはたぶん「自分は独りだという事実を分かっている」からだと思う。
そうやって何度も大事なものを自ら手放して、
何度も発作を起こして、
何度も「やっぱり自分は独りなんだ」という答え合わせをしてきた。
小学4年生の時。
泣きながら、飼い犬に「お前はおれのこと見放さんといてくれ」みたいなことを言った記憶がある。
なんでそんな寂しさを抱えていたのかは覚えていない。
当時は些細なことでよくふてくされていたから、きっと大したことは何もなかったんだと思う。
でも強烈に寂しくて、自分は独りぼっちなんだと感じた。
その感覚が今でも残っている。ずっと。
「おれは何も気にしていないから大丈夫」という立ち回りだけ上手くなって、喜怒哀楽の表情は少しずつ減っていった。
そんなことをこの本を読んで思い出した。
ずっと自分の中で蓋をして抑えていたこと。発作を起こしてまで直視したくなかったこと。
「人目なんて気にしないカッコいい人間になりたい」
そう思ってきたけど、僕はずっと人目だけを気にして生きてきた。独りから逃れるために。そして独りになるために。
著者の土門さんが発作的に「死にたい」と感じるように、僕は「自分は独りだ」と深い孤独と不安を感じる。
*
だから僕はずっと書いてきたんだと思う。
その発作を少しでも鎮められるように。形を与えて、価値を与えられるように。
書いた文章は、どこかで自分から離れて一人歩きを始める。書く時にしか使わないような表現と言葉。
「もっと等身大を書きたい」そう思い続けて、その思いが心地良かった。自分を表現することと、その中でより自分自身に近づこうともがく自分に安堵した。
独りではないような気がした。
自分から離れた自分の文章が、寄り添ってくれている気がした。
孤独と不安に囲まれながら、どうにか心を落ち着けられる時間。
書くことが希望だった。
もちろん頭の中では分かっている。
たくさんの人に支えられていることも、家族や友だちに恵まれていることも。
彼らの無数の想いが自分の中に蓄積されて、僕はここまで生きてくることができた。僕はどれだけ恵まれた環境にいたんだろう。
僕は独りだ。そして、独りじゃない。
本当はどの自分も、そのまま受け入れてあげたい。
その橋渡しをするために、この文章を書いた。