No.206 関ヶ原と石田三成の敗因雑感
0. はじめに
今日は #関ヶ原2024 の祭りだった. 今年は
『島左近様、無課金装備の狙撃兵に撃たれた模様…!』
『オオタニサン! (今日の今日まで大谷刑部と大谷翔平が全く結びつかなかった)』
『Get Wild 退却
Get wild and tough ひとりでは 勝てない戦 狼煙あげて…』
『逃げ上手の治部』
等々中々に楽しませてもらえたが, なんか行きつけのバーで例の加藤剛, 森繁久彌の「関ヶ原」のドラマをみることになった. もちろん, 全部見ると長すぎるので, 1部, 2部はダイジェストで飛ばし飛ばしで, メインの第3部を観た.
以前も言ったかもしれないが, この「関ヶ原」は正に日本版の「The longest day」であり, これを越える日本ドラマは未来永劫存在しえない傑作である(無論, それでも完璧な作品ではない). 当然, この30年近く(最初に観たのは司馬遼太郎が亡くなった時の追悼記念の再放送)で折に触れ, 何度も何度も観たのだが, 今回はちょっとこれまで気にならなかった点が少し気になった. 無論, 関ヶ原の研究は無限に存在するので, 恐らくこれに類する言説もどこかにあるのだろうが, あくまで #関ヶ原2024 記念の個人的な雑感として簡単にまとめる.
1. 個人的三成評
三成も, ある意味家康と同様で, プロパガンダ的扱いで毀誉褒貶の変遷がある人物である. 近年ではむしろ再評価の流れが強いかもしれない. 個人的には
「中々の人物」
だと思う.
まず, これは司馬遼太郎も言っていたかもしれないが, 家康相手に, よくぞあそこまでの状況(少なくとも見かけ上は圧勝できる状況)に持って行けたものである. これは評価云々とは独立に厳然とした事実であり, 素直に称賛すべきである.
加えて, 島左近, 大谷刑部, 直江兼続等のあれほどの漢達に命を賭けさせたのは, 俗説とはうらはらに, 三成の人間性や魅力が決してなかったわけではないことの何よりの証左である.
にも関わらず, 関ヶ原で勝てなかったのは
「単純に相手が悪かったから」
である. ただこれだけだとある意味元も子もないので, もう少し個人的な要素にフォーカスしてみよう.
2. 三成の敗因
三成の敗因に関してはこの400年で無数の研究がある. なのでここではあくまで石田三成の個人的な資質にのみ絞って簡単に考えてみる. 結論から言えば
『「自分が想定した戦略, 戦術を相手もそれを読んで, それを想定した上で動いてくる」という当たり前の事実認識の甘さ』
である. もっと言えば
『家康と比べて, リアルに対する想像力が乏しい』
ということである.
たとえば戦略として,
『家康を上杉と挟み撃ちにする(その前に上杉を家康挙兵の口実に使わせる)』
というのは悪くないテではある. だが, そうであるがゆえに当然家康もそれを想定して「そうはさせじ」と動いてくるに決まっているのだ. たとえば, 伊達を使って逆に上杉を挟み撃ちにする構図に持って行ったり, 東へ攻め上がる際には伊達を上杉の牽制に使ったり, といったことである.
また大垣城決戦を想定したとして, 秀頼を連れてきて, 豊臣恩顧の大名を寝返らせる(「寝返りをうちやすい寝巻」も参戦してきたな), あるいは戦意を削ぐというテも効果はバツグンだったであろう. そしてそうであるがゆえに家康が「そうはさせじ」とあのテこのテを駆使して, 是が非でも阻止してくるに決まっているのだ.
翻って三成はこうした事前のプランがうまく機能しないであろう可能性と, 仮にうまく機能しなかった時の対策をどれだけ考えていたのか. 全く考えていなかったことは流石にないとは思うが, 恐らく家康のそれよりも想定が甘かったように思う.
これがたとえば秀吉だったなら,
「秀頼の影武者をデッチ上げてでも, 大垣城に秀頼幻影を作る」
それができなくとも,
「秀頼様, お忍びで大垣城ご入場」
といった噂を家康側の陣営に流すくらいは平気でやってのけただろう. それはやっても損はないし, やれば実際に(程度によるが)それなりの効果もあったはずである.
関ヶ原本番にしても, 毛利の陣の麓に家康が平気で陣を敷いた時点で(どんなに遅くとものろしを上げて応じない時点で), もう毛利の裏切りは確定と思って, 関ヶ原は捨て, 更に大阪に近い戦場を設定し, 毛利輝元を戦場に引っ張り出し, 逆に毛利勢の分断, 裏切りを画策してもよかったはずである(少なくとも諸々の裏切りがありうる関ヶ原で戦ってしまうよりはマシだったはず. ただ秀忠が合流してくる時間を作ってしまうから, そういう意味では一長一短).
ところが, ここら辺が三成が「傲慢」と評される所以なのか, ともかく自分の策が無条件でキマると無邪気に思って(信じて)いる(そして敵がそれを読んでいた場合の想定, 対策が甘い)フシがある. 実際は策が綺麗にハマることなど絶無だし, まぁ半分キマれば十分いい方である. だから, 想定通りに行かなかった際の次善策(事前策)をどこまで練って, 実際の備えも出来ていたかが勝敗を分ける. にもかかわらず, その想定が甘い. 少なくとも家康と比較にはならない気がする.
これは何故なのか? 恐らく, 幸か不幸か優秀だった三成は
「相手が自身の策, 想定を上回る(そしてそれにより負ける)」
という経験をしてこなかったのではないか. あるいはグランドデザイン自体は実質秀吉がやってしまい, 三成にはそれを効率よく機能させるためのセンスも実践経験も豊富だったが, 自分一人でこのテのことを零からやるという経験があまり多くなかったのかもしれない.
翻って家康は正に百戦錬磨の老獪の極み. 桶狭間, 三方ヶ原, 小牧-長久手等々
「相手が自分の想定を上回り, 負ける(しかし最終的に生き残る)」
という経験を積み重ねてきている. この差が, 正に
「戦わずして勝つ」
という「兵法」における最重要部分(つまり外交, 戦略をはじめとする戦争における非戦闘的行為)で, 両者に決定的な違いをもたらした最大の要因だったように感じる.
一つ一つはこまい点であっても, それが十, 二十と積み重なっていくと, その差はバカにできない. まして元の自力に関しては家康の方が圧倒的に上であったのだから, その差を埋めるべく, この点に関してはより細心の注意をはらうべきであった. しかし先に上げた例をご覧いただいてもわかるように, どうも三成のソレが, 家康のモノを上回っていたという感じはしないし, 事実をみても一連の流れの中で, 家康は常に三成のテを的確に読み, それを成功させまいと動き続けていた.
正に「策士策に溺れる」というか, 良い策を思いつき, それを実行しようとすると, どうもそれに執着, 固執してしまうのは人間の性のようで, これは三成に限った話ではない. たとえば以前紹介した「日本史サイエンス」
https://note.com/shibushibuyanyan/n/nbaab745cf853
で検証されていた戦艦大和の話もこれに通じる. つまり戦況は変わっていくのに, あくまで最初のプランを前提に動こうとするのは, 時に破局的失敗をもたらす.
そういう意味でも, やはり関ヶ原は日本史史上の最大の人間ドラマであると同時に, 大いなる含蓄, 教訓を今も我々に問いかけているのである.
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