No.98 欲と「私」
先日通りかかったあるお寺に次のような張り紙があった:
『
欲のまん中に
「私」をおくと
心はせまくなる.
欲のまん中から
「私」がなくなると
とらわれの心がなくなる.
』
ヒネクレて, 心が汚れている(スレている)私は大体この手の文言は鼻で笑って通り過ぎるのだが, これは誰の言葉かは知らないが, 「へぇ」と感心して(もっと言うと「面白い」と感じて), 写真まで撮って記録に残した.
これの何を「面白い」と感じたのかというと, 一つは
『欲と「私」の関係を述べている』
という点. 当たり前のようだが, 普通は
『欲は私の中にある』
ような気がするので,
『欲の中の「私」』
という言い回し自体一種の非凡さを感じる. いわば欲と「私」の関係を相対化しているのだ.
もう一つは(こちらが本質なのだが),
『欲よりも「私」の方が御しやすい』
と説いている点である.
よくあるような気がする文言は, 欲を如何にコントロールしたり, あるいは如何に消したり(物騒だなぁ)することを説くものだが, この文言は暗に
『欲はコントロールしたり, 消したりすることはできない』
とも説いているように取れる. そしてその代わりに
『欲をコントロールすることはできないが, 「私」の方をコントロールすることできる(あるいは「私」のコントロールの方が欲のコントロールよりも楽である)』
と言っているのだ.
しかも「私」のコントロールにしても, 言っているのはいわば
『欲と「私」の距離感, あるいは配置を意識する』
というもので, 欲と「私」の対立を煽るものではない点は注目すべきであろう. そう言われてふと思い出すのは「我欲」という言葉である.
心理学, あるいは仏教用語的な本来の意味合いはよく知らないが, 件の文言は欲と「我欲」は違う意味合いであること(確かに単なる欲よりも「我欲」の方が「とらわれ」と親和性が高い気がする), 更に
『欲を「我欲」にするな』
というのが一つの読み解き方のように思った. 悟りが「小我」から目覚めることだとするならば, その境地に至ってなお欲は消せないが, 「我欲」は消せるってことか.
なるほど, 確かにその「思想」は実際的で, 「理」に適っている. 仮に「小我」から目覚めていない我々凡人であっても, 欲と「我欲」の違いを意識することは何かと役に立つだろう.
尤も本当に「小我」に捉われている「小人」にはその区別はつかないだろうが(区別がつかないからこその「小人」).