No.202 「LIVE A LIVE」HD-2Dクリア記念雑感 9 中世編 --何故彼は英雄足りえなかったのか--

0. はじめに

 いよいよ「LIVE A LIVE」30周年が迫る今日この頃, 遂にこの一連の HD-2Dクリア記念雑感 note も中世編, 最終編を残すのみとなった. 最後はやはり Orsted (らすとかいし) で行こうと思う.

1. 「オルステッド」という盲点

 「LIVE A LIVE」において中世編は正に白眉であり, これまで多くの研究がなされてきた. しかし, それはどちらかというと中世編全編を通して(悲劇として)のものであったように思う. その中でも「あの世で俺に…」の行のストレイボウやスクエア(もうスクエアが無くなって20年以上が経ち, スクエニの時代の方が長くなってしまった!)三大悪女として名高くなったアリシアについて論じられることがあっても, 意外にも主人公のオルステッドに焦点が当てられることが少ないと感じる. それは諸々の理由から彼の存在感が意図的に消されているからである. 

 実際, オルステッドは CV. 中村悠一 であるにも関わらず, 中世編の最後までほぼ何もしゃべらない(戦闘時のボイスのみ). これは今回の HD-2D リメイクでボイスがついたことにより, より強調されることになった. この「より強調されることになった」というのは, 単に

「中世編でオルステッドがしゃべらない」

という以上の意味合いがある. 

 すなわち単に「しゃべらない」のであれば, 原始編のポゴ(厳密には彼は「しゃべらない」のではなく, 少なくとも我々の知る「言語」は発していない)も, SF編のキューブもしゃべらない(最古の原始編とその対極にある最新のSF編の主人公が共にしゃべらないというのも面白い).

 しかし, オルステッドはポゴとも, キューブとも異なる. それは

「彼が徹頭徹尾, 感情を表さない」

からである. 「感情を表さない」というよりは,

「場面場面ごとの思考, 意思を感じない」

という方がより正確だろう.

 これがオルステッドの存在感が消えているからくりの根幹である. これにより, やはりオルステッドは中世編を考察する際に意識から外れるのである.では

「何故オルステッドは意識から外れるように設計されているのか」

というと,

「例の最後のどんでん返しがあるから」

である. 

 これは厳然たる事実であり, これまでの研究でも幾度となく指摘されているだろう. しかし, 以前も指摘したように今回の HD-2D リメイクにより「LIVE A LIVE」が

「7人の英雄と英雄になれなかった1人の男の物語」

だったものから

「8人の英雄の物語」

になったことにより, どうしてもオルステッドに焦点を当てる必要が出てきたのである.

 そして「LIVE A LIVE」が HD-2D リメイクで, このように変わったことにより, 中世編自体も見直す必要があると思う. そこで今回はオルステッドをメインに据え, これまでとは少し違った観点から中世編を読み解く.

 いや, それは正しくはない. むしろ, 上述したような(研究しつくされた)中世編の構造, 仕組みから, 逆にオルステッドを読み解いてみるのである. 特に最も重要な命題である

「何故彼は英雄足りえなかったのか」

について考えてみよう.

2. 何故彼は英雄足りえなかったのか

 表題の答えは元も子もない言い方をすれば

「中世編が悲劇だから」

である(シェークスピア?). それについては既に多くの研究がある. ただし, こう解釈してしまうと, 英雄足りえなかった理由はオルステッド自身ではなく, その周り(ストレイボウやら, アリシアやらの外部要因)に帰着させてしまうことになる. 

 では, こう問うたらどうか?

「オルステッド自身に瑕疵は無かったのか?」

最終編の最後をみるに, オルステッド自身も「自身に非が無い」とは考えていなかったようである. では彼の非では何であったのか?

 私はそれを上述した「オルステッドの存在感の無さ」にあるとみる. というより, 従来「オルステッドの存在感の無さ」は「中世編のどんでん返しの為のからくり」という見方をされてきたわけだが, オルステッドに焦点を当てたい今回はその「存在感の無さ」をオルステッドを読み解くために使ってみるのである. 正直な話, それ以外にオルステッドを分析するとっかかりがないということでもある. 

 彼は英雄ではなかった. ではなんであったのか? 「魔王」というのは間違いである. それはアリシアの死後, 中村悠一がしゃべるようになった以後であり, それ以前は明らかに「魔王」ではなかった. では何だったのか? 言葉も発さず, ポゴやキューブのように自身の感情や意思を発現することもなく, 淡々と舞台の上で望まれた役をこなしていく存在.

 それは「道化」である. つまりルクレチアの住民の(のみならず, 第4の壁のこちら側にいる我々も含め?),「英雄かくあれ」という願望のままに動く者. それは「道化」に他ならない. ゆえに彼は英雄足りえなかったのである. こういうことは英雄に限らず, たとえば「天才」等でもみられるかなり普遍的な現象だと思われる(我々凡人のステレオタイプの天才像を演じる者が何故天才なのか? それは「道化」以外の何者でもない). 

 つまり中世編のオルステッドは「道化」であるがゆえに, 言葉だけではなく, 自身の感情や意思を一切発露することなく淡々と舞台の役をこなす. だが, あの物語は(メタ的には)舞台ではあるが, 舞台ではない. より正確に言えば, 舞台裏があったはずなのである. にも関わらず恐らくオルステッドはその舞台裏でも「道化」であったのだと思われる. 

 考えてみて欲しい. 実際, あんな感じで何もしゃべらず, 感情の発露もない人間がいたら, 諸々のトラブル, スレ違いが起きない方がおかしい. これは明らかにオルステッドの非である. 

 ただこういう考え方もあるかもしれない. すなわち

「そも「英雄」とは「道化」ではないのか?」

と. 正直, いわゆる「アイドル」は「道化」だと思う. ならば「英雄」も似たようなものではないかと. 

 それに対して私はこう答える.

「なるほど「英雄」は「道化」かもしれない. しかしそれだけではない.
むしろ『それだけではない』という論拠が正にオルステッドなのだ」

と(そしてこの差を埋める試みが最終編である). 

 ではより根源的に何故彼は「道化」であったのか? これに対する私の解答は,

「最終編で誰を主人公にしたのか?」

という問いに関係するのだが,

「『楽』に流されたから」

である. 

 これは努力しないとか, 怠惰に溺れるとかわかりやすい楽ではなく, 特定の場面ごとのある種の諦観, もしくは(功夫編の note で触れた) easy going な道のことである(「安直」という表現が一番適切かもしれない). つまり勇者でさえ, 時に『楽』に容易に流される. これこそがオルステッド(彼だけではないが)の非の根源であり, 言い換えれば, 「魔王」の根源でもある(実は「魔王」の根源としてはより深刻なモノがあると思うが, それについては最終編の note で論じる). 

 つまり「魔王」の根源は「憎しみ」とされるのだが, 多くの人は憎むということをしたくてするわけではない. では何故憎むのかというと, それは上述したような

「『楽』に流され「道化」になり, 中世編のオルステッドのような周囲の誤解, 無理解を招いて云々」

ということもあるのだろう. 少なくとも悲劇としての中世編の構成はそのように見える.

 しかしより直接的には

「憎むのが『楽』だから」

なのではないか. 正確には

「憎むのが『楽』になる状況がある」

と言うべきか(つまり逆に憎まないのが『楽』になる状況もある). 

 そして「憎しみ」ではなく『楽』と言い換えると, これはオルステッド(あるいはストレイボウ, アリシア等)だけではなく, 誰しもに容易に起こりえる普遍的現象であることが(「憎しみ」よりも強く)実感できると思う. 

 これが今回の HD-2D リメイクでの考察を通じ, 中世編でオルステッドに焦点を当て, 得られた解釈である.

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