便箋と白/白狐丸 『彼方』第12号(2023冬号)より

 ふと鏡を覗き込むと、あの頃の私の瞳は随分と輝いていたんだなと思い知らされる。そして、多くの人から愛されていたし、日々が充実していた。今でも、眩しい朝の陽光に目を瞑ると、あの子たちの声が耳に響いてくるような気がする。

「――先生、根吹先生、大丈夫ですか?」
 朦朧としていた頭に流れ込んできたその声に、ぐっと引っ張られるように意識が戻る。目を開けると、女子生徒が眉をひそめながらこちらの様子を窺っているのが見えた。
「ああ……、粟蘇さん。大丈夫、ちょっと眠かっただけだから」
 そうですか、とまだ不安そうに自分の机へ戻る彼女を眺めて、心配かけちゃったな、と一人反省する。時計を確認すれば、もう数分で五限が始まる時刻だった。昼食も取らずに教室のすみで椅子にもたれ掛かって眠っているようでは、さすがに生徒も気がかりだろう。
 凝り固まった体をほぐすようにゆっくりと立ち上がり、大きく背伸びをする。幸いだったのは、このクラスの五限は私の担当だったこと、そして、寝顔を見せてもいいくらいには、この子たちを信頼していること。
「はい、それじゃあ号令をお願いします」

 私がこの学校に赴任してきたのは、一年と半年くらい前。大して重要な役職も任されていない公立高校の教師なんかは、本当にぽんぽんと異動をさせられる。それでも異動先で普通に担任を持つこともあるのだから、なかなかにつらい職だなあと感じてしまう。まあ、この道を選んだのは自分なのだけれど。
 やっぱりその学校のレベルで生徒の雰囲気も変わるから、今までにオブラートに包んでいえば「腕白な」生徒たちの相手をしたことは何度もあった。それでも、三年間も付き合えばなんだかんだ関係性は築けるものだ。
 だからこそ、この高校に来たときにはびっくりした。いや、高校というより、このクラスの担任になったときと言ったほうが正しいか。とにかく、ここの生徒は初めから私の言うことに素直だった。もちろん、ありがたいことこの上ないのは確かだ。でも、今までの経験から、初対面の教師にここまで素直になるというのは、普通ではなかった。
 そして、私は生徒たちの態度を、こう解釈したのだ。私は、「信頼」されているのだと。私もその信頼に応えなければならないと思った。ただ、それが信頼という名のものではないということに、ほどなくして気付かされた。

 この学校では、本格的な夏が到来する少し前、六月の上旬に体育祭を行う。中高一貫ではないため、四月に顔を合わせたばかりの仲間たち。そこから二カ月ほどしかたっていないのだから、この機会にもっと仲を深めてもらおうと、私はひとり計画を練っていた。体育祭の準備が始まり、熱い思いを意気揚々とクラスに語り掛ける私。彼らの反応は、しかしながら想像したようなものではなかった。
「まあ、そんなに気負わずに、それなりで行きましょうよ」
「うん、疲れないくらいがいいな」
 別に、生徒たちの表情はいつも通りだった。特にやる気がないとかそういうわけじゃない。そのとき、私は気づいた。
「ああ……、そう、だね」
 彼らは、これまでの生徒たちのように反抗をしてこないだけ。確かに素直で、流れに身を任せてうまくいくように頑張っている。私に対する特別な信頼があるわけじゃ、なかった。

 私のクラスは、練習でどの種目もうまくこなすことができた。クラス対抗リレーも、ドッヂボールの学年リーグも。しかし、唯一苦戦していたのが、クラス別の長縄だった。リレーもドッヂボールも、苦手な人を上手な人がカバーすることができる。でも、長縄ではそうもいかない。一人が引っかかれば、全体に影響が出るからだ。それは、あとから追い上げられるとかそういうものではない。得意不得意は様々だが、クラスの中で特に長縄が苦手なのが、粟蘇さんだった。

「あの、先生。わたし、長縄でみんなに迷惑かけてばっかりで、申し訳ないというか……。それで、練習したいんですけど、一人じゃできないので、手伝ってもらえませんか」
 ある日、彼女から唐突にそんな言葉をかけられた。おそらく、負けず嫌いなのだろう。流れに身を任せるより、うまくできないのが嫌だったのだ。粟蘇さんと私の二人でできるのかとも思ったが、長縄の一端を適当なところに括り付けることで練習はできた。
 彼女とは、放課後に練習を重ねた。ほぼ毎日跳び続けたこともあり、だんだんと上達していく彼女の姿を見るのはやっぱり楽しかった。ある日、一人の男子生徒が練習する私たちの元へ寄ってきて、こう言った。
「先生、両方手で回さないと本番にうまく跳べませんよ。僕も手伝いますから」
 次の日には、別の生徒も来てくれた。
「先生、毎日練習してたら大変でしょう。ここは若い俺に任せてください」
 別に私だってそれほど歳がいってるわけじゃない、と思ったが、おとなしく任せることにした。いつしか、放課後の長縄練習はクラス全体が参加するものとなっていた。結局、みんな負けず嫌いだったのだ。長縄だけうまくできずに内心悔しかったのだろう。何より、少しずつ上達する感覚を楽しんでいるようだった。見ている私も、やっぱり楽しかった。
 体育祭本番、私たちは長縄で学年一位となった。

 あくまでこれは、きっかけに過ぎなかったのだろう。それから様々な行事や毎日を経て、私たちは二年へと昇格する。この学校ではクラス替えがなかったため、四月の始まりの時点で、みんな気心の知れた仲間のようだった。

「過労……ですか」
 日々の仕事は大変ではあったけれど、子供たちのためと思えば全く苦ではなかった。しかし、心が大丈夫でも体は持たないらしい。       
 結局、私は二年の十月半ばで倒れ、そのまま入院を余儀なくされた。ただ疲労がたまっていただけではなく、様々な病気を巻き込んでいたようだ。入院期間からして、あの子たちの卒業を見送ることは不可能だった。
 学校の教師として生徒を導く。それしか生き甲斐のなかった私が、いまさら人生に新しい目的を見出せるはずもない。黒板の前で無様に倒れたあの日から、私は無味乾燥な日々を送っていた。もちろん、子供たちはたくさん見舞いに来てくれた。そのころにはみんな受験に向けて準備を始めていて、志望校なんかを聞かせてくれる子もいた。かなり多くがここから離れた大学に行くようだった。新しい担任の話もしてくれた。私のこともまだ忘れていないようで安心したが、それも束の間のこと。だんだんと見舞いに来る生徒の数は減っていき、そして入院から数カ月が過ぎるころには、ゼロになった。

 ふと鏡を覗き込むと、その奥、カーテンの開いた窓の外に雪が降っているのが見えた。再びベッドに戻って、暗闇の中でちらちらと降る白を眺める。雪が音を吸収するというのは本当らしい。今日は、嫌に病室が静かだ。私が静かに呼吸する音と、様々な機械の音。あとは、何も。黒板をチョークが擦る音も、子供たちの喧騒もない。ただ、私一人という事実だけが強調されて――。
「根吹さん? 根吹さん、大丈夫ですか?」
 朦朧としていた頭に女性の声が流れ込んできて、意識が引き戻される。目を開けると、見慣れた顔の看護師さんがこちらを窺っていた。ドアをノックする音にも気づかなかったらしい。
「ええと、何か?」
「いや、届け物があってきたんですが、体調悪いですか? わたしの声があまり聞こえていなかったようですけど」
 心配をかけてしまったな、と思いながら、大丈夫ですと答える。すると、彼女は一枚の白い封筒を差し出してきた。
「――手紙?」
「ええ。差出人のところを見てください。中身は見ていないので大丈夫ですよ」
 そう言って病室を出ていく看護師を横目に捉えながら、受け取った封筒に視線を落とす。
 差出人は、粟蘇さんだった。慌てて封筒を破ると、中から数枚の便箋が出てきた。どれも丁寧な字で書かれていることが分かる。私は、いったん呼吸を整えてベッドに深く腰を掛けてから、読み始めた。
『拝啓 根吹先生
 お元気にしていますか? 最近あまりそちらに行くことができずにすみません。こちらはこちらで忙しいもので。もう、受験期に入っていますからね。依然として勉強は大変ですが、まあうまくこなしています。流れに身を任せているようでは、もちろんだめなんですけどね。
 話は変わりますが、わたしはこれから遠くの方へ行きます。遠くへ、というのは、物理的かもしれないし、あるいは心理的かもしれないけれど、距離が開いてしまうのは確実です。でも、わたしはあの場所で過ごした約一年半を忘れません。短い間ではあったかもしれないけれど、たくさんの仲間ができたし、私にとって非常に充実した時間であり、空間でした。あそこで今までに会ったことのない色々な人と接して得た考え方や技術は、今後の私の将来できっと役に立つと思います。私はあの場所と、あそこで過ごした時を忘れません。だからあなたも少しだけ、わたしという人間がいたということを覚えていてください。
 いつか、またきっと帰ってきます。 敬具 』

 ふふっ、と思わず口から笑みが零れていた。なんだか抽象的すぎる文章だなあ。現代国語の教師として、失格だろうか。でも、こうしてみると、みんなで過ごしていたあの頃を思い出す気がする。
 ふと視線を横に向ける。ちらちらと降っている雪が、街灯の明かりを受けてやわらかに暗闇を照らしているように見えた。


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