隣のあの子にまたたびを/白狐丸 『彼方』第11号(2023文化祭号)より
初夏の匂いを胸いっぱいに吸い込み、校舎もなんだか背伸びをしているみたいだ。近頃は雨続きで陰気な顔をしていたのに、気づけばずいぶん晴れやかな笑顔を見せている。
私はせわしなく昇降口に吸い込まれていく人波を受けとめながら、ぼーっと横を向いて、白く輝く校舎の外壁を眺めていた。しばらくすると、その人波も途切れてしまう。あたりの静けさに気がついた私は、ふと顔を行く手に向け、昇降口へ歩き始めた。
生徒たちが右往左往している昇降口をぬけ、教室へ入る。そこには、いつも通りあの子がいた。私の席は、窓際の一番後ろの列。つまり、教室の隅っこで校庭がよく見えるところ。その隣で、すんとすました顔をして綺麗なブルーの瞳を私に向けている。
「おはよ、薫」
軽く手を振って挨拶をするけれど、薫はその口をきゅっと結んだまま、返事をくれない。まあ、そんなつれない態度も、いつも通りなんだけど。
薫と初めて出会ったのは、入学式のとき。今と同じ窓際の席に着いて、初めましての面々を眺めていた。私はこの人たちと仲良くなれるだろうか、なんて考えて不安になっていたら、隣の薫が目についた。教室のちょっと緊張した空気を気にも留めず、舞い散る桜の花びらを纏っているように、さらりと校庭を眺めている。その綺麗な姿に、私の視線は引き付けられた。思わず、私が目の前で軽く手を振ると、薫はこっちを振り向いた。ちょっと驚いたような感じだったけど、私に向かってふっと笑ってくれた――気がしただけかな。薫は感情をあまり表に出さないタイプだから、分かんないや。
人と喋るのが得意じゃない私にとって、薫は唯一といってもいい友達。なんでかって、話さなくても、一緒にいるだけで心地いいからかな。薫は授業中でも教室を離れることが多いけど、放課後は必ず私と帰ってくれる。そんなときも、言葉を交わすことはない。二人で歩いているだけで、幸せなんだ。私が徒歩の通学でよかったって、つくづくそう思うよ。薫は、電車に乗れないからね。
二人での帰り道は、心躍るような、哀愁を帯びたような、なんだか不思議な時間。午後四時ごろ、徐々に沈んできた太陽に、二人の顔、体が一面茜色に照らされる。その影が重なると、薫と一つになれたような気分になる。私は薫のことを見つめていたけど、薫はじっと前を見つめていた。でも、私はそれで十分だよ。そう思ったとき、このきもちに気づいたんだ。私は、たぶん。――薫のことが、好きなんだ。
一度そう意識してしまうと、頭の中が薫だけで埋めつくされた感じがして、ほかのことが考えられない。学校に行く目的は、勉強じゃなくて薫に会うことになっちゃったかな。
私は、以前授業で扱った定理をもう一度証明しだした先生の声を頭からシャットアウトして、隣の薫を盗み見た。でも、薫は私の方には背を向けて、反対側の校庭を眺めていた。
いつも通りだなあ。そう思った。意識したところで、何の進展もない。このまま、薫がじっと外を眺めているみたいに、私も薫を眺めたままで終わるのかな。
決めた。今日の帰り、薫に私の思いを伝えよう。
昇降口を出ると、待っていてくれた薫がすっと隣に寄ってきた。その足は、いつも通り校門の方へ向いている。でも、今日の私はその体をつかまえて、校舎の端っこのほうに連れて行った。昇降口の喧騒が遠くのほうに消えて、同時に校舎の影が太陽の光を遮る。私の前にちょこんと座る薫の綺麗な顔は、今はよく見えなかった。私は、深い一息をついて、もう一度言うべき言葉を心の中で復唱すると、薫の瞳をじっと見つめた。
「ねえ、私……っ」
そこまで言って、結局やめた。私が薫に思いきり近づいたせいで、薫の顔が若干のけぞっている。私は、その大きく見開かれた瞳から視線をそらした。
そうだよね。そりゃ、そうか。だって、私たちは……。
そして、すっと立ち上がって薫に背を向ける。
「ねえ、私たち、これからもずっと、友達だよね」
そのまま歩き出した私に、薫はちょこちょことついてきてくれた。返事はいらない。それだけで十分だった。
校門を出て、ちょっと薫のほうを振り返る。そのとき、普段は気にもしない、学校名が書かれた銘板が目に留まった。それをちらりと読んで、すぐに目をそらす。そして、薫と並んで帰り道を進み始めた。
『御華ヶ丘女学院高等学校』
あんなに大胆なことをしたけれど、私たちの関係は驚くほど今まで通りだった。気まずくなるでもなし、かといって仲が深まるでもなし。付かず離れず、まさにそんな感じだった。
たまに思う。クラスのみんなは薫のこと、どう思っているのかなって。でも、そんなの面と向かって聞けるわけがないよね。私は、薫のことを独り占めしたい。みんなの気持ちを知ったら、それが叶わないと分かっちゃうかもしれないから。知らぬが仏なんて、本当によく言ったものだよ。
でも、クラスのみんなが薫をどう思っているのかを知るときは、意外にも早くやってきた。
ある日、いつものように登校して教室に入ると、見慣れた薫の姿がなかった。ただ、それは別に珍しいことじゃない。薫は授業中でも外をほっつき歩くから、今日もたまたま隣にいないだけかもしれない、そう思っていた。
けれど、お昼になっても薫は一向に顔を見せない。心配になった私は、隣の席でご飯を食べていた女子に聞いてみた。
「ねえ、薫って、今日どうしてるか知ってる?」
すると、その子はきょとんした顔で復唱した。
「薫?」
「そう。いつも私の隣に座っている、薫」
えっ、という顔をされたのは、正直意外だった。その子は、恐る恐るといった様子で口を開く。
「隣の席って……私、じゃないの」
話がなかなか伝わらないのにイライラした私は、少し声を大きくして、窓の外の、ベランダを指さした。
「隣って、そっちじゃない。こっち! いつもここに座って、私を見てる薫。帰りだって毎日一緒に帰ってるのに。分からない?」
教室側の隣の子は、若干おびえたように首を振った。
「そんなこと言われたって、知らないよ」
そこに、もう一人クラスの女子が顔を出した。
「渚ちゃんが毎日一緒に帰ってるって? 私、猫しか見たことないけどな」
やっと話が伝わったのか、それとも伝わっていないのかよく分からないけれど、私はその子に向かって言った。
「そう、そうだよ。猫の、薫!」
結局、五時間目の授業は出なかった。くだらない先生の話を聞くより、薫を探すのが最優先。みんなが教室でうとうとと頭を揺らしている中、私は薫のいそうなところを探して、息を荒げながら学校中を走り回っていた。
薫が校内にいるということはあまり考えられない。いるとすれば、校庭とか校舎裏とか、外に通じているところだろう。校庭の植木の裏ひとつひとつ、校舎の隅のだれも使っていなさそうな物置の中まで探した。でも、どれだけ探しても、薫はどこにもいない。半分泣きそうになりながら、ふと私の教室を見上げた、そのときだった。
「あ……、いた」
教室内からは死角になっている、ベランダの室外機の裏で、薫は気持ちよさそうに寝ていた。慌てて靴を履き替え、階段を上り教室へ急ぐ。
よかった。よかった、薫に何事もなくて。
教室のドアを、ガラッと力いっぱい開ける。クラスメイトと教師が間の抜けた顔でこちらを見ているのには目もくれず、ベランダへ向かう。もともと開いていたその窓を乗り越え外へ出ると、果たして薫はすでに目を覚ましていて、あくびを一つしながら、私のことを見上げていた。
その体をぐっと引き寄せ、やさしく、それでも力強く抱きしめる。
「薫、心配……、したんだよっ」
自分でも、ここまで、と思うほどなぜだか涙が出てくる。目頭をぬぐった手のひらに光る涙の跡を見て、私は理解した。
薫が、ミャーとひとつ鳴き、私に頭をすり寄せる。
やっぱり、私は。
いや、私も。
大好きだよ、薫。