やさしくなりたい/森澄香 『彼方』第16号(2024冬号)より
私には、トトロに似たおばさんがいる。半年旅に出ます、と言って出ていってしまってみんなに心配されているけれど、きっとマイさんのことだから、いまごろはよくわからないイタリア人と飲み会でも開いているのじゃないかと思う。
ジジジジ、と夏の終わりの蝉のような声を出して目覚まし時計が遠くで鳴る。ベッドの横に目覚ましを置いたら意識もないままに止めてしまうことがわかったから、ベッドから出ないと手の届かない机の上に置いてある。いちにのさんで布団をはがして、飛び上がって目覚ましのボタンに着地。私の分身の小人たちが頭の中でわぁっと歓声を上げて、潔くベッドから出た私を全力で褒め称えてくれた。
「ハロウィン、終わっちゃったなぁ」
パジャマのボタンをはずしながらつぶやく。ハロウィンの日一日中、なにか被るものでも買おうか、でも買ってつけたところで誰に見せるんだ、かわいいーっと私よりもっとかわいく反応してくれる友達もいなければ、私を見て爆笑してくれるようなすてきな恋人もいない。どうでもいい葛藤を抱えながら百均にふらりと立ち寄った頃には店内はクリスマスの準備をはじめていた。
「じゃあ、マイさんが旅に出てから半年たったんだ」
マイさんは私のお母さんのお姉さんにあたる人で、ひかえめに言っても、ちょっとふっくらしている。キキの仮装をした私とならんでいたら、グレーのパーカーをトトロの仮装だと間違われたくらい、を想像してほしい。
マイさんは何をやっているのかよくわからないひとだった。お母さんに聞いても「わたしもよくわからないのよ」の一点張り、家にこもって何ヶ月か顔を合わせないときもあれば、突然ふらりと旅に出て一ヶ月帰ってこなかったりする。今回はそういういつものとはすこし違うような空気を感じるけど、ほんとうのところはよくわからない。でも、あのふざけた人のことを私は好きだから、そろそろひさしぶりに顔が見たい。
「芽衣、ごはんできたからはやく用意してー」
「はあーい」
焼き上げた魚とごはんと味噌汁が、いつもの朝ごはん。朝はやくから鮭を焼いて洗濯もまわして疲れた様子のお母さんは、いすに座ってため息をつき、三秒間ぼーっとして立ち上がる。いっしょに朝ごはんを食べることはない。
「面談の希望書、机に置いといたから出しといてね」
うん、と私はもぐもぐしながら答えて、小さく流れるジャズに体を揺らした。その紙、締め切りは二週間後なんだけど。
今日は雲が多い。大声で叫んで雲を吹き飛ばしたい気持ちに駆られるけど、お母さんに聞こえるくらいの声で、いってきます、とつぶやいた。
マンションのドアを開けるとそこは見慣れた二階の景色で、目の前のお屋敷の木が伸びてきて、落ち葉を落としていた。しゃりしゃりとそれを踏み鳴らしながらリュックを背負い直す。
今日は土曜日だから四限までですむ、放課後は美術部があるけど休んで家で映画を見ようかなあ。誰のことも傷つけない小さな適当さが、今の私はものすごくほしい。
「おはよ、メイ」
「ん、おはよ、トーマス」
後ろから小走りに追いついて私に話しかけてきたのはトーマス、もちろん外人じゃない。新聞記者になりたい、と言っていたら記者が変化してトーマスになってしまったらしい。ポニーテールのかわいい髪型とトーマスのミスマッチがおかしくて、トーマス、と呼ぶとすこしにやけてしまう。
「ねえ聞いてよメイ。きのう黒田くんにハロウィンクッキーあげたら、ありがとって言うの! すごくない?」
えええ、と素直に驚いて声を上げる。黒田くんはトーマスが一年間片思いしている相手で、女子に塩対応なことで有名だ。塩対応、というか、毛嫌いしている感じ。きっと自分の見た目に吸い寄せられて媚びを売ろうとする女子たちにうんざりしていて、でも褒められていないと満足できないんだろうな、と想像する。話しかけたら露骨に嫌そうな顔をされた、とクラスの女子が言っていた。顔はかっこいいのに、と数々の女子たちが黒田くんのまわりから去っていくなか、トーマスだけはいつまでも熱が冷めない。
なんか挑戦なんだよね。まったくこっちに興味持たない感じがおもしろくて。ノラネコに歯をむきだされると、追いかけたくなっちゃうっていうか、とトーマスは言っていた。ふうん、私は威嚇されたらおとなしく逃げちゃうけど、と思って、でもそういうトーマスのことがすこし好き。
靴箱の前で、ばいばい、と手を振って別れる。トーマスと黒田くんのことに思いを馳せていたら、つまらない先生たちの授業が流れていった。
放課後はやっぱり美術部を休んで、ふと思い立ってサッチのところに行くことにした。クラスは違うけどちょうど一年前仲良くなった彼女は、いつ訪ねても驚いた顔ひとつせずに家に招き入れてくれる。親はいるみたいだけど、ほとんど帰ってこない、とサッチは笑っていた。
彼女の本名は森さつきで、マイさんが住んでいるアパートのとなりの部屋で暮らしている。というか、それがきっかけで知り合ったと言っていい。
私はマイさんの話を聞くのが好きだった。何をやっているのかは教えてくれなくても、いろんな場所でおきた楽しい出来事をたくさん話してくれた。私のまわりのむかつくやつらも、彼女の手にかかれば全員友達だった。マイさんのまわりの大人はその明るさが嫌いな人もいるみたいだけど、私はそうは思わない。
一年前のこと、私はマイさんに会いにアパートを訪れていて、マイさんが帰っていないようだったから手すりによりかかって待っていた。そうしたらカキをスーパーの袋いっぱいに買って重そうに帰ってきたサッチが「そこあたしのうちだけど、どいてくれない?」とすこし不機嫌そうに首をかしげてみせた。
私はサッチのことを凝視して記憶の毛玉をほどき、学校の中で見たことがある、たしか隣の隣のクラスの生徒だと結論づけた。
「あ、ごめんなさい、人を待ってたんだけど邪魔ですよね」
ふーん、サッチは興味なさそうにつぶやいてから、思い出したように「カキたべない? 買いすぎたんだけど」と言って袋をかかげてみせた。
それだけで仲良くなった、というのは端折りすぎだけど、それがきっかけで知り合ったのはまちがいない。今のところはお互いに親友と呼べるほど距離が近くなくて、でもそのくらいがちょうどいい。
チャイムを鳴らしてぼーっとしているとサッチが出てきて、お前か、という顔をした。それを見て私は、
「とりっくあんどとりーとっ」
と言ってずかずかと部屋にふみこんだ。そういう私も私だけど、部屋にあったキットカットの袋を私になげつけてくるサッチもサッチだ、だから私たちはおたがいに遠慮することをしない。
「ねえまって、ツッコむべきところが今日のあんたには多すぎる」
私は、きいてやろうというふうにうなずく。
「まずトリックアンドトリートって欲張りすぎない、せめてどっちかにして。あとハロウィンは昨日。それから、そんなこと言うくらいなら仮装のひとつでもしてきて?」
まあね、と私はうなずきながら、目の前に落ちたキットカットの袋を持ち上げて、食べていい?と聞いた。
やっと二人で落ち着いてちゃぶ台の前に座る。
サッチは他人のことなんか興味ないってポーズをしながら、怖いくらいひとのことをよくみている。いいところだけじゃなくて、私が誰かに気づいてほしかった私の性格の悪さも彼女はよくわかってるのだと思う。サッチの前だとやさしくなりたい私を捨てていられる。マイさんは世界がいいようにしか見えてないような人だったけどそれもきっとポーズだったんだろうなあと最近思っていて、だから、どこかサッチとマイさんは似ている。
「ねえ芽衣はさ、やっぱりマイさんのこと心配?」
「んー、」
サッチも部屋が隣だったのだからマイさんとは多少の付き合いがあったと思うし、やっぱりマイさんのことが心配だったりするんだろうか。
「なんか正直、あんまり心配してないっていうか、半年ってはっきり宣言した以上、マイさんのことだからどんな事故に巻き込まれても生きて帰ってきそうっていうか。こんなふうに思うの、おかしいと思うけど」
いや、とサッチは首をふって笑う。
「わかる、あたしもそんな気がするの。今にもそこのインターホンおして、おみやげを渡してくれそうな」
二人で顔を見合わせてふきだした。でももうそろそろ帰ってこないかな、と言い合う。
まあまさか、本当にそうなると思ってたわけじゃないんだけど。
そのとき私たちは、二人でどうでもいいこととも真剣なことともつかない話をしながらお菓子を食べていた。
「だれかをばかにして楽しんでるやつらの気持ちがわかんない。けど私もいつかそっちにまわることがあるかもしれないって思って最近気分さいあくなの」
「みんな自分なりの守り方があんの。芽衣はそうやってつっぱねることで守ってるけどそうじゃないひともいるってだけ」
私はむくれて、サッチは笑って言った。
「やだな、そういう芽衣のことがみんな好きなんでしょ? だから事実、つっぱねがちな芽衣のまわりには人がいる」
マイさんは私のほしいところに返事を返してくれていたけど、サッチはすこし違う。サッチはときどき私の痛いところをついてきて、それでも私の近くにいてくれるから、サッチといっしょにいると落ち着くんだろうなあ、と思う。学校での会話のような派手さはないけど、トーマスのように喜びや驚きに素直になれない私たちはその暗さがお互いに気に入っている。
なんて思ってしみじみとしているときに、突然インターホンが鳴ったのだった。
「あれあたし、宅配なんて頼んだかな」
つぶやいてサッチが玄関に向かって、私はそれをぼーっとながめていたのだけど、その二秒後私たちはひっくりかえることになった。
「え、マイさん、?」
ドアの向こうに背中から光を受けて立っているのはたしかにマイさんだった。前よりすこしやせたように見えるけど。
「森さん久しぶり、長旅から帰ってきておみやげがあるのよ、一人じゃ食べきれないからもらってちょうだい」
マイさんは私がいるなんて思っていないから玄関で立ち話を始めようとしている。私はあわててかけだしてサッチを押しのけるようにして叫んだ。
「マイさん!!」
マイさんは一重の目を大きく見開いて「芽衣ちゃん、ええなんでいるの? 家出でもしたの?」と見当違いなことを言って私たちを笑わせた。
「マイさんこそ、それギター? なんて背負ってどうしたの?」
マイさんはちらりと自分の背中に目をやって、あー、と恥ずかしそうに笑った。
「実はさ、あんたのお母さんに言うなって言われてたんだけどもう言っちゃうわ。あたし実はギタリストやってんのよね。そこそこ有名な人のライブ出たりして」
え、と言ってかたまる私にサッチとマイさんが目くばせをして笑って、私はさらに混乱した。
「芽衣はお姉ちゃんのことが大好きだから、ギタリストになりたいとか言い出したら困っちゃうし言わないでね、て言われてたの。森さんは私がギター弾いてるのが聴こえるんだけど、って言ってきたから前に教えたんだよね」
ねー、とサッチが言い出して、私は笑うしかなくなった。心配してた私がばかみたいだ。
「さ、今回の旅はね、おもしろいことがたくさんあったの。聞かせてあげるから二人ともあたしの部屋にきな」
はーい、と言って二人で靴をつっかけてかけだす。やっぱりマイさんだもの、こうでなくっちゃ、とひとりで笑った。