飴と鞭と/安彦雫 『彼方』第14号(2024梅雨号)より
星の見えない夜の空がじわじわと俺を締め付ける。道端に咲くシクラメンは妖艶な紺色を醸し出し黄土色に光る錆びた街灯は侮蔑するように屹立している。
今の俺はくたびれたスーツと踵の柔くなった革靴を履いてネオンが光る〝高級街〟に出勤するサラリーマンだ。今日も上司にこってり絞られ残業じまいだ。
数年前、俺は東京に就職すべく上京してきた。そして必死で標準語を体に叩き込み多くの会社の面接を受けた。そんなかで唯一引っかかったのが今の会社だ。自分でも受かった理由はわからなかったが何が何でも食らいつこうと躍起になった。それでも社会は単純じゃなかった。周りの同年代は同期と気軽に呼べるものではなかった。一流企業だけあってあっという間に仕事を覚え、上司の目の色も変わっていった。すぐに闇は侵食していく。できないってわかっているのに多くの仕事を有望株の分まで押し付ける。トイレに立っただけで上司たちは眉をひそめる。それらに俺はただただ従って灰色の液晶を睨みつけるだけだった。
飲み屋が続く狭い一本道をとぼとぼと歩いていると若い男にぶつかった。男はかなり酔っていて大きな舌打ちをしてわけのわからない文言を唾とともにつらつらとあほ面をしながらまき散らしている。すると男の背中の方から図太い声が聞こえた。
「どうしたんだ、新人、いや佐々木君。」
「あ、部長、聞いてくださいよぉーこのクソリーマンが俺にぶつかって来たんす。」
「わが社の大事な試金石に何してくれてんだこの野郎!」
どうやらこいつも酒臭い。何を話しても無駄だ。そう思い来た道を引き返して別の道で一目散に家に帰る。
「犬崎部長、あのくそ逃げました! はやく…」
やっとアパートにつき薄い色あせた扉を開く。大きなきしむ音がする。靴を脱ぎ五歩歩いた先にはもうすでに古びた食卓がある。冷蔵庫からあまり冷えてないビールを出して乱暴に開け一気に流し込んで握りつぶす。
指の跡がくっきりついた缶をみると少しすっきりした。頭がくらくらしてくる。ふと何かが心に引っかかった。頭にあの男が鮮明に浮かんだ。あの男は同期の…
その瞬間無性に腹が立った。自分より優れた同期とはつゆ知らずその上の存在におびえた自らが馬鹿らしくて何もまたできない自分が惨めで。必死に足掻いても何もかも無駄で。
そこら辺にあった段ボールを思いっきり蹴る。少しヒリヒリと足がしたがソファに身を預けた。
気付いたら窓から光が差し込んでいる。ゆっくり起き上がりスマホを見るともう昼であった。今日は休みなのだが昨日のこともあって目覚めはよくない。再び寝ようとしたとき、玄関のチャイムが鳴る。宅配業者が玄関前から去るまで待つ。足音がどんどん小さくなっていく。ゆっくりドアを開けて段ボールを家に引きずり込む。宛名を見ると実家からだった。東京に来てから初めての郵便だった。
俺の親父は東京に行くことに断固反対だった。俺がいくらいい成績をとろうが運動ができようが自分の零細企業を継がせようとした。対して母親は俺の自由にさせてくれたのだ。俺が二十歳になった時、母親はこっそり俺に金を渡してくれた。それからなにも音沙汰がなかった。
すぐにガムテープを外して開けると中には野菜や調味料などの食材や飲料がたくさん入っていた。一つ一つ丁寧に取り出していると小さい封筒が手から零れ落ちた。封を開けると懐かしい家の香りがした。
「柊斗へ
たまにはこっちに帰ってきてはどうでしょうか。お母さん、待っています。」
これだけだった。あまりの文脈の薄さに拍子抜けしながらも母親らしいと思った。手紙を大切にしまいながら荷造りの準備をしようとした。
数時間後、小さい部屋の中に重苦しい電話音が低く鳴り響いた。恐る恐る耳に当てるとまた奴の声が聞こえる。
「おい、櫻井、明日の休みなんだがお前会社来い。どうせ仕事終わってねえんだから。」
「……」
「じゃあよろしくな。明日待ってるわ。」
その言葉に背筋が凍る。
「……」
もう言葉も出ない。とぼとぼと荷造りをほどいて箪笥や棚にしまう。外は少し激しいお天気雨が降っていた。
今日がきてしまった。これこそまさに『憂鬱な日曜日』だ。ベッドから出ようと思っても体が硬直して動かない。朝ご飯はベットのすぐ隣にある机から寝ながら菓子パンを取り天井を見つめながら口を動かす。まるで植物みたい…そう自分でも思えてしまう。
スマホがアラーム音を上げる。みてみると
『上司に怒られる時間』
と題名付きのアラームがスマホ一面に映し出されている。知らないうちに自分が、上司に、強大な壁にひれ伏しているのが分かった。自分は会社の奴隷どころか玩具のように思えて情けなくなった。それでも俺はネクタイをしめスーツを着る。親父がざまあみろと言っている気がする。
今日もこってり絞られ気付けば夜だ。コンビニでカップラーメンを買う。なぜだか店員の態度も横柄なように見えた。壊れかけの街灯はモールス信号のようにチカチカ虚しく今日も動く。
アパートに着く。部屋に行くと扉の前にまた昨日と同じような段ボールが置いてある。すぐに腹に抱え部屋に持ってゆく。開封すると一昨日と同じように実家からの贈り物だった。またあの封筒も入っている。
「柊斗へ
炬燵の中で食べるミカンは格別ですよね。是非こっちに来てね。」
またこれだけだった。なんか物寂しい感じもする。段ボールをつぶそうとひっくり返した時何かが落ちた。拾ってみてみるとタバコだった。しかも親父が好きなものだった。きっと母親が間違って入れたのだろう。もったいない気がしたのでライターを探し近くの公園に行く。
夜の公園は昼とは違って衰え、冷たい。数年間動いていなそうなシーソーの低い方に腰を掛ける。当たり前だがシーソーは全く動かない。たばこの先を手で覆いライターで点火する。ぼわぁと立ち込めた煙は空気中で留まりながらもすこしづつすこしづつ暗い空に向かって上ってゆく。ふとタバコを吸いながらシーソーの上がっている部分を見ると同期が、そしてあの上司がいるように見えた。それらはおもいはずなのに一向にシーソーは変わらない。奴らの目がおれを見下している。皆にやにやしながら俺を見ている。
それが怖くて急いで踵を返す。背後から奴らの手がすぐそこまで伸びているような気がした。夜中十起きては寝るを繰り返した。
いつの間にか目が覚めた。昨日部屋でタバコを吸ったため、まだ煙たい。さっさと着替えて出勤する。
監獄についた。重厚なエレベーターに乗る。人を運ぶだけの機械だが、それがとてもうらやましく思える。
席に着くとすぐ上司が絡んでくる。
「やぁ、どうだい仕事は? どうやら慣れてなさそうだねぇー。勢いがいいのは最初だけかぁ。まぁきみだからしょうがないよねえ。頑張れただの親不孝が。」
〝ただの〟という言葉が胸に引っかかった。確かに自分は親父の反対を押し切って母親の甘さにかまけて東京という身の丈に合わない地にわが身を置いた。だから、親不孝と言えば確かに親不孝だ。だけれどもこっちのことを何も知らないような中年にとやかく言われる筋合いはないだろう。拳に力が入る。腕に青筋が浮かぶ。頭に血がのぼる。でも、どうしても手も足も口も出なかった。
喫煙所であのタバコを吸う。ふわっとした煙が目をぼかす。上を向いても少し黄ばんだ天井が見えるだけ、それだけだった。
今日もあのダンボールはあるのだろうか、そう思いながら家に帰る。それが少しの楽しみであり、母親だけを思える幸せなひとときになってきた気がする。一歩一歩を踏みしめながら家に着いた。玄関前に置いてある、今日もあのみかん箱。すぐに抱えて中に入り封を切る。中には日本酒となぜかスイートピーで作った栞といつもの封筒が入っていた。
「柊斗へ
どうやらこれが最後になりそうです。これからも 頑張ってね」
きっと俺への〝仕送り〟が親父にバレたんだろう、そう思うと腹が立つ。上司も親父も、同期もみんなみんな同類だ。悔しくて何もできなくて、情けない。そう思ってもやるべきことすべきことなんてわからない植物と同じだから。乾いたスイートピーのすごく淡い桃色がよく映えている。
何も変わらない太陽は誰の味方をしているのだろう。まだ少し暗い外からはうるさいバイクが走る音が聞こえる。いつも通りくたびれたスーツとネクタイを身に着ける。
ふと、昨日の段ボールが目に入った。まだ畳んでいなかったようだ。手にとってぺこっとつぶした瞬間、手紙の内容がふと頭に浮かんだ。
〝最後〟という言葉が自らにとって相当な意味になるような気がした。急いでインターネットで新幹線チケットを取り上司にすぐ欠勤のメールをした。その後すぐに返信がメンヘラのようなスピードできた。字面を見ると相当怒っている。電話が何度も何度も無視してもかかってきた。同じような音調がゲシュタルト崩壊のように心を狂わせる。でもやめようとは思わなかった。ちょっとでも心を軽くするまめにメールアプリをホーム画面から削除する。
急いで駅に向かう。太陽は背中側からジリジリ照っている。
新幹線の中は冬休みのためにカップルや子連れで溢れていた。温かい会話や笑顔が垣間見える。それとは裏腹にメールの件数は増え、引き攣ってゆく。
トイレに駆け込んで両頬を叩いて自らを鼓舞しようとするがうまくいかない。母親の容態がとても気になる。外はタワーが減って空き地や田んぼが増えてきた。自然と心もなぜか落ち着く。窓から差す日は不思議と心地よかった。
久しぶりの実家はよそゆきに見えた。ピシッとスーツとネクタイを整える。深呼吸をして黒い戸を開くとその奥には母親がいた。母親はこっちを見るとびっくりしたような顔で駆け寄った。なぜだか少し涙が出てきた。
「柊斗、突然あんたどしたの! しかも少し泣いちゃって。なんかあったとね?」
少しある訛りが余計懐かしく、芯に響いた。
「ちょっと待ってて。お父さん呼んでくるから。」
余計なことをしなくて良いのに、すぐやろうとするのも母親らしい。会いたくないのに、断れない。
上司とは正反対の心地よさだ。
家に上がってすぐ親父の部屋に向かう。障子を開けた先にいた彼は白髪混じりの頭とシミの増えた顔が際立っている。将棋の本と睨めっこしながら指を震わしながらゆっくりと指している。
「仕事はどうなんだ? よくやってるか?」
「……」
しばらくの沈黙が続いた。すると親父は
「煙草はうまいか?」
そう聞いた。初めは唐突に聞かれ意味がわからなかったがすぐに理解した。
「うん、うまいよ」
「そうか、よかった。頑張れよ」
涙が出てきた。ズボンを握りしめる。シワが濃くなってきた。親父はしわしわの手を頭に乗っける。ずっと涙が出てきた。夕日が親父の白髪に反射しキラキラと輝く。温かい光であった。
あのあと一週間後、親父は突然亡くなった。その時の親父は微笑んでいたらしい。親父は俺と会いたかったのかも、そう考える。ちょっとはあったのかもしれない。
親父、もっと早く気づいてあげれば。
ゆっくりと手を合わせあの煙草の箱から一本抜き取って備える。吐いた煙は空にどんどんのぼる。
眩い太陽の光が墓石を照りつける。水滴が虹色に光っている。
「ありがとう」