宵闇と朝陽と、そしてもう一日/来田千斗 『彼方』第15号(2024文化祭号)より
ボストンの大学群から電車と乗合自動車に揺られ一時間ほどの所、森の中の道を進んだ先に小さな家がある。その家の主は雨音に紛れるかのようにドアベルが鳴った時、丁度夕食を終えたところであった。
配給の機能食の方が健康性も味も、恐らく環境親和性も良いのであろうが、彼は週に一度伝統的な農場生産品を食すようにしていた。それを止めてしまえば、自らに、権力に屈したということを今度こそ本当に思い知らしめてしまうように感じていたから。
扉の前には、息も絶え絶えの薄汚れた二人組がいた。一人は二十代半ば、もう一人はティーンエイジになるかどうかといった子供であった。
「ハーバード大学現代史学部のイアン・ターキースン教授、ですね?」
「ああ、そうだが……」
突然の訪問者が自分のことを知っていたという事に戸惑うイアンの前で、年長の訪問者はばたりと倒れた。年少の方はその時には既に意識がなかったようであった。
「ああ……一体何なんだ?」
近頃は幾分か改善したとはいえ未だギャングが幅を利かせるこの邦に、見ず知らずの相手に命を預けるような人間が存在するとは、と彼は驚きを隠せなかった。とはいえ彼は手の込んだ殺され方をするような心当たりも無かったし、なによりもうずっと退屈していたから、とりあえず彼らを室内に運び込んだ。
そう、彼は退屈していた。今もいくつか講義を受け持ち、週に一度は町まで出て学者仲間たちと歓談する。しかし、それ以上のことは出来ない。論文の査読は誰からも断られ、大学改革会議からは招待どころか開催連絡すら来ない。自らの反体制的な言論のせいだろう、とは解っていた。自由な学問の場であるべきといわれる大学とて、権力からの完全な独立を保つ事は出来ない。当然の、しかし苦々しい事実だ。
「この顔、これは……⁉」
窓から差し込む朝陽に、イアンは目を覚ます。普段と少しシミの形が違う天井を見て、突然の来客にベッドを占領され昨日はソファで眠りについたことを思いだした彼は、慣れない寝相のせいか痛む腰を抱えて体を起こした。四十路を前にしたほんの小さな変化ではあるが、寝辛い場所で一夜を明かす程度で痛む身体は老化の事実をはっきりと示していた。寝室の戸を叩くと、意外にもはっきりとした返事があった。室内に入ると、大人の客人は椅子に腰かけ、子供はその後ろに不安げに隠れていた。
「汚い部屋で済まない」
イアンは彼らにぶっきらぼうに話しかける。彼はそういう人間なのだ。彼がもしあといくらか物腰の柔らかさと感情を仮面の下に隠す術を備えていれば、今も演壇に立ち続けていたのかもしれない。それが彼の本意であるかは定かでないが。
「いえ、見ず知らずの私たちを助けていただき、ありがとう…」
子供の腹が鳴る音が響く。
「待っていろ、すぐ朝食を用意する」
「いえ、貴重な配給品を頂くわけには…」
「いくらかは自給しているし、余剰糧食を買うだけの余裕はある」
スープをがつがつと掻き込む子供。
「突然押しかけてしまいすみません。独立系ジャーナリストのアースリン・ミュールです。そう、押しかけて来た要件、というか…それが、この子です。いくらかお察しとは思いますが…」
「やはり、ステファナ・フィーガードのクローン…というわけか」
「はい。カナダで養育されていたのを助け、北米大陸50万人ともいわれる流民に紛れてここまで連れてきました。ある程度の知名度のある反体制派で接触できそうだったのはあなたしか居らず、頼ってきた次第です」
「そうか…」
ステファナ・フィーガードとは、現在世界の半分を支配する大企業「フィーガード・コーポレーション」の創設者にして社長である。戦乱を治めた彼女が権力を握ってから半世紀、世界の治安は比較的に改善し、体制に従順な大半の民衆は極めて安価な税金である程度の生活水準を享受し、特に大きな不満も見受けられない。しかしその一方で、ステファナは自らのクローンに意識と記憶を移植することで永遠の若さを保っている。その倫理的な問題を包有する事実は公然の秘密として誰もが知るところではあるが、彼女の先述の業績から表立った非難は避けられていた。
「それで、私を頼ってきて、君はどうしようというのかね?」
「私は以前から、唯一人の人間に全ての権力が集中する現体制を批判してきました。確かに現在、世界の情勢は比較的に安定を見ていますし人々はある程度の安寧を享受している。これを批判するなどテロ行為である、そう主張する人々が絶対的な多数です。しかし、いつステファナ・フィーガードが暗君に転じないとも限らない。民主的に選出された審議会は存在しますが、効果的な抑止力は持ちません」
「そう、そうだな。全世界に存在する反政権派勢力の大半と同様の、至極最もな理由だ」
空腹を満たして人心地着いたのか、辺りを見渡して緊張した面持ちを浮かべる少女の顔を、アースリンが覗き込む。
「大丈夫。あなたは、死の運命から逃れられた。私たちが、きっとあなたを助ける。この人が、きっと」
「……、ミュールさん、あなたが悪い人ではないということは旅の中で解りました。あなたたちは、なんの為に私を攫ったのですか?」
「それは……前にも言ったように……」
「それについては考えましたが、どうにも腑に落ちませんでした。そもそも、私は生まれてこの方ずっとあの施設で過ごしてきました。私は、王の依代。それ以上でもそれ以下でもない、唯それだけの存在。これからも、そうであるしかない、それは疑義を差し挟む余地のない完全な事実、そのために良質な器となるために、生きてきた……」
「だから、私たちなら、あなたをその軛から解き放てる、」
「解らない。あなたの言う自由とは何か、何のために命を賭してまで権威に抗するのか、何も……」
その時、イアンが口を開いた。
「解らなくてもいい。誰もそんなことは解らない。解らないからこそ人は自由に憧れる。どんな時代にもどんな場所にも決して存在したことの無い、完全でしかも個々人が理知的な自由、そんな時代を、私は目指している。そのためには権力の相対化が不可欠であり、私は今それを目指す段階にある。もちろん君も、何のために作られたのか、それに関わりなく自由だ。君は、人間だ」
少女に目線を合わせ膝をついたイアンは、一語一語をゆっくりと、噛み締めるように発話し、語りかけた。
「……解らない」
「それでいい。気の済むまで考えろ」
思索を始めた少女をそっとしようというように、イアンは皿洗いを始めた。
「あ、手伝いま……」
「いや、いい。……彼女はなんと呼べばいい?まさか『ステファナ・フィーガード・クローン』と呼ぶわけにもいかないが……」
「施設では『フィフス』と呼ばれていたそうです」
「フィフス?五番目、のフィフスか?」
「はい」
「ふむ……フィーガードが東カナダを平定したのが三十年前、国家と呼ぶに足る存在、法の支配の外の存在になったのが五十年前、ステファナ・フィーガードは約十五年ごとに若返っているから、まだ三か四番目のクローンのはずだが、計算が合わない……いや、今はその追及をしている暇はない。フィフスの身体にはGPSが仕込まれているはずだ」
「やはりそうでしたか……」
「我々を泳がせている、ということはつまり我々などいつでも捕らえることが出来る、と彼らが自信を持っているということだろう。さて、どうしたものか……」
「私の知己の闇医者がニューヨークにいたはずです。彼ならフィフスのGPSを外せるはず……」
「いや、一度この家を出たが最後二度と生きては帰れないだろう。それならば、頼る当てがある。『自由福音の会』、FGSだ」
「まさかあそこを頼るのですか⁉」
「ああ。相当狂信的な集団だが、その戦力は頼りになる」
「彼らを頼ることも考えたのですが、理想が違いすぎる、と」
「そう……ここも恐らくすでに包囲されている。一歩間違えば全員蜂の巣だ。武力での抵抗にはこれしかない」
「……行きましょう」
意外にもこれといった妨害はなく、三人を乗せたオンボロ車は内陸部のFGS支配区域へと足を踏み入れた。砂漠に長々と横たわる鉄条網、その隙間の検問所から域内へ入る。そこからまたしばらく車を走らせ辿り着くのが、FGSの要塞都市、「神と共にあるがための地」、またの名を「サマエルの血窟」。死を司る悪魔の名で呼ばれるその町はやはり、むせ返るような血の匂いに満ちていた。フィーガード麾下の兵士の首がいたるところに晒され、「背信者」が石打に処される。
「イアン・ターキースンが来た、と教会長に伝えてくれ」
町の中央、大教会の入り口。受付にイアンがそう言う。
「同行者様もお名前をお知らせください」
「アースリン・ミュールです」
「そちらの子供は……」
フードを目深に被ったフィフスにカメラが向けられる。
「……」
「フィフス・スミス、です」
アースリンが助け舟を出す。彼女もまたフィーガードの被害者である、しかし一方で彼女の正体はこの町の狂信者たちの殺意を掻き立てるには十分であり、隠し通される必要があった。
「どうぞ、お入りください。教会長様がお待ちです」
微かな機械音と共にゆっくりと開いた扉の中へ入ると、身体が浮き上がるような感覚と共に部屋はゆっくりと地下へ潜っていった。息苦しさと不安の入り混じった中で誰かが口を開こうとした時、殺風景な部屋に不釣り合いな荘厳な鐘の声が鳴り、ゆっくりと止まったエレベーターの戸が開いた。
「やあ、久しぶりだな、イアン。遂に我々と志を共にするつもりになったか?」
地下深くとは思えないほど巨大で荘厳な、かつてバチカンにあったそれを思わせる大聖堂、エレベーターはその入り口にあり、そしてその目の前にイアンと同年代と思しき男が一人立っていた。
「久しぶりだな、イアン。やっと、我々と志を共にする気になってくれたのか?」
「そういうわけでもないがな、君に頼みがある」
「ハ、これも神の思し召し。なに、ここには俺しかいない。とって食いやせん、フードを取って差し支えなかろう、お嬢さん」
フィフスが恐る恐るといった風にフードを外した。
「私の正体を……分かっていたのですか?」
「検問所のちんけな監視カメラは誤魔化せても、大教会のカメラにははっきりと写っていたさ」
「……私はステファナ・フィーガードのクローン、フィフスです」
「それで、イアン、これはどういうことか説明願おう」
「それについては、私から説明させてください」
アースリンが前に進み出る。
「……ターキンスン教授には車中で話したことですが……私は、いちジャーナリストとして、現在の独裁的な体制を批判してきました。確かに、社会はいくらか安定したのかもしれない。しかし、権力の一点への集中は、それそのものただそれだけで社会に対する巨大なリスクとなりうる。それは、歴史に裏打ちされた明確な事実です。確かに名君の独裁下での平和と繁栄は存在した、けれども一生涯常に名君であった君主は少数です。そして、完全に機能する民主主義は、悲劇へのストッパーとなる。しかし、現在、超法規的な存在として君臨する人間が、その権力を手放し民主的な体制を築こうとするとは考えられない。彼女が暴君に転じたその日に、人類社会の半分、場合によっては全てが危険に晒される。だから私は、現在の独裁によって命を奪われようとしている人を通じて、民衆に立ち上がるよう呼びかけようと考えました。それとは別に、私は以前からクローンの命を犠牲にして自らを延命しようとすることそのものに反対してきました。クローンは完全な人権を認められた一個の人間として扱われるべきである、そう定めた法に150年前強く賛成した張本人である人間が、あろうことこか自らのクローンを作り出し、その自意識を抹消して実質的に殺害し、自己の延命のための道具として使っている。それを罰することのできる機構が存在しない以上その犯罪行為は見過ごされています。権力を利用した悪行、それは決して許されていいことではない。しかし、私がいくら声を大にして叫んでも、権力に掻き消されてしまう。声を届けるためには、より人々の心情に訴える、共感されやすい方法を取る必要がある。そこで私は身分を偽ってカナダの山奥にあるフィーガード社の研究所に潜り込み、監視の目を掻い潜ってフィフスを連れだしここへやってきました」
アースリンの言葉をそこまで聞いて、教会長と呼ばれた男が口を開いた。
「申し遅れた、私は名を林ケーズという。ターキンスン教授とは学生時代からの付き合いでな、こうして会うのは五年ぶりになる。私の望みは、現在の、人間により支配される穢れた社会を、神の意志のもと美しく統率されたものへ作り変えることにある。それは、この城に集う我々全員に通底する願いだ。そのために我々は強固な武力を調え、目的に向け一歩ずつ近づこうとしている。敵、味方、無辜の市民にも多くの血を流させている、しかしそれは必要な尊い犠牲だ」
「神の意志……?聞かぬ言葉だな。以前は確か、聖書に基づいた審判を下す組織を創る、ということだったと記憶しているが……」
イアンがケーズに尋ねる。
「神の意志が、我々の知るところとなった、ただそれだけだ」
「どういうことだ?」
「すまないが部外者に軽々しく話せることではないのでな」
「……そうか」
「さて、アースリン・ミュール。君は、何のために戦っている?我々は、それが神の意志にに叶うか否かによって君に協力するかどうか決定しようと思う」
「私は……」
アースリンが口を開きかけたその時、遥か上方から爆発音らしきものが聞こえたかと思うと、聖堂の天井にびっしりと敷き詰められたステンドグラスがビキビキと音を立て、聖堂の上部に存在する構造がそれを唖然として見上げる彼らの上へと崩れ落ちた。
咄嗟にフィフスの手を引き扉が開いたままになっていたエレベーターの中へ飛び込み、少女を庇って屈み込んだイアンは、背中に刺さった掌大のガラスの欠片を呻きながら引き抜くと、辺りの惨状を見回した。灰色の瓦礫から朦朦と煙が立ち上り、上方から陽光が差し込む。地上から落ちてきた数多の信者たちの亡骸が転がり、宏大な地下空間は地獄と化していた。崩壊が地下空間上部の地面のみに留まり、エレベーターの埋め込まれた壁面にまで及ぶことの無かった幸運を噛み締めつつ、イアンはゆっくりと瓦礫をかき分けた。
「ああ、選徒をかような目に合わせらるるとは、神よ我等を見放したもうか」
瓦礫の下からケーズが現れる。
「ああ、無事だったのか」
「なに、体制への叛逆者としてこうした事態に備えは欠かせてはいない。このタイミングでフィーガードの襲撃があるとはお前も運が悪かったな」
「やはりこれは襲撃なのか?」
「ああ。協力者の科学者が開発した新技術で、私は肉体を幾らか改造していてな。脳内に通信機を埋め込んだり、その他にも幾らか……まあ、それはさておき、先程は大教会にミサイルが直撃したらしい。大教会だけでなく軍事施設も奇襲攻撃され、相当まずい状況らしい。情けの無いことだな、万全の軍備と思っていたのだが。せっかく頼ってきてくれたというのに申し訳のないことだ。さて、恐らくこれは序の口、これから突入部隊が襲来するだろう。私は対応に向かおう」
「そうか」
ケーズは非常階段を駆け上がっていき、イアンは再び瓦礫の山を見やった。
フィフスは、眼前の屍体の山を呆然として見つめていた。彼女にとってその始めから刻限を告げられていた生涯最大の衝撃であったかもしれない。未だ絶命せぬ、下半身を瓦礫に押しつぶされ瀕死の重傷を負ったFGSの信徒に助けを求められた彼女は、恐怖から動くことができなかった。援けを求める手は宙を彷徨い、数秒を待たずして地へと落つる。また数秒蠢いたそれは、フィフスの眼がやっとその焦点を合わせた頃には、既に脈を失っていた。
「助……けて……」
四方から、悲痛な叫びが聞こえる。広大な地下空間に反響するその声は、何倍にも大きく、悲痛に聞こえた。
「フィフス、フィフス」
声が、ゆっくりと意味を持っていく。肩を揺さぶるその姿が、やっと像を結んだ。そう、彼女には感じられた。どれだけ時が経ったのだろう。永劫とも刹那とも思えるその間、フィフスは眼前の地獄の前に、ただ立ち尽くしていた。
「フィフス、大丈夫か?」
「……私は……」
「大丈夫。こんなものをはじめて目にして、まともでいられるわけがないんだ。私もそうだった。だが、今は、生き延びるために、その、感情を、1時間でいい、忘れてくれ」
一語一語を、絞り出すように、必死の言葉を、イアンは連ねた。
「……はい。」
その時、彼らの目の前の瓦礫が崩され、その下からアースリンが顔を出した。
「ああ、無事だったか、よかった。」
「はい……足が、挟まれて……」
「……これは、なんとも厄介だな……」
瓦礫の隙間を軽く覗き込んだだけのイアンでさえ、その状況が厳しいことは窺われた。足を貫いた鉄骨は床に深々と刺さり、その上に数トンはあるであろうコンクリート片が積み重なっている。遠くから銃声が聞こえた。イアンが舌打ちする。
「もう突入が始まったか……助けられるよう努力はする、が追手が迫れば私はフィフスを連れて逃げる。すまないが、私もこんなところで犬死はしたくないのでね」
「解りましt……ゴホッ」
アースリンが血を吐く。
「無理はするな。さて……まず、鉄骨をレーザーで焼き切り……いや待て、ここにそのレベルの設備はないか、軍用鋸を借りよう。フィフス、すまないがここで待っていてくれ。頼めるか?」
「……はい。」
「よし、行ってくる。もうすっかり、目が覚めたようだな。よかった」
一人残されたフィフスに、アースリンが語りかける。いつの間にか、辺りの阿鼻叫喚は先刻の声量を失っていた。
「ああ……これまで、青臭いふわふわとした理想を追い求めて、戦うことに伴うこんな痛みを、覚悟も、想像すらしてこなかった、そんな、考えなしの私への、これは、罰みたいなものなのかな。ターキンスン教授も、林さんも、私とは比較にもならない覚悟と、力があった。私は、ただ、向こう見ずに駆けずり回って、死んでいくことしか出来ない、その程度のもの。遠くに輝く漠然とした理想に目を奪われて、その理想の場所も、それへの道程も、なにも……」
「……あなたは、本来なら私が決して目にすることのできなかった、広い世界を、私に見せてくれました。あなたの信念がどんなものであろうとも、そんなことよりも、あなたは、私を、救ってくれた。色々と考えましたが……きっと、あなたが、私のヒーローなんです。覚悟とか、力とか、そんなものがなくったって。さっきはあんな風に言ってましたけど、結局あなたが私を連れだしたのも、もとの計画にはなかったと、逃避行の最中に言ってましたよね。本当はデータだけを持って逃げるはずだったのに、実際に死ぬ運命の子供を見たら、放っておけなくなった、そう」
「何の覚悟もしていなくて、死ぬのが堪らなく恐ろしいけれど、あなたの言葉を聞いて、なんだか楽になれた気がする。このピストル、持っておいてくれる?祖父の形見なの。じゃあ、————」
「えっ……」
アースリンの口が発しようとしたその言葉は、ヘリコプターの発する轟音に掻き消された。
「フィフス、アースリン、まずい!フィーガード軍がこちらへ向かっている!」
巨大な軍用鋸を片手に非常階段を駆け下りてきたイアンは、目に涙を浮かべたフィフスを見て全てを悟った。
「……行こう。今は、死者を悼む暇はない。我々が死者になる前に、逃げなければ」
「……ありがとうございました、ミュールさん。……行きましょう」
「ああ」
モニターの発する青白い光だけが、その暗い部屋を照らしていた。
「FGS本部への奇襲攻撃はおおかた成功し、教会幹部八名、その他信徒およそ一万名、それに加え例のジャーナリストの処刑を完了いたしました」
「幹部は九人いたはずだな?」
「はっ。現在捜索を続けております」
「私のクローンと例の学者は生かしたまま捉えろ。それ以外は問答無用で処刑だ。可能なら脳だけは回収しろ」
「了解いたしました」
通信が終了し、部屋には彼女ひとりのみとなった。世界の半分を支配する者、ステファナ・フィーガード。
「なかなか、楽しくなってきたじゃないか」
FGSの大教会から延びる地下通路。真っ暗なその道を走る、弱弱しい光があった。
「この道は、結局どこまで行くんだ?」
「FGS支配地域の外、一般の町まで続いている。人の脚では丸一日、もしくはそれ以上かかるだろう」
「……そうか。先は長い、ゆっくり行こう」
その時だった。
「俺が、獲物を逃がすとでも思った?」
三人の後方から、飄々とした声が興った。ふらふらとした笑みを浮かべる、凍った目が。
「イアン・ターキンスン、林ケーズ、名無しのクローン、で合ってる?」
「そうだといったら、どうするのか?」
「どうすると思う?」
「解り切ったことだな」
「うん、だいたい正解。俺は、世界最高の狩人、プラチナジャッカル様だ」
「イアン、解るか?」
「確か……賞金稼ぎとしてその筋では名が知れていたはずだ」
「今はね、軍人になったんだ。今日の俺の仕事は、君たちを捉えること。さあ、大人しくお縄につきな?」
「断わ……」
ケーズのその語は、最後まで発音されることは無かった。全く認識もできぬ間に、プラチナジャッカルはケーズの首に、その義手と一体となった冷たい刃を突き付けた。
「どう、気分は?」
「どう、とは?」
「決まってるじゃない。死にたくない、とか、金なら払うから命だけでも助けてくれ、とか、そうやって泣き叫ぶ気にはならない?」
「全くだ」
「そっかあ、やっぱ狂信者ってやつはつまんないや」
「ふっ、我が手で神の国を築ききれなかったことは無念だが、貴様ら人間がいかに妨害しようとも、神の意志はいずれ必ず果たされる。創造主に逆らう己が愚行を精々後悔するがよい」
「俺はね、そういうのが大っ嫌いなんだよ。人間らしく生きたくはないの?」
「私も、君の様な身の程をわきまえない人間は何よりも嫌いだ」
「そう、死ね」
「背教の徒に神罰の下らんことを、アーメン!」
ケーズが、こと切れる。
「さて……バカだよね、こいつ。カミサマなんて時代遅れな夢にしがみついて」
「私も、神というものには懐疑的ではあるが、少なくとも彼の情熱は本物だった。それを否定することは……私にはできない」
「そう。それよりそのクローンちゃん、大丈夫?その年でこんなたくさん人の死ぬとこを見せられたら、壊れちゃうんじゃない?」
「わ……私のことは、フィフスと呼んでください」
「正気を保ててるのね、さすがフィーガードサマのクローン。でも、足がガクガク震えてるよ、大丈夫?」
フィフスが、プラチナジャッカルの眼を見据え、答える。
「私は、大丈夫です。もう」
「つまんないなー」
「我々も殺すのか?」
「どうだと思う?」
「口封じのために殺すんじゃないのか?」
「そう思う?そう思うよねえ!さてさてさて、削ぎ落されるのなら、まず鼻と耳どっちがいい?あ、目でもいいんだけど!あ、お嬢ちゃん、銃を撃つのはよしなよ、そんなプルプル震えちゃって、当たりっこないんだから」
形見の銃を構えていたフィフスは、敵わぬことを知りゆっくりとそれを下ろした。
「ねえ、どうする?あ、それとも指からいく?」
「おい、ボロギツネ、そのへんにしておけ。傷つけるんじゃあないぞ」
「ええっ?ボロギツネって俺のこと?ひっどいなあ、傷つくじゃん」
「軽口はその辺にしておけ。……失礼、なんとも血の気の多い奴で」
「あなたは……?」
暗闇から現れた剛健な巨漢に、イアンが問いかける。
「このボロギツネの上司、みたいなものだ。さて、ご同行願おうか」
「逃がしては下さらぬようだな。フィフス、歩けるか?」
「……行けます」
「無理はするなよ、いつでも声をかけてくれ」
「さて、準備ができたようだな。ボロギツネ、教会長の遺体を運びたまえ」
「しっかたないなあ、貸し一つね!」
奇妙な一行は来た道をサマエルの血窟へと戻った。その間、イアンとフィフスの間に会話は持たれなかった。イアンは必死になって敵の手から逃れる術を探していたが、遂に見つけることは叶わなかった。フィフスは、正気を保つことで精一杯であった。
そうして一行は、前にも増す死臭が香る街路を抜け、城壁の外に停まったヘリコプターの中に乗り込んだ。そこから数時間ののち、彼らはフィーガードの軍事基地へと到着し、殺風景な会議室へと通された。
「やっと来たか。随分と騒ぎを起こしてくれたな」
壁面のモニターに映る、自分と同じ顔をした人物と、フィフスが目を合わせた。
「よく来たな。イアン・ターキンスン、そしてフィフス。……言わずとも解るだろう、ステファナ・フィーガードだ」
「……なぜ私たちをここへ?」
「いやなに、君たちの暴れっぷり、見させてもらってね。ちょうどFGSを潰す口実になってくれたことは礼を言わせてくれ」
「嫌味か何かか?」
「そうやって歯に衣着せず反対意見を言ってくれる人が最近少なくてね、嬉しいよ」
「それならば、なぜ私の研究発表の妨害などなさるのです?真に偉大な発見は自由な研究の場が確保されて初めて生まれる、それは歴史に証明された……」
「そう、学問の進歩という観点からいえば、言論の自由の保障は必要だろう。しかし、今はまだその時ではない。平和の維持のためには、自由の制限が、必要だ」
「……そんなことは、」
「ない、と言いたいのか?私とて、平和のために命を奪うというこの転倒した現状にはうんざりしているさ。けれど、私は、やっと築き上げたこの世界の平和を、守り抜かなければならない」
「自由で平和な時代、というものが存在することは可能だった。それなら、現代もそう変えていけばいいのではないか?」
「平和というものが存在するためには、力の均衡がとれ、その力が完全に安定し互いを滅ぼすことを望まない状態が必要となる。かつて私はいち企業の社長の地位から、列国が手にしていた力を奪い、その戦争状態を止めようとし、状況を改善させはした。しかし、完全な成功は叶わなかった。現在地球のもう半分を支配する勢力、『統一正統政府』は我々に対しその攻撃の矛先を向けている。私は、この世界のだれにも、二度と、戦火によって命を失わせたくはない。だからこそ、私は君の研究を妨害した。この国が民主的に生まれたものであったならば、対応は大きく違ったかもしれないが、残念ながら人々に自主的な国防意識を求めることは難しい。そもそも、形式的にいえば私はもともと存在した複数の国家の元首を兼任している、というだけで、私の治める統一国家というものは存在しない。その状況下で、戦争を遂行し、一刻も早く平和を築くためには、反体制的な思想を力で抑え込み、大衆に戦争協力を呼びかけなければならない。そう、決して褒められた理論ではないが、私にはこれが精一杯だ」
「なぜ、そこまで私に多くを語る?」
「……君は、何のために戦っている?」
「私は……ただ、権力にものを言わせて反対意見を圧し潰す、そのやり方が気に食わないだけだ。真の自由が欲しい、というのはむしろ建前のようなものかもしれない。今回の件を通じて、その気持ちはむしろ強まった。人の命を奪ってまで、その玉座にしがみつく、それを許したくはないな。質問に答えてもらおうか」
「……私しかいない、それだけだ。私とて、二百年も生き続ける気はなかったさ。五十年前、百五十歳、延命の限界点に達したとき、世界を次世代に託して大人しく退くつもりだった。けれども、私がどうにか築いた、前世紀の地獄よりはマシな世界を、託し、より良くさせるに値する後継者はいなかった。政権の奪取に活躍した有能な部下は、FGSを支援しているという話だし、ずっと目先の進退で手一杯で後継を育てる余裕もなかった。倫理的に問題があることは明らかだったが、それしかなかった」
「それから半世紀経って、後継者は育っていない、ということか?」
「何とでもいうがよい。私はまだ、当分退くわけにはいかない」
「私は……この経験も感情も、何もかも、無かったことにされてしまうのですか?」
フィフスが、恐怖に顔を歪める。
「『フィフス』という名前の意味、それを考えたことはあるか?」
「どういう意味ですか?」
「世界各地で、複数のクローンを育て、その中で最も人格移植に適したものを選ぶ。フィフスとは、その管理番号だ」
「ま……まさか……」
「心苦しいことだが、君には死んでもらう。少なくとも、記憶が奪われることは無い、その人格のまま死ねる」
「ふざけるな!しかたない、などと言えるのか、それで?お前が十五年延命するたびに、いくつの命が失われているんだ!」
激昂するイアンを横目に、ステファナは無常に言葉を続ける。
「仕方のないことだ。人間の脳とは複雑なもの。記憶移植の成功率はいまだに二割程度、母体の精神的抵抗が強いほど成功率は落ちる。だからこそ、多くのクローンを作らなければならない」
「それでいいのか?多くの命を奪って生きて」
「良いわけがない。……連れて行け。クローンは処刑場、ターキンスン教授は第五脳科学研究所。話は終わりだ」
通信が途絶し、真っ黒になったモニターにはイアンとフィフスの顔だけが映っていた。フィフスは、恐怖と絶望と衝撃、そしてこの短い間に蓄積されたストレスとで、今にも倒れ落ちようとしていた。会談の間は部屋に姿が見えなかったがどこからともなく現れた兵士たちに必死に抵抗したイアンは、しかし、すぐにその意識を失わされてしまった。
イアンは、薄暗い手術室の中で目覚めた。全身が固く拘束されており、身動きは取りようもない。
「目が覚めたか」
何者かの声に、イアンは振り向く。
「ンカリスク博士……⁉」
「久しいな、ターキンスン君。確か君が学生だった頃以来かな?」
ゲオルネ・M・ンカリスク。世界最高と呼ばれる、フィーガード・コーポレーション所属の科学者である。幅広い分野で偉大な業績を残しており、現在も新たな発見を立て続けに発表している。
「歴史学者の私を覚えていて下さったのですか」
「ああ、私は一度会った人間の名前は忘れない主義なの」
「……私を、これからどうするおつもりですか?」
「なに、殺しはしない。最近、ピンポイントで記憶を消去する、という技術が開発されてね。君の、今回の件に関する記憶を消させてもらう」
「初めて聞く技術です、ね」
「発表していないからね。もうそろそろ麻酔が聞いてくる頃のはず……」
朝陽がカーテンの隙間から差し込む。イアン・ターキンスンは天井の見慣れた形のシミを眺めながらゆっくりと起き上がった。なんだか普段よりもゆっくりと眠っていた気がして時計を見ると、案の定短針は頂点に近づこうとしていた。
「ああ……酒でも飲んだかな?」
一日分の記憶が消えていることはすぐに気が付いたが、そう深く気に掛けることは無く日々は過ぎていった。掃除をしている際に見つけた見慣れないハンカチは、なんとなく捨てられずに持っていた。いつのまにか死んでしまった旧友林ケーズの墓参りに行った。罪人墓地にひっそりと佇むその墓石には宗教色は全くなく、別人の墓のようだった。
なんとなく、以前よりも自分の中にある体制への反抗心が強まっているのを感じた。その理由はついぞ解らぬままだった。いつまでも同じ日々を続けていることになんだか罪悪感の様なものを感じて、世界各地の同志と久しぶりに連絡を取り合い、権力から独立したメディアの構築プロジェクトを始めた。会議から締め出されて諦めかけていた、大学でのリベラルアーツ教育の復興運動を再開した。そうして、時はあっという間に経って行った。
そういえば、あの大学教授、ターキンスンといったか、どうしている?」
「精力的に反政権運動をしているようです」
「そうか……いつか、彼が自力であの日の、あの一晩と一日の事実に辿り着いた時には、どうしようか。楽しみだねえ」
終 この未来が物語の中だけのものでありますように