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小説:未邂逅/兄妹-不干渉/観測者

※本作はコミックマーケット101で頒布予定の『未邂逅/兄妹(上)』に収録されています。頒布に関する情報はこちらからTwitterへどうぞ!

 私のことを見るな。
 私の言葉を聞くな。
 私に触れるな。
 
 私は観測される対象だった。
 よくわからない大人たちにとっては、興味の対象だったのだろう。
 私の中を何処までも、くまなく、私自身のあずかり知らぬトコロまで、彼らは識っていた。
 

 
 だから、私は世界を観測し返すことにした。
 
(わたしのことは)見えない。
(わたしのおとを)聞けない。
(わたしには)触れない。


/1

  北の空に浮かぶ、四桁の数字。上二桁が08、下が30と揃ったその瞬間、もう何度も聞きすぎて、どんなに音痴な人間でも口ずさめてしまうような、チャイムの音が鳴り響いた。全学区統一登校時刻、朝の八時半のことである。
 チャイムの音と同時に教室の扉を潜った私は、クラスでただ一つ、まだ座られていない席へと向かう。登校時刻とはいえ、担任のハリメ先生が現れていない現状では、皆が談笑を楽しんでいた。ありていに言えば、うるさい。
 特に声が大きいのは、このクラスの中でも特に不真面目な生徒――ドロップアウトガールと呼ばれている――ホリとマリの二人組。着崩した制服を身にまとい、さながらマンガの登場人物のようだ。
 逆に、大きな声を上げたりはしなくとも、迷惑な生徒がもう一人。オミナという女生徒。いつも寡黙で、必要以上のことを話さない。いつの間にか消えるようにいなくなっていたかと思えば、いつの間にか席に座っている。ホリやマリとは別の意味で、和を乱すタイプの人間だ。そんなオミナと仲良くなりたいのか、ドロップアウトガールズが良く話しかけているが…話題を振ってはあしらわれているのを見かける。
 私が察する限り、クラスのみんながこの三人のことを迷惑に思っているようだった。
 
 教育機関と研究施設が集まったドームである『セッテ』は比較的ルールに厳しい区画だが、他と違い『入るのは簡単だが出るのは厳しい』ドームだ。だからこそ、彼女たちのような人間であっても、年齢さえ適格であれば入学はさほど難しくない。しかし、ほんの少しでもこのドーム内で学を授かったならば、それを外に漏らすまいと敷かれたルールたちが立ちはだかる。中途半端にしか残らない学びは、敷かれたルールを掻い潜るための武器にならず、適当な研究施設の下働きとして使い捨てられるのがオチだ。
 彼女たちに待つのは、そんな未来だろう。

 八時半を十分ほど過ぎても――つまり八時四十分になっても、ハリメ先生がやってこない。
 ハリメ先生は必ず、八時三十一分に教室に入ってくる。「八時半までに席に座っていれば良い――そういうルールだから、オレは八時半が終わったあとの、三十一分に行くのさ」と、以前疑問を呈した私に教えてくれた。
おかしい。ハリメ先生ほど真面目な先生はいないと学校では評判なのに、そんなあの人が時間を犯すなんでことはないはずだ。騒がしい教室の中でひとり、私が不安に思っていると、教室の扉が開く音がした。よかった。
…そこにいたのは、ハリメ先生ではなく、教頭先生だった。そのまま教卓に就くと、口を開く。流石に騒がしかった教室も、シンと静まった。
「えー、ハリメ先生ですが、先週をもってご退職なされました。今週からは、新しい先生が君たちの担任となります。では、ヒオウギ先生」
 私は唖然として、教頭先生の言葉がすぐに理解できなかった。まさか、自分が生徒という身分を持っているうちに、担任の先生が変わるというイレギュラーが起こるなんて思っていなかったからだ。
 私の驚愕をそっちのけに、教室の空気が変わる。教頭先生が開けっ放しにしていたドアから、見覚えのない人間が入室してきた。
 シンプルなスラックスに、青色のニットベスト。清潔なワイシャツの襟が覗いており、革靴も良く磨かれている。全体的に綺麗めな印象だ。髪の毛はややボサっとしているが、丸い眼鏡が良く似合う男性だった。
「こんにちは。今日からきみたちの担任となる、ヒオウギです。よろしく」
 シンプルな挨拶ののち、小さくお辞儀をした。
「では、よろしくお願いしますね」
 教頭先生は、自分の役目は終わったと言わんばかりにそそくさと出ていく。ヒオウギ先生とやらはそれを見届けると、改めて私たちに向かい合った。
「急なことで驚いていると思う。ハリメ先生は事情がありご退職されたため、僕が代わりにやってきたのだけれど…正直、気になるよね」
 ヒオウギ先生は一瞬悩む素振りを見せたが、もう一度口を開いた。
「ハリメ先生は…法を犯しました。ドーム内の規則ではなく、です。そのため、学校を自主退職なされました」
 こういうときって、大人は事実を隠すものだと思っていた。こうして真実を語ってくれるヒオウギ先生、若しくはそれを決定した権限のある大人には、感謝をしたい。
 …普段であれば、そう思っただろう。でも今の私の感情は、『信じられない』という気持ちで一杯だった。ハリメ先生は、そういう人では断じてない。どういう法を犯したかは知らないが、何かの間違いか、やんごとない事情があってのこと、どちらかだろう。
 
「とまあ、事情は暗いものですが。どちらにせよ、僕が担任になったという事実は変わらないからね。まずは出席を取らせてもらいます。…出席番号一番、アカリさん」
「あひゃい!」
『ハリメ先生が法を犯した』という話を信じられずにいた私は、自分が急に呼ばれたことに驚いて、変な声を出してしまう。でも、真面目な人が多いうちのクラスでは、それを笑うようなヒトはいなかった。
 
「…五番、オミナさん」
私から三人過ぎて、問題児の一人、オミナの番だった。返事がない。しかし私の右斜め前には、きちんとオミナが座っていた。恐らく、ワザと返事をしていないのだろう。
「センセー!そこの耳ピの女の子!」
ドロップアウトガールの片割れ、ホリが勝手に答える。返事をしないのだから、欠席扱いで問題ないだろうが。
「チッ」
オミナは舌打ちをして、顔をそむけただけだった。ヒオウギ先生はそれを見て、
「うん、元気で何より」
 と飄々とした返答。更に、オミナへとにこやかに、微笑みかけた。教師なら、きちんと叱るべき瞬間じゃないのだろうか。しかし、私の疑念に応えることはなく、ヒオウギ先生の出欠確認は進んでいく…。
 
「最後、三十一番のワタルくん。…うん、全員いるね。では、今日の朝礼はここまで。何か個別に質問などがあるなら、休み時間に職員室にくること。解散!」
 ヒオウギ先生は一方的に切り上げると、教室を後にした。
備え付けられた横開きのドアが閉じた瞬間、教室の中がどっと盛り上がる。
「え、ハリメっちなにやらかしたん!?」「ヒオウギセンセーかっこよくない?」「カノジョいんのかな」「えーでももう三十過ぎっぽかったよ、居てもおかしくないっしょ」「ハリメ先生は…」…とんでもない盛り上がりように、収拾がつかなくなっていた。いかな真面目なみんなとはいえ、こんなことになれば騒いでしまうのも無理はない。けれど…私は席を勢いよく立ち上がって、二度、手を叩いた。
「ほら、みんな!あんまり噂話をしていても良くないよ。ハリメ先生が法を犯したなんて何かの手違いだろうし、私たちが真面目にやっていればすぐ戻ってくるよ!まずは次の移動教室の準備をしなくちゃ!」
 教室のみんなは「そうだね」「忘れてた!」と口々に言いながら、自分たちの席で準備をし始めた。そんな中、ドロップアウトガールの片割れ、マリが
「おぉ、アカリン、流石イインチョだねえ。真面目だわー。な、ホリ」
「お?おう、そうだな。ちゃんとしておかなきゃいけねえよな」
 と茶々を入れる。本当に、迷惑な奴。
 私はそれを無視して、移動教室の準備をすることにした。

 その日の昼休み(といっても昼食をとるための休みという意味合いが強いのだけれど)、私はいつも通り事前に用意していた弁当を手に取り、自席を立った。
「アカリーン、たまには一緒に食べん?」
マリが、私に話しかける。いつもこうして、私の弁当を狙ってくる意地汚い女を無視して、教室を出た。しつこいやつだ。どんなに何度私を誘ったところで、その手には乗らない。
 
 中央階段を上り、クラスルームのある三階から特別教室が集まった五階へ向かう。通常の教室がない五階には、私以外に生徒は皆無…のはずだった。
 階段を上りきって、廊下に出ると、そこにはオミナの背姿があった。なぜ、こいつがここにいる?私より先に教室を出たそぶりはなく、私がこいつに追い抜かされた覚えもない。
 そこでふと思い出す。
 一つ前の授業で行われた、二人一組の作業。クラスメイトは全部で三十一人だから、十五組のバディができた。だが、誰かが一人余っていた記憶がない。その時には誰も、疑問を抱いていなかったようだが。まるで、透明人間が一人いたかのように。
 つまり、オミナは昼休みが始まって、私より先に出たのではなく、一つ前の授業の時点で教室にいなかったのではないか?そう、そう考えるのが妥当だろう。なぜなら、迷惑な人間だからだ。
 
 私はオミナを観察することにした。幸い、あちらは私に気が付いていない。階段側から廊下を覗くことで、あいつがどこに向かうのかがわかる。場合によっては、先生に言いつける必要があるだろう。
 制服のスカートからはみ出したシャツ。短く切られた、殆ど白髪に近い、白金の髪。左耳のシンプルなピアス。気怠そうな歩き方。どこを見ても迷惑。私は心底ムカつきながら、観察を続けた。
 オミナは暫く教室沿いを歩くと、とある教室の入り口の前で止まった。
 本来、古い機材や資料が納められただけのその教室は、私にとって特別な教室だった。そして、私が毎日、昼休みに通う理由でもある。
 叫びだしたくなる気持ちを抑えて、飛び出したくなる衝動も殺して、私はオミナを見続けた。まだ、向こうは私に気が付いていない。
 オミナは、教室の扉に手をかけると、何度か力を込める。鍵が閉まっていたようだ。そしてあいつは、はあ、と小さく息を吐いた後、笑みを浮かべた。そしてそのまま、逆側へと歩み去っていった。恐らく、反対側にある非常階段を使って下りていったのだろう。
 
 私は廊下に出て、オミナが施錠を確かめていた教室に向かう。そして同じように、教室の扉を開けてみようとするが…やはり、鍵がかかっていた。
 ここは、ハリメ先生が特別に書斎として使っていた教室だ。本来は余り教室であり物置として使われていたのだが、机上実験を集中して行うために、先生が確保していた。私はここで昼食を取り、放課後もここで過ごし、先生に課外授業として様々なことを教わっていた。
 その時間は筆舌に尽くしがたい、恐らく人生後にも先にもないだろう、一番幸せな時間、そう信じていた。私の知識欲を先生は満たしてくれる。私の真面目さを先生は認めてくれる。努力は報われるものだ、と、先生が一番教えてくれた。
 どんなに真面目にやっても華々しい成績を手に入れられない私に、先生は一生懸命教えてくれた。その結果として、現に、今や学年トップクラスの成績を維持している。
 
 …しかしそれも、先週までのことだ。
 ハリメ先生はいない。昼休みにここが施錠されているということは、もう学校には、先生がいないということを示していた。
 
ふと、一つの仮説を思い立つ。
施錠されていた教室を見て笑うオミナ。
迷惑な生徒。ハリメ先生はドロップアウトガールやオミナのことを迷惑な生徒だ、と言っていた。真面目じゃない悪い子だ、と。
オミナが――あいつが、ハリメ先生を陥れたのではないか?

 クラスのみんなから信頼されている私は、提出物のファイルを自らの端末に預り、職員室へと向かっていた。
 職員室前に備え付けられたキオスクから学内サーバにログインしたのち、煩雑な提出用の項目を入力していく。本来であれば個々人が入力して提出しなければならないのだが、クラスの委員長にのみ、特権としてクラスメイトに限り他人のものであっても提出できる権限が与えられていた。
 私が作業をしていると、職員室から人影があった。目の端に、良く磨かれた革靴が見える。これは、ヒオウギ先生のものだ。
「おや?アカリさん、提出物かい?」
 私はヒオウギ先生に丁寧に向き直り、笑顔で言った。
「ええ、そうです。委員長としての責務ですから」
 ヒオウギ先生の返答はない。聞こえていないのだろうか。
「ところで、ヒオウギ先生。お聞きしたいことがあるのですが」
 私は朝から尋ねるか迷っていたことを、ここで会ったのは何かの思し召しだと感じて、思い切って、聞くことにした。先ほどより大きな声で、尋ねる。
「ハリメ先生は、今どこに?」
 ヒオウギ先生は困った顔をして、質問に質問を返した。
「どうして、それを知りたいのかな」
「大変お世話になったので、せめてお礼を言いたいと思いまして」
 ヒオウギ先生は顔をしかめると、一つため息をついて、こう返答した。
「申し訳ない。僕もハリメ先生が今どこにいるか、詳しくは知らなくてね。何かわかったら、まずきみに教えると約束しよう」
 ヒオウギ先生は一方的に話を打ち切って、歩き去ろうとしたが――しかし二歩歩いたところで立ち止まって、思い出したように言の葉を紡いだ。
「ああ、あと、僕もきみに話があってね。ハリメ先生のことで申し訳ないけれど、放課後ここに来てくれるかな?」
 ヒオウギ先生は学内チャット経由で画像データを寄越す。中身は学内の地図のようだ。そこには、五階のあの教室――ハリメ先生の書斎が、示されていた。
「よろしくね、アカリさん」
 念押しするように、柔和な笑顔をして、ヒオウギ先生は言った。

 午後、最後の授業が終わったときに気が付いた。
 また、オミナがいない。
 
 授業を終えて教室から立ち去ろうとした教師…タジマ先生を引き留めて、私は尋ねた。
「オミナさんがいないのですが、どちらにいるかご存じですか?」
「ん?なんだって?」
「ですから、オミナさんは」
「ああ、オミナさんか。そういえばいつの間にか居なかったね」
 それだけ言い残すと、私には目もくれずにそのまま立ち去って行ってしまった。いくら忙しい教師という立場とはいえ、このような態度が許されようか。
 私は自分で探してやろうと、教室を飛び出した。努めて早歩きで、走らずに。
 
 三階の各教室、二階の各教室…くまなく探したが、しかしどこにもいない。先ほどは上に居たから、今度は下か、と安直に予想を立ててみたが、外してしまったか。
 いや、まだ一階がある。そう自分の直感を信じて、中央階段を下りようとして足を一歩、踏み下ろした時だった。
 踊り場を挟んで反対側、一階にほど近いところにオミナがいた。
またしても、私に気が付いていない。私は音をたてないように、そしてオミナから見えない位置を意識して、後ろをつけた。
 一階に到着したオミナは左に曲がり、階段すぐ横の扉を開けた。
 保健室。確か、「オミナさんは最近よく保健室に入り浸っているみたいでね」とハリメ先生が言っていたのを思い出した。
 無言で保健室へと入室していくあいつ。しかし保健室の扉に備え付けられたインジケータには、『養護教諭:不在』の表示。保健室の先生がいない際における勝手な入室は禁じられているのだが、あいつは全く意に介せずに入室していった。
 勿論、有事を想定して施錠はされていない。だが、現状のオミナを見る限りどこにも異常は生じていなかった。ゆえに、勝手な入室が許される有事であるとはいえないだろう。
 
 私はその事実を指摘するため、保健室に入室する決意を固めた。ここに入室してしまえば自分自身も罪を被るのでは、と悩んだが、指摘するためであれば仕方がない。決意のためにたっぷり時間をかけてしまったが、オミナの入室以降、保健室の扉はまだ開かれていない。つまり、あいつはまだこの中だ。
 引き戸に力を込めて、開け放つ。
 
 しかし、中には誰もいない。
否、カーテンで仕切られた、ベッドの中を調べていなかった。間違いなくここにいるだろう、と勢いよくカーテンを開ける。
 だが、そこにも人間はいなかった。そこにあったのは、とてもきちんと畳まれた、学校の制服だ。スカート、シャツ、靴下、下着一式。そして、シンプルなデザインのピアス。
 
 オミナのもので間違いない。
 
そう確信した刹那、私の意識は落ちた。

 私が目を覚ますと、目の前にいたのはヒオウギ先生だった。
「ああ、目が覚めたかな。よかった」
 朝から変わらない、柔和な笑顔。
「五階の教室で待っていたのだけれど、なかなか来ないから探していたら…無人の保健室で倒れているところを見かけてね。…気分はどう?」
「ええ、大丈夫です…私はなぜそんなところに」
「すまない、僕もすでに倒れていたところに居合わせただけで、原因はわからないんだ。保健室の方曰く、単に気を失っているだけだろう、とのことではあったけれど。むしろ、目を覚ましたきみに聞こうと思っていたところなんだ」
 私は保健室のベッドに寝かされていた。オミナの服一式があった、あのベッドではなく、その隣のもの。外を見やると、完全に日が落ちている。もう夜だった。
「オミナ…さん、を見ませんでしたか?」
「オミナさんかい?いや、見ていないな…。もしかして、心当たりが?」
 私は一瞬逡巡したが、しらを切ることにした。
「いえ、なんとなく、です」
「そうか…。とはいえ一先ず、体が無事なようでよかった。立てるかい?」
 ヒオウギ先生は私に向かって手を差し出す。けれど私はその手を取らずに、自力で立ち上がった。
「ところで、今日したかった話って、なんだったんですか?」
 ヒオウギ先生はほんのひと刹那、柔和な笑顔を崩した気がした。
「ここではなんだから、寮まで送っていきながら話すとしましょう」
 
 私はヒオウギ先生と、寮まで帰ることにした。

/2

「アカリン、あれからこねーな」
 ウチの隣で机に突っ伏しているホリに声をかける。顔だけこちらに向けて、返事が返ってきた。目が完全にあききってねーし。授業終わってから結構立ってるってのに、まだ寝てたのか。
「ンア、マリ、おあよ。…あー、やっぱハリメのことがアレだったんじゃね?」
「…かもな」
 
 ハリメの代わりにヒオウギセンセがやってきて、一週間が経った放課後。
ウチはマリと教室に居残って、時間をつぶしていた。正確には、授業中に眠りこけてから放課後に至ってもなかなか目を覚まさないホリを待っていた、というとこなんだけどさ。
「最近オミナっちも全然見かけないよな」
 体を起こしたホリが付け加えた。
 朝や放課後前の終礼では見かけるけれど、昼間はびっくりするほどいない。気が付くといねー、って感じ。
 いつ話しかけても無言で、不機嫌そう。でも、ちょっと寂しそうだから、ついまた話しかけちゃう…そんなあいつが、最近はより不機嫌そうだった。『好きで一人でいる』ってオーラ出まくりだったのが、ここ一週間は『おこ』って感じ。
 あいつもあいつで、ハリメに思うところがあったのかな。確かに、結構絡まれてるイメージだったけど。「アカリの邪魔をするな」とか「真面目にやれ」とか。んにゃ、それはウチらもいっしょだったわ。
 
 そんな話をしていると、巡回がてらかヒオウギセンセがひょっこりやってきた。ハリメにオミナっち、アカリンと、ここんとこの話題を出しまくっていたからか、正に今かー、って感じだ。
「おや、まだのこっていたのかい」
「あー、そうなんすよ、ホリが爆睡こいてて」
「すんません、帰った方がいいすか?」
 ホリが尋ねる。
「いや、その必要はないよ。最後に窓がしまっているかだけ確認、よろしくね」
 くっそ優しい声でそう言った。パパかよ。
ヒオウギセンセはそのまま立ち去ろうと、扉を開けて一歩踏み出したところで、ふと立ち止まった。顔だけをこちらに向けて、けれど目線だけは明後日の方向を見たまま、何かを見透かすかのように――
「――ああ、そういえば。風邪をひかないように、気を付けてね」
 と言った。教室の窓に備え付けられたカーテンが、かすかに揺れたような気がする。窓、開けっぱなしだったかもしれない。とはいえあんま寒くないけど、律儀な先生だった。
「なあにいってんの、センセ。あたしたちちゃーんと下にズボンはいってっから!」
 スカートの裾を持ち上げて、はいているズボンを見せるホリ。先生は目もくれず「そうか」と興味なさげに教室を出ていった。

「風邪の心配とか、マジウケんね。やさしすぎぴっぴか?」
 先生がドアを閉めるのを確認してから、ホリが言った。
「それな。なんだったんだろね」
 初めて会った時から今までの挙動を見るに、真面目なヒトなんだろうけれど、ウチらみたいなドロップアウトガールにも面倒見がいいあたり、優しい人なのかもしれん。もしくはある意味厳しいか。
「ちなさー、今日はどうするべ。ハリメが死んでから補習もないっぽいし、帰っちゃう?」
「マリんち来る?昨日にーちゃんから教えてもらった裏ルートで手に入れた未検閲マンガがあってさ、これがチョー面白いんだよね」
 こういうのに目がないホリは、身を乗り出して、
「マジっ!?それエロいやつ!?ぜってー行くわ今すぐ行こうほら準備して!!!!」
 とばちこりキまった目でせかしてきた。ほらね、やっぱり。昨日にーちゃんにDLしてもらってよかったわ。
ウチはそれを見て、肩をすくめながら、荷物を適当に仕舞っていく。
ふと思い出して、そういえば机ン中に鏡いれっぱだったわと思って上半身をかがめると、「ブン」という鈍めの音がした。
まるで、ウチの背中の上を、何かが空を切ったみたいに。
「何!?」
ホリのクソでかい声が教室に響く。
「あああ、あれ、な、ななななに!?」
 体を起こしてみると、ホリがウチのすぐ横を指さしている。そこには、野球のバットが、とても不自然に、宙に浮いていた。
 野球バットが宙に浮いているというだけでもう不自然だけれど、とにかく変。ふわふわと浮くのでもなく、そこに固められたかのように、ぴたりと止まって動かない。小学校の社会科見学で見に行った、二十五学区で研究されてる人工テレキネシス系の技術や装置とも全く違う。
 どう考えてもウチの背中をかすめていったのは、このバットで間違いない。もし鏡を探してなかったらこれがぶつかっていたかもしれないし、これからどうすればいいんだよ、そもそもなんだこれって話だし、バカなウチの頭では、考えなければいけないことが多すぎた。
「わああああああ!」
 ホリが叫んで、イスから飛び跳ね、一目散に駆けていく。そちらに目を泳がせた一瞬で、宙に浮くバットは振りかぶっていた。それを持つ人間がいないにもかかわらず、それはあまりに振りかぶったとしか言いようがない動きだった。
 次の瞬間、バットはウチの脳天(ドタマ)に、直撃していた。

/3

 次にホリと会ったとき、ホリの顔は今までにないくらいにびちゃびちゃのびちゃだった。
 ありえんくらいに泣いて、泣いて、服も滅茶苦茶だし、メイクもヘアーのセットもされていなかった。
「マジでごめん!!!!!ほんとにごめん、いまでもあたし、あたしぃ…ほんと…」
涙と鼻水でびっちゃびちゃの顔をウチの入院着で拭ってんじゃねーかってくらい擦りつけながら、ホリは謝っていた。
「いやだからマジで大丈夫だって、それよりもアンタにケガなくてよかったよ」
「でも、でもざあ…あだじマリのごどみずでで…」
 ホリはどうやら、思わず逃げてしまったことを後悔しているみたいだった。ホントに気にしてないんだけどなあ。
「うぐっ…ほんどにいぎででよかっだ…」
「そうだぞー、生きてんぞ。でもあんまり締め付けられてっと死んじゃうかもなー」
「あっ、ごめん…」
 やっとウチから離れてくれたホリ。ベッドに横たわるウチは、改めてホリを見上げた。
 ガッコの制服を着ているようで、スカートの下にパジャマらしきズボンをはいている。髪の毛もいつものゆるふわなイケてるポニテじゃなくて、枕から脱したまんまの乱れ具合って感じ。もちろん、メイクもしていない、目の下にクマ飼ってる状態だった。
「うへへ。マリの目が覚めたってヒオウギセンセから連絡もらってさ…寮、そのまま飛び出してきちった」
 少し落ち着いたのか、泣き止んできたホリが察したように答えた。
「そっか。あんがとね」
 ホリは赤らんだ目を細めて、ちょっぴり笑った。
 
…ウチが目覚めてすぐにやってきたセンセ――病院の方ね――の話によると、ウチは丸二日ほど眠っていたらしい。
原因はふつーに脳震盪。確かにたんこぶとかはできてっけど、検査の結果を見る限りすぐに死ぬって感じじゃなさそうだ。とりあえず、生きてる。
 宙に浮いたバットとかいうやべえ話らへんはホリが既にしていたみたいで、ウチがあれこれ面倒くさく聞かれることはなかったけれど、病院のセンセいわく「即死するほどバカみたいな強い力で殴られたってわけじゃ、なさそうだね」らしい。
 あの宙に浮いたバットに襲われた直後、目が覚めたらこの病室にいたウチにとっては、アレはさっきの出来事みたいなものだった。
 目が覚めて数時間経った今でも、振りかぶったバットが落ちてくるあの瞬間がしっかり思い出せる。あの瞬間のことを考えると、背中から脇腹あたりがぶるっと震えて、股間がキュッとなる。マジで怖え。結果的に即死するほどじゃないって聞かされても、ウチにとってはクソこええ瞬間だったのは間違いない。
 
「マリ、あのさ…」
「ん?」
 もじもじと悩むホリに、一旦考え込んでいた包帯巻き巻き頭を振り払って、目を向けた。
「いや、うーん…えと、ああ、ほんとにマリが生きててよかったなって」
「?」
 少し言いよどんだような、迷ったような物言いのホリに疑問を抱いたけれど、ウチだけじゃなくて、ホリも混乱してるんだろう、と思った。
 
 その時、コンコン、と病室のドアが控えめにノックされる音がした。
 病院のセンセかな、と思って「どぞー」と声をかけると、ガッコのセンセが入ってきた。ヒオウギセンセだ。ノックもせずにとびかかるようにして入ってきたホリとは大違いで、余裕のある、ゆったりとした動き。
「おはよう、マリさん。目覚めたみたいで良かった」
 昔ながらの、それこそマンガでしか見たことがないような、マジモンの花束を抱えたセンセ。ベッドの横に備え付けられた台にそれを置くと、こちらに微笑みかけた。
 丸い眼鏡の奥に柔和な目が見える。そういえばこの人の目、ちゃんと見たことなかったな。すげえ、穏やかな目。ちょっと怖いくらいに。
 センセは病室の端に置いてあった丸椅子を二つ手に取ると、ウチのベッドのそばに置いて、腰掛けた。
「ホリさんもどうぞ」
 一つに自分が座り、もう一つにホリを座らせるセンセ。単に担任として顔を見に来たとか、花束を届けに来たというよりは、ウチらに話があるみたいだった。
「マリさん、本当に大事がなく目が覚めて良かった。担任として、素直にうれしいよ」
「いやあ、マジで死んだかと思ったんだけど、なんか生きてたわ」
 あの瞬間の恐怖を一瞬思い出したけれど、表面上、なかったことにする。ウチが怖がってたら、ホリやセンセを困らせそうだから。
 ホリはやっぱり逃げてしまったことを負い目に思っているのか、うつむいていた。センセは一度ホリに目を向けたあと、同じように負い目があるかのように、ウチへと目線を移した。
「すまない。僕もすぐに駆け付けられていれば、きみがこのような目に合わなかったかもしれない。そも、直前まであの教室にいたのだから…」
「い、いや、センセが気にすることはマジでないんだって。ほら、生きてたんだし」
「そう言ってくれて、助かるよ。でも、それでは終われないんだ」
 センセは組んでいた足をほどいて、腕を組んだ。
「実をいうと、本題はここからでね。今回のマリさん殴打事件、不可解なことは2つある」
 …急に名探偵みたいなことを言い始めたヒオウギセンセ。マジで急じゃん。
「どういうこと?」
「学校側としても、この事件は野放しにできないし、勿論、セッテ理事会も動いている。けれど、浮いたバットという事象について、この三日では明らかになっていない。更に言えば、この『セッテ』にあるどの研究施設にも、それを実現できる技術はまだ見つからないそうだ」
 ヒオウギセンセは、こちらに顔を向けて、右手の親指と人差し指を立てた。
「今回の事件、学校も理事会も気にしている通り、『浮いたバット』という、今のところ科学では説明のつかない事象が起きている」
 ここで親指をゆっくりと閉じた。残りは、人差し指。
「けれどもう一つ、不可解なこと。それは、『なぜマリさんが襲われたのか』だ。今回の話を聞く限り、バットはマリさんを狙っているとしか思えない動きをしている。つまり、マリさんを傷つけるためにバットを宙に浮かせる必要があった、ということだ」
 センセは、残った人差し指を、ウチに向けた。
 バカなウチでも、センセが何を言いたいのかが分かった。
「センセは、ウチが誰かの恨みを買って、だからバットで殴られた…っていいたいんだ?」
「正直、そういうことになるね。…キミが何か悪いことをしたから、恨まれたとは思わない。けれど、担任の僕としては…『バットを浮かせられる技術を持った人間』を探すより、『マリさんを傷つけようとしたに人間』を突き止めたいんだ」
 そこで、センセはホリに目を向けた。「ホリさんは何か知らないか」と訊くように。
「あ、あたしは…いや、なにも、知らない」
 ホリは身震いしながら、答えた。
「そうか。マリさんには心当たり、あるかな?例えば、クラスの誰かとケンカしちゃったとか」
「うーん…そういわれても、基本クラスのみんなとは仲いいしなー。もしクラスの誰かにヤられたんだとしたら、正直ショックかも。しいて言うなら、オミナっちとはあんまり話したりしないけど、そもそもあの子、誰とも関わんないって感じだし」
 考えうる限り、正直に答えた。クラス以外って言っても、寮ですれ違う同じガッコのひとたちとか、それこそセンセたちとか、そんくらいしか思いつかない。
 クラスの誰かを疑うとか、そもそもしたくなかった。
 
「答えてくれて、ありがとう。僕の方でも、調べてみるよ」
 センセは病室に入ってきたときと同じように微笑むと、丸椅子から立ち上がった。
「えー、センセ、もういっちゃうん?ちょいゆっくりしていきなよー」
 引き留めると、ヒオウギセンセは振り返って、ゆっくりと首を振った。
「ごめんね。今日は妻と予定があるんだ。あまり長居ができなくて申し訳ない」
「マジ!?ラブラブかよー!そっかー、センセは奥さんがいる勝ち組かー!え、ライブラリにピクチャとかないん??」
 素朴な感じがしていたから、奥さんがいることは正直意外だった。どんな人がこの人と一緒に暮らしているんだろう、と純粋に興味がある。
「ああ、多分、そこから見えるよ」
 センセはウチの寝そべるベッドの先、病室の窓を指さしていた。
少し体を持ち上げて、外を見ると、ちょうど病院の正門が見える。
そこには、丈の長いシンプルな緋色のスカートにブーツを履いて、クリーム色の暖かそうなニットを着たかわいらしい女の人がいた。夕日の色が薄桃の髪に反射している。四階の病室からは表情を見て取ることはできなかったけれど、センセと同じで、とてもやさしそうな人なのはわかった。
「え、あの人?めっちゃかわいーじゃん!」
 素直な感想が漏れる。センセの奥さんは壁に背を預けて、片足をゆらゆらしながら、旧型の携帯端末を弄っていた。センセと同年代なら、三十歳くらいかな?でも、そう見えないくらいにチョーかわいい人だった。
「そうだろう?とはいえ、そう言われると僕も少し鼻が高いな」
 ヒオウギセンセは少し照れた表情で答えた。この人が照れる表情をするって、もしかしたら珍しいのかもしれないなー、なんて思った。
「じゃあ、お大事に。学校で待っているよ」
 そう言葉を残すと、センセは病室を出ていった。

 センセが出て行ってから暫く、ホリは窓のそばに寄っかかっていた。センセと、あのカワイイ奥さんを見ていたかったのかな?とウチも窓に目線を向ける。
 ちょうど、センセが奥さんと正門を出ていくところだった。やっぱり表情は見て取れないけれど、なんだか、二人がセットでいるのが当たり前…そんな雰囲気だ。
 それを見ていたホリが、口を開く。
「あのさ、マリ」
「ん?どした」
「ヒオウギセンセさ…なんか、あたしたちのこと、見てなくなかった?」
 どういうこと?窓の外から、ホリに目線を移す。ホリは窓の外を見たまま、答えた。
「なんか、口ではあたしたちの…マリのこと気にしている担任、って感じだったけどさ、こう…他の事に気を取られているような、そんな感じがしたよ」
 ホリは、今までにないくらい真面目な顔で、そんなことを言った。

/4

 流石に頭だから念のため、とか言いやがって検査をしまくり、結局退院までに数日間。やっとガッコに戻ってきたのは、頭をカチ割られてからちょうど一週間後のことだった。いや、カチ割れてはないんだけど。
 ホリは、ウチが休んでいる間、同じようにずっと休んでいたらしい。正確には、ウチがバットで殴られた日の次の日までは来ていたけれど、次の日――つまりお見舞いに来てくれた日を境に、休んでいたって話だった。
 本人曰く、「マリいねーとつまんねーし」って話。でもウチには、それだけが理由じゃないように思えた。
 
 アカリンも同じように来ていないし、オミナもとうとうガッコに顔を出さなくなったらしい。朝と夕方だけは、いたのにな。
 さらに言うと、『宙に浮くバット』にケガをさせれたり、似たような『モノが浮く』現象に脅かされたりした連中っていうのが他にもいたらしい。
 流石に入院沙汰っていうのはウチだけだったけど…うちのガッコ、ポルターガイストが続出するような場所になっちゃったん?
 
 お陰様で、クラスの雰囲気はサイアク。なんか疑心暗鬼、ってオーラが出まくってる。
「なー、ホリ」
「どしたん」
 唯一、平常運転(よりはちょいテンサゲっぽいけど)のホリに話しかける。
「なんか、空気やばくね」
「まー、しゃあないっしょ。でもあたしから離れんなよ?また殴られたら守っから」
「頼もしーじゃん」
 やっぱ、持つべきは友だった。

 ホリはああいってたけど、流石におんなじ被害者が連続することはないっぽい。
 放課後になってもポルターガイストのポルちゃん(勝手に命名した)の音沙汰はなく、無事に一日が終わった。
 「なんもなくてよかったじゃん」、なんてしゃべりながら、放課後の教室でアメちゃんを頬張る。ウチら二人以外に、誰もいなかった。
 
 揺らめくカーテンを見ながら、ゆっくり考える。
 気になったからちょっと調べてみた感じ、ポルちゃんに襲われた被害者はこんなとこ。『ウチ』『カドタセンセ』『教頭』『タジマセンセ』『フミヤセンセ』…ウチ以外、センセばかりだった。しかも、うちのクラスを受け持ってる人ばっかり。ちなみに、どのセンセもいい人だかんね。
 けれど、その人選にはとても覚えがあった。でも、可能性はある。というか、もはやそれしかねー、って感じだ。
 意を決して、ホリに伝えることにした。これは、ウチの過ちかもしれない――と。
 
「なあ、ホリ。ちょっと聞いてほしい」
「なに、改まって」
 ホリはウチの真面目な顔を察知してくれたのか、ガチで聞く態勢になっていた。
「実はさ、ハリメがセンセーやめたの、ウチのせいなんだ」
「は!?」
 驚愕の声。無理もねー。
「実はさ、みちゃったんだよ。アカリンがハリメに――」
 
 そこまで言ったところで、教室の扉が、突然開かれた。
 扉がサッシにぶつかる音が響いて、瞬間、とてつもなく見覚えのあるバット。
 あの時の恐怖が蘇る。死ぬかもしれないという恐怖、ウチという存在が今ここで終わる、という恐ろしさ…やべえ、漏れる。
 バットは一目散にウチを狙っていた。動けない。
 ホリがイスを飛び越えながら、ウチの前に出た。
「次はさせねえぞ!!!!」
 やっぱ、頼もしいやつだった。けど、やっぱこの前の、相当後悔してたんだな…とも思った。それどころじゃねえのにな。
 
 目の前にバットがすっ飛んできて、ホリとウチを狙う。
 ああ、もう当たるわ、ってところで目を閉じた。
 ごめん、かーちゃんとーちゃん、あとホリ。
 
「何!?」
 声がした。女の声だ。
 目を開けると、バットが空中で止まっていた。どういうことだ?振りかぶっていたはずのバットが、止まっている。いや、どっちかっていうと振りかぶってるより止まっている方がマシだけど、どっちにしても不思議だ。しかもよく見ると、ちょっとプルプル震えてるし。
 でも、その次の出来事の方がよっぽどヤバかった。
「オミナっち!?」
 これがウチの反応。
「はだか!?」
 こっちはホリの反応。
 
 そう、素っ裸のオミナっちがそこにいて、バットを押さえつけていた。
 オミナっちのケツ、かなりプリケツだったわ。そんな場合じゃねえっての。

/5

 マリに向かって振り下ろされるバットに対して、私は思わず身を乗り出した。しかし、『私』が認識されることはない。
彼女が振りかぶった、おそらく肘であろう箇所を抑える。思いの外、その力は小さい。非力だった。
「な、何!?」
 バットを振りかぶった彼女の声が漏れる。何もないところから押さえつけられたら、声だって出るだろう。だから、意を決して、私は種明かしをすることにした。今まで誰にだって教えなかった、私の秘密――『消失』の力を解除した。
 
「オミナっち!?」
「はだか!?」
 
 それぞれマリとホリの声だ。全く持って正常な反応。対して彼女は、
「邪魔をしていたのはお前かああああああアアアッ!オミナァァア!」
 アカリ、、、は、自分が姿を隠していることも忘れたのか、声を荒らげた。そんな大きな声、出せたのか…そんなふうに思った。


/0 六十五日前。

 五階の端にある女子トイレ。校内にいくつもある不浄の中でも、ここは人気がない。そもそも特別教室が主である五階なうえ、わざわざ階の端にあるここに来る意味はないからだ。ましてや、放課後となれば余計に。
 私は個室に入り鍵をかけたのち、手早く身に着けた衣類を全て脱いだ。それらは丁寧に畳んで便器のフタの上に置く。そして、個室の壁と壁の角をうまく使いながらよじ登って、個室を脱出する。私の姿は既に、他人に認識されないだろう。だから、トイレ内に響いた着地の音を誰かに聞かれて入ってこられても、有るのは鍵のかかった個室が一つ。真実は闇の中だ。
 
 私、オミナの力は――単に、『消失』と呼ばれたものだった。
 十八年前、私はこの『ドーム:セッテ』で生まれた。但し、母体から生れ落ちたわけではない。聞いた話に依れば、保存されていた特異な精子と卵子を掛け合わせて作られた、所謂試験管ベビー。それが私。
 その特異性が遺伝した結果、私は『消失』を発現した。物質として私はそこに存在するし、見えなくなったわけではない。しかし、肉眼でも、どんな計器でも、私を認識することができなくなった。まあ、そのおかげで研究所を抜け出すことができて、今の生活があるのだけれど(脱走したとき、ヤツらは「結果に影響しない『観測者』がー」とかって喚いていた)。
 
そして、その『消失』を使って存在を文字通り消した私は、校内をうろついていた。私が認識されなくなった世界を歩くのは、私にとって一つのストレス発散だった。やろうと思えば人のプライバシーを覗くこともできるし、誰かの秘密を暴くことだって可能だろう。けれど、私にそういう趣味はない。善意がそうさせている、のだろうか。
兎も角、私は、『私を認識されない世界』を楽しんでいた。何も人目を気にすることもなく、私は何にも縛られない。ただその事実が私を包んで、私を構成していた。
五階にある無人の教室。確か、使われていない機材類が主に収納されていたはずだ。そこを通りかかったとき、ちょうどすれ違うように、前からアカリが歩いてきた。
書類を抱えたアカリは、少し顔を紅潮させている。前言撤回。私は、こいつが気になった。普段、こいつがこういう顔をしているのを見たことがない。
…アカリは書類を抱えた手で器用に無人教室のドアをノックし、声をかけた。か細い、聞き取るのも困難なくらいの小さな声。
「先生、私です」
一瞬間が開いて、横開きのドアが開く。中から現れたのは、ハリメだ。
「やあ、アカリくん。資料を持ってきてくれたんだね。ありがとう」
「いえ、先生。このくらい、委員長の私にかかればお茶の子さいさいです」
 アカリは書類を抱えて、ハリメに誘われるまま教室へと吸い込まれていく。私はそのタイミングを逃さず、扉が閉まる前に教室へと忍び込んだ。
 
 機材が押し込まれているだけ…と思っていた教室には、小ぢんまりとした書斎のようなものが形成されていた。確かに今は使われなくなったであろう機材――実験用機器や古めかしいコンピュータ類、もはや用途は限定的になった旧型の液晶パネルたちなど――が所狭しと並んではいるが、それらを押しのけた一角に机とライト、大ぶりな本棚が鎮座している。
 机の上に並ぶ端末やメモから察するに、ハリメは職員室ではなく、ここで作業をしているようだ。
「先生、こちらが頼まれていた資料です」
 アカリは手に持っていた書類をハリメに手渡すと、既に紅潮しきった頬を隠すように、手で覆った。
「うん、アカリくんは優秀だなあ。完璧に資料を揃えてくれているよ。委員長としてもクラスで頑張っているし、本当に真面目だ。オレが見込んだだけある」
「では、その、先生…いつものご褒美をいただけますか?」
 アカリはペットが飼い主に強請るように、ハリメを見上げた。
「そうだね、労働には対価が必要だ。これは世の常だもんな。オレもそれに従おう」
 そう答えると、ハリメは下卑た笑みを浮かべた。――嫌な予感がする。
 ハリメはアカリの――校内のルールを異常なまでに守った丈の――スカートに手を伸ばした。太ももにいやらしく触れると、そのままゆっくり楽しむように、手のひらが上へと昇って行く。
「あっ…」
 アカリの艶やかな声が漏れる。
「せん、せい…そこ…」
 秘部を撫でまわされているのだろう。耐えきれなくなった、という風にアカリの体が崩れて、床にペタンと座り込んだ。
「おや、もう終わりでよかったのかな?」
「い、いえ…気持ち良すぎて…」
「そうかい。じゃあ、続きをしよう」
 …私はそこで見るのをやめた。これ以上観測しても、私には何の利益もないからだ。


/1 三十日前。

 ヒオウギが出欠確認を終えて、教室から出ていく。そのドアが閉まった瞬間、教室内はお祭り騒ぎになった。
「え、ハリメっちなにやらかしたん!?」「ヒオウギセンセーかっこよくない?」「カノジョいんのかな」「えーでももう三十過ぎっぽかったよ、居てもおかしくないっしょ」「ハリメ先生、噂あったもんねーアカリがさ…」
 そりゃ、こうなるだろう。一部始終を見ていた私でさえ、噂話に興じたくなるほどなのだから。しかし、その祭りのような高ぶりも一瞬。
 ガッ、という机に引っ掛かりながら立ち上がる音が聞こえると当時、パンパン、と手を叩く音が響いた。音の出どころは、私の左斜め後ろ…アカリだ。
「えぇと…みんな…。あんまり噂話をしていても良くなぃし…。えと、ハリメ先生が法を犯したなんて…うん、何かのぉ間違ぃだよ…。私たちが真面目にやっていれば…すぐ戻ってくる…と思う…。次の移動教室の準備、しないと…」
 いつもの細々しい声で、委員長のような、戯言のような、何かを発している。皆、「は?」「なんて?」と最早呆れ気味だ。そこに、
「おぉ、アカリン、流石イインチョだねえ。真面目だわー。な、ホリ」
 マリが、一声かけた。
「お?おう、そうだな。ちゃんとしておかなきゃいけねえよな」
 ホリもそれに乗っかって、フォローする。この二人はいつも、教室で孤立している、、、、、、、、、アカリに声をかけて、クラスの輪に入れてあげようとしていた。けれど、当のアカリの方がそれを嫌がっているようで、いつも上手く行かないらしい。
 確かに騒いでいた教室は静かになったけれど、それは果たして意味のあることだったのか――私としてはどうでもいいことだった。
 

 
私が保健室に衣服を置いて、『消失』したとき、アカリは私を尾行していたらしい。
とはいえ『消失』した私を捉えられるはずもなく、アカリは私の残した服を物色するだけに留まった…のだけれど。
そのアカリを、後ろから襲った影。それは、ヒオウギだった。
私にも、意図は分からない。あいつはアカリを介抱したあと(自分が襲ったくせに)、そのまま寮へと送っていったようだった。
寮へと送っていく提案をした直前、一瞬こちらに目線が合った気がした。しかしそれはあり得ない。『消失』した私を捉えられる人間は、いないのだから。


/2 二十三日前。

 
…放課後の教室に、マリとホリが残っていた。
 私はいつも通り、気配を――存在を消して、教室の端に佇んでいた。着ていた服は保健室のベッドの上。具合が悪いふりをしてベッドに入り、カーテンを閉めれば五階トイレを使わなくても簡単に『消失』を使える。
私の『消失』は、あくまで私自身の存在を認識できないようにするだけだ。着ている衣類は普段通り認識されるから、周りから見ると洋服が浮いているように見えることだろう。だから、今の私は全裸である。最初のうちは慣れなかったが、この力を頻繁に使うようになった今、対して気にすることはなくなった。単純に、寒いけれど。
 
 マリとホリは、ハリメが居なくなったことで補習から解放され、時間を持て余しているようだった。そこに突然、ヒオウギが教室にやってくる。二言三言、声をかけたかと思うと、すぐに教室をあとにした。
 否、あとにしようとした。
 あいつは、教室のドアから一歩出たところで、立ち止まる。体はそのままに、顔をこちらに向けた。あいつの目は、明らかに私を捉えている。
 おかしい。確かに、『消失』しているときに、偶然私の方に目線を向けられる、なんてことは多々ある。しかし、その焦点は私を捉えていない。なぜなら、『私』を意識することができなくなっているからだ。
 しかし、今のヒオウギは、間違いなく、私の体を直視している。その証拠に、何も身に纏っていない私の体が、目線を感じて、自動的に身震いをした。そばにあったカーテンが靡く。
「――ああ、そういえば。風邪をひかないように、気を付けろよ」
 あいつは、間違いなく、私に向けてそう言った。
 ヒオウギには、『消失』したはずの私が見えている――?
 一週間前のあの目線は、偶然ではなかったというのか。

 ヒオウギに『見られた』という感触に恐ろしさを感じていた中、奇妙なことが起きた。
 ヒオウギが出ていったものとは別の、教室後方にあるドア。音もなく、ゆっくりと開いたかと思うと、昔ながらの球技…野球だったか?で使われる、バットが入室してきた。
 バットは床を這うようにゆっくりと談笑するマリとホリに近づいていく。
 その動きは不自然だ。バットそのものが浮いているのではなく、透明になった誰か、、、、、、、、が屈んでバットを持って移動しているかのようだ。まるで、『消失』した私と同じように。
 しかし私と違うのは、『そこに誰かがいる』と認識できる点だ。私の『消失』で同じことをしても、見た目は同じだが、『バットを持った誰か』は認識できない。単に、バットが浮いているようにしか、認識できない。
 その『透明になった誰か』は、バットを持ってマリ達にすり寄っていく。彼女たちのそばで止まったかと思うと、次の瞬間、横向きに勢いよく、マリの頭に向かって大ぶりなスイングをした。
 偶然にもタイミングよく、マリは屈んで身をかわしていた。そのスイングによって、ホリが『透明な誰か』…いや、彼女からすればきっと、『浮いたバット』か。それに気が付き、声を上げた。一目散に教室前方のドアへと逃げていく。
 そちらに目を取られたであろうマリ。『透明な誰か』はそれを見逃すことなく、今度は縦向きに…マリの脳天めがけて、バットを振り下ろした。
 ゴン、という鈍い音がして、マリの体がドサリと崩れ落ちる。
 それを見届けたからか、空中から、突然人間の頭部が現れた。
「ぷはあ…えへ、えへへ…やっとやれた…」
 その人間の頭は、アカリのカタチをしていた。どうやら、透明になれる何かを被っていたらしく、息継ぎをするように喘いでいた。恐らく、全身全てをその何か、で覆う必要があったに違いない。
「へへ、…ハリメ先生、ちゃんとこいつのこと叱ってくれるかな…」
 アカリはそう言うと、再度何かを被って、姿を消す。バットをするすると地面に引きずりながら、静かに教室を出ていった。
 
 私はその一部始終を観察していながら、一切手を出すことなく、その場を立ち去った。


/3 二十二日前

 ホリは、彼女自身が呼び出された空き教室に佇んでいた。
 教室前面に配置された、授業用の古い有機ELパネルに文字が刻まれていく。但し、それを書き記しているはずの人間はいない。まるで動画が再生されているかのように、ひとりでに文字が浮き上がっていた。
「お ま え は め ざ わ り だ は や く し ね」
 ホリは恐怖故か、動かない。
「と も だ ち を み す て た く せ に」
「違う、違う…!あれは、あれは…っ!」
 強い否定の言葉。
「お ま え の せ い だ」
私はそれを、私がそこにいることを認識されずに、観測している。

 そして、今。
 
「私は、見ていた。ずっと、観測していた。お前が何を、していたか」
「うあああああっ!」
 浮いたように見えるバットが空を切る。
「だが、私は何もできなかったよ」
 おそらく、マリとホリは私の後ろで唖然としているだろう。
「ごめん。私は臆病者だ」
 私はもう一度、『消失』し姿を認識できなくする。
「お前みたいな迷惑な人間があ!私と同じことをぉ!するんじゃないぃ!」
 アカリが喚いた。迷惑な人間、というのは百歩譲って認めよう。臆病者の私にはそういう言葉を浴びせられてもおかしくはない。けれど、同じ、だって?
 私を見失い、宙に浮いたバットは空を切るばかりだ。怒りに任せたのか、床に向かって叩きつけられる。その瞬間を狙って、私はバットの持ち手の部分を踏みつけ、全体重をかけた。
「痛っ!」
 耐えきれなくなったのか、アカリはバットから手を放す。持ち主から解放されたバットが、カラン、という音を立てて床に落ちた。
 私はそれを手に取る。
「な、なんでバットが…?」
 アカリは不思議そうに問うた。存在を認識できない私が持ったバットは、『なぜ浮いたのか』を認識できない。
 『消失』を解除して、私は答えた。
「お前が透明になるのと、私が認識できなくなる…それが同じだと思うのなら、それは大間違いだ」
「同じだろうがぁ!薄々感じていたんだ、オミナ、お前がぁ、そういう技術か何かを使っていることぉ…!」
「いや、違う。自ら着こんで周囲に溶け込もうとしたお前と、全てを脱ぎ捨てて周囲に認識されなくなった私では、大違いだ」
 私は手に持ったバットをマリに向かって優しく投げる。
「うぉあ!?呪いのバットォ!?」
「やべえマンガとかだと次の呪われし所有者あたしらってやつじゃん!」
 こんな時でもマリとホリはいつも通りだ。ちょっと、面白くなる。
「オミナァ。お前今笑ったな…!私を、バカにするのか!」
 アカリは声を荒らげる。もはや、透明になっている意味はなかった。
「もう終わりにしよう」
 私はアカリに声をかけた。姿は見えなくとも、そこにいるのが分かっている。
 だが、私は大いに間違っていた。
 
「お前たちは…どこまでも私をバカにするのかぁ…!ハリメ先生はあんなにも褒めてくれたのにぃ…!それを…!」
 アカリは怨嗟の声を上げた。
「えへ、へ、お前、私がなんでわざわざバットを使っていたのかわかってないみたいだなぁ」
「何?」
「迷彩が使えない、バットをわざわざ使ったのはぁ、『得体のしれないものに襲われる』恐怖を植え付けてやりたかったから…そんなものが関係なくなった今ぁ、アレに頼る必要はないぃ!!」
 アカリの声が前方で聴こえた。まずい。こいつの狙いは――
「んぎゃあ!!」
「痛っ!!」
 マリとホリの声が、私の後方から聞こえた。
「お前にはぁ、何もできなぁい!」
 アカリの声と、殴打の音。マリとホリが、見えない人間に、一方的に殴られていた。
「お前――!」
 私は『消失』しながら、マリとホリのもとに駆け寄る。が、何もできない。バットのような目印がないから、どこにアカリがいるのか、予想ができない。
「オミナァ!お前はいてもいなくても同じぃ!何も、できないんだからさぁ!」
 右斜め前から声がした。手を伸ばすが、もういない。
「ドロップアウトしたお前たちなんか…!真面目な私の邪魔でしかないぃ…!」
 後ろから声がした。足を出すが、何の感触もない。
「ハリメ先生に言いつけてやる、そしたらお前たちなんかぁ…!」
 すぐ左から声がした。肘をつきだすが、掠った感覚すらない。
 …これでは、埒が明かなかった。
 
「私は、何もできないのか―――――――!」
 私は叫んだ。今までにないくらい大きな声で叫んだ。目をつむって、私の無力さに絶望した。
 しかし、『消失』した今の私の声は、音が認識されたとて、その声が誰の発したものか…誰にもわかってもらえない。アカリだけでなく、マリやホリにもただ声という音が届いただけだ。
 
「いいや。そんなことはない。現に、僕が来た」
 声がした。そして、私を温かい何かが包み込んだ。
 驚いて、目を開くと、私は毛布を肩から掛けられていた。
 目の前にいたのは、ヒオウギだった。
「すまない。もう少し早く駆け付けられれば良かったんだけれど」
 丸眼鏡をかけた柔和な顔が微笑む。
 こいつは、『消失』した私を、間違いなく認識していた。
「アカリさん。暴力はマズいよ。そして、その光学迷彩はきちんと返却しようね」
「ヒオウギ先生…あなたではハリメ先生の代わりにはならないぃ…!これは、私がハリメ先生にいただいた…、労働の…!」
 ヒオウギは、「そうだね」と声を掛けながら、アカリの声がする方に一歩近づいた。
「でも、」
 次の瞬間、ヒオウギは左手を真横に突き出して、何かを掴んだ。
「それと暴力の正当性は関係がない。担任教師として、僕はきみを止めよう」
「なっ…、ヒオウギ先生、あなたは…」
 ヒオウギが掴んだのは、アカリの腕だ。見えないはずの腕を掴んで、アカリのひ弱なパンチを止めていた。アカリの疑問に、ヒオウギが応える。
「見えないよ、きみの姿は。けれど、呼吸も、足音も、衣擦れの音も、気配も感じる――認識できなくなったわけでは、ない」
 ヒオウギが掴んだ腕を…おそらく手首をひねると、アカリは「イタッ」と小さく声を上げて、床に崩れ落ちた。崩れ落ちたであろう、音がした。
「ごめん。けれど、これ以上他人を殴るなんてことはしてほしくないからね」
 クソ気障な台詞を吐いて、ヒオウギはアカリの動きを止めさせた。
 
「…ヒ、ヒオウギセンセ、マジカッケー!」
「ヤッバ、マンガの主人公じゃん」
 さっきまでアカリに殴られていたマリとホリが、場にそぐわない声をあげた。

/6

 セッテ理事会の黒服連中に連行されていくアカリ。それを、私とマリとホリ、そしてヒオウギの四人が、保健室の窓から眺めていた。
 保健室のベッド…私とマリとホリはそこに腰掛け、ヒオウギは丸椅子に座っていた。養護教諭はいない。この部屋には、私たちだけしかいなかった。
 三人とも大したけがはなかったが、念のため、とここに連れてこられた。
私としても、脱ぎ捨ててきた衣類がここにあったから、都合が良かった。今は、ちゃんと服を着て会話している。先ほどは土壇場だったから仕方がないが、同性であろうと、同級生の前でむやみやたらと全裸になる趣味はない。というか恥ずかしい。
 
「まあ、まずは無事でよかったよ」
「センセのお陰っしょ!マジ助かったわー」
 ホリがベッドに倒れ込みながら、ヒオウギに礼を言った。
「マジそれなー。透明人間のパンチ止めるとか、マジあちーわ」
 マリがそれに続く。ぼふっという、ふわふわな布団の音がした。
「…ありがとう」
 私もその流れに続いて、努めて自然に、声を出した。ついでに、倒れ込んでみる。温かい。
「いや、僕もオミナ…さんがいなかったら間に合わなかったかもしれない。ありがとね」
「そうそう、そうそれ!」
「マジビビったわ、突然出てきてさー!殴られるっ!って思ったらオミナっちが止めてくれてたんだよね」
 ベッドに倒れ込んでいたホリとマリが、私の方に顔を向ける。
「い、いや、それは…」
「なんかよくわかんないけどさ、秘密だったんしょ?あれ。ウチらを助けるために、サンキュね!」
 マリが、笑みを浮かべて私に言った。正直、嬉しかった。
 本音を言えば、恥ずかしくて『消えたい』。でも、今はそれをする気分になれなかった。
 ヒオウギはそんな私を見て、笑顔を浮かべていた。
 
 その時、保健室のドアがノックされて、白衣の男が二人、入ってきた。医師のようだ。
「えーと、マリさんとホリさんというのは?」
「あたしらっすけど」
 ホリが自分とマリに指をさす。
「念のため打撲痕等を診察するよう言われていますので、こちらに」
「えっ」
「マジ?」
 二人は心底いやそうな顔をするが、医師には逆らえない。
「何かあったら大ごとだからね、ちゃんと治してもらってきなさい」
 ヒオウギが柔和な顔で二人に言った。
「もう病院はやああああだああああああ!」
 マリの悲痛な声が、保健室に響き渡った。

 マリとホリが医師に連れされれていくのを見届けた後、私とヒオウギは学校の外に出ていた。ヒオウギの提案だった。
 白く、柔らかいデザインで統一されたセッテの街を歩く。
「きみ、ずっと疑問に思っていたことがあるんじゃないかい」
 学校から暫く歩いたところで、ヒオウギが口を開いた。
「ああ。ある」
「正直にどうぞ。今だったらなんでも答えよう」
 ヒオウギは進行方向を見つめながら――ちょうど夕日の方角だ――、私に言った。そこまで言うのなら、尋ねてやるしかない。
「なぜ、いや、どうやって、私の『消失』を見破った?」
 ヒオウギは一度立ち止まる。私もそれに倣って、一歩手前で立ち止まった。顔を見て、もう一度問う。
「私の『消失』を、知っていたのか?」
 こいつは、私が昔居た施設の関係者なのか。であるならば、撒いたと思っていた追手かもしれない。今回は助けられたが、場合によっては…そこまで考えたところで、返事があった。
「それは…」
 なんだ。
 
「それはね、あたしたちがオミナちゃんのお父さんとお母さんだからだよ!」
 返事は私の後頭部からだった。いや、正確には、私は突然後ろから抱きしめられ、その抱擁の犯人が発した言葉だった。
「なっ!?」
 私はすぐさま腕を解き、距離を取る。
 私を抱きしめた犯人は、桃色の長い髪をした女性だった。
「あちゃー、逃げられちった」
「そりゃお前、いきなりそんなことすればそうだろ」
 ヒオウギが、今までに見たことのないような辛辣な顔をしている。
「お前は誰だ、そしてどういう意味だ!」
 思わず叫ぶ。私自身、混乱していた。
「お母さんでーす!」
「おい、これ以上オミナを困らせるな。順序だてて説明しろ…いや、僕がした方がいいなこれ」
 ヒオウギが女を窘める。全く、意味が分からない。というかそもそも、私に父と母いないはずだ。それに、私の素材となった精子と卵子は、三百年以上前のものだと聞いている。それらの提供元だったとしても、生きているはずはない。研究の街セッテとはいえ、そんな長寿を可能にする、ましてやこんな若い姿のまま、なんて技術は聞いたことがない。竜宮城じゃないんだぞ。
「ああ、それほぼ正解」
「は?」
「僕たちは、三百三十七年前に竜宮城――ではないけれど、とある機械に入って冬眠したんだ。十二年前、冬眠から目覚めた僕たちは娘を探すために活動を始めた。そして、やっときみに出会った。ちなみに今の肉体年齢は、僕も彼女も三十歳ってところだね」
 その言葉を信じるなら、その三百ウン十年前に提供されたっていう精子と卵子は…この二人のものであるという辻褄が、確かに合う。
「まー玉手箱を開けたらおばあちゃんに!なんてことはないんだけどねー」
 女の方が付け加えた。
「だ、だが、その話を信じたとして、おま、あなたたちが私の両親だとして…どうやって、私を見た?私の存在は、消えていたはずだ」
 女とヒオウギが目を見合わせる。
「それはな、オミナ。両親が娘のことを、見失うわけがないだろう?」
 断言した。一瞬信じてしまったほどに。
「今一瞬しか信じてなかっただろ。まあ、そうだな、きちんと理論立てて説明しようか」
「そういう理由があるなら、きちんと説明してくれ」
 ヒオウギはすまんかった、と肩をすくめて、説明をはじめた。
 
「まず、僕とこいつは、双子の兄妹だ。そして、当時をして特異な能力を持って生まれた人間でもある。その力のせいでまあ、ありていに言えばモルモットというか…まあそこまで人権がなかったというほどでもないけれど、兎も角、研究対象だったというわけ」
 ヒオウギがそこまで一息で説明すると、今度は女が引き継いだ。
「血縁同士で結婚したり、子供を産むのは良くない、っていうでしょ。血が濃くなっちゃうからって。でも、あえて血を濃くするために…つまり、強い力を育むために、あたしたちは子供を産まされそうになった。けれど、あたしという母体は一つだけ。なら、精子と卵子を取り出して、試験管ベビーで作ればいいじゃない、って発想になったらしいの」
 それが、私のもと。私が生まれるきっかけになった、三百年前の子種。
「そう。試験管ベビーという技術自体は僕たちの時代でも可能ではあったけれど…更に進んだ技術をもって研究しようと、それは冷凍、封印された」
「でも、お兄ちゃんと『子供たちに会いたい』って話になって、どうにか自分たちを冬眠させるすべを得たの。大変だったけどねー」
 女はヒオウギの背中を叩く。結構な勢いだが、ヒオウギはびくともしなかった。
「ちょっと脱線しちゃったけれど、元々その能力の祖は、僕たちなんだ。だから、完璧にではないけれど、オミナのことは見えていたよ」
「もちろんあたしもねー!」
 辻褄はあっている。そう、辻褄は。だが、情報量が多くて全く理解できないし、何より実感がなかった。
「話は、わかった。だが、私があなたたちの娘だという感覚は…やっぱりない」
 きっと、落胆されると思った。もしかすると、怒られるかもしれないとも思った。両親という記憶のない私だが、親というものはそういうことをする、という認識はある。だから、身構えた。
 しかし私を襲ったのは拳でも平手でもなければ、怒号でもなかった。
「それでいいんだよ」
 ヒオウギが、私の頭を撫でる。私のよりずいぶん大きい手だった。
「そうそう。というか、この話をして『あ、そうなんだ!』ってなった子の方が少ないっていうか…いなかったよね」
 女の手も私の頭を撫でる。私は撫でたらご利益のある何かではないのだけれど…ちょっと心地よかった。…いやまて、今なんて言った?
「今の言い草だと…私のほかにも、あなた方の子供はいるのか?」
「ん?そうだよ。解凍された時期が異なるから、歳は結構バラバラだけど。ほら、最近アイドルやめて女優になったナデコ、っているでしょ?あの子もあたしたちの娘」
 娯楽に疎い私でもわかる著名人だ。まさか、あの人が、いや、そもそもあの女優今ちょうど三十歳くらいじゃないか?ということはこの二人と殆ど同い年じゃ…待て待て、冬眠していたからありうる話…どんどん混乱してきた。
 
 混乱する私を見かねてか、ヒオウギが言った。
「いきなり沢山話を浴びせてごめん。まずは、僕たちのことを知ってほしかったんだ」
「そだねー。いきなり言われてもびっくりだよね」
 二人が頷いて、改めて、私に向きなおった。
「…私は、さっき言った通りまだ実感がない。そして、あなたたちを完璧に信用できるわけではない。でも――できることなら、二人のことをもっと知りたい」
 素直な気持ちを、心のままに。恥ずかしくて消えたいけれど、そういうことも必要なんだと知ったから。
「そっか。なら、一緒に来るー?」
「えっ」
 一緒に来る、というのは、一緒に住まないか?ということか。
「実は、僕たちの子供は、というか娘たちは、全部で七人いるんだ。そして、君で六人目」
「最後の一人に会うために、あたしたちは旅を続けるの。オミナちゃんも、その旅に…一緒に来ない?」
 
 父さんらしき人が私に左手を差し出した。
 母さんらしき人が私に右手を差し出した。
 
私はそれぞれの手を握って、「うん」と答えた。
父さんらしき人と母さんらしき人は、嬉しそうに笑っていた。

「そういえば、僕の本当の名前を言っていなかったね」
 丸眼鏡をはずして、今更なことを言う。
「『ヒオウギ』は偽名でね。本当は、『朔夏』っていうんだ」
「あ、あたしは『牡丹』だよ。改めて、よろしくね。オミナちゃん」
 
三百年前に生まれた両親の名前は、随分、古風だった。

※本作はコミックマーケット101で頒布予定の『未邂逅/兄妹(上)』に収録されています。頒布に関する情報はこちらからTwitterへどうぞ!


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