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ワイドスクリーンバロック。(日記:2021/06/26)

『天元突破グレンラガン』を見た。正確には、再視聴した。

https://www.gurren-lagann.net/

初回視聴の切っ掛けは大学生時代、バイト先の同僚に「お前、『空色デイズ(※主題歌)』好きそうだよな。えっ、観たことないの?絶対好きだと思うよ」と言われたことだった。そこまで言うのなら、と早速視聴。

結論、物凄い好きだった。『ドリル/螺旋力』という根本の理屈がありつつ、力の源は『気合』『熱く燃える、諦めない心』というパッション溢れる非論理的なものであるという、『納得できる芯の理屈がありつつ物質化が難しい気合というもので乗り越えていくストーリー』が非常に僕の心に刺さった。
名言が多いこの作品の中でも特に僕が好きなセリフが、「無理を通して、道理を蹴っ飛ばすんだよ!」と「墓穴掘っても堀り抜けて、突き抜けたならオレの勝ち!」。何をするにも、理屈なんて知らない、ただ前に進むんだ!という気合が勝る。そんな一貫性が僕の魂に火をつけてくれた。

正直、冷静なところで見ると「ん?」と思う描写だってある。例えばこの世界においてパワーの源である『螺旋力』が主人公シモンだけ異様に強かったり(『前に進もう』という思いが源になるのなら、他の大グレン団メンバーだって負けてないはず)、兄貴分のカミナは俯瞰してみるといつも所謂人間として正しいと言える行動をしているわけではない(=兄貴分として、いつも正解を選んでいるわけではない)…とか、ニアがシモンを信じてくれた理由が意外とあっさりしていたとか。

でも、そういうことはどうだっていいのだ。いや、どうだってよくないかもしれないけれど、『思いの強さが螺旋力になる』という理から外れないからこその、それ以外の理を貫いて破壊して、話を先に進められる熱さ。
もしシモンの強さに他の論理的な理屈をつけられていたら、つまらない作品になっていたと思う。実際、理論部分の説明役でもあるリーロン(理論のもじりなのがまた面白い)が「これは○○が××で…いや、説明しても無駄ね」みたいな描写があった覚えがある。

シモンは『螺旋力』というこの世界におけるパワーが物凄く強かったから理屈を蹴っ飛ばして前に進めたわけで、逆に言えば力がなければ進めなくなってしまうということになる。しかし、この『螺旋力』は前に進もうとする思いをパワー変換しているものだから、その思いさえあれば理屈を蹴っ飛ばす力を得られるわけだ。劇中でも、とある理由で前に進む気力をなくしたシモンが『螺旋力』を失ってしまう描写があった。
けれど、前に進む理由を改めて得たお陰で『螺旋力』を取り戻す。一見ただ熱い!という描写があれども、絶対に『思いの強さが螺旋力になる』という理だけは絶対に外さないのだ。

そんなわけで僕は『天元突破グレンラガン』のファンになったわけだが、今回再度視聴する切っ掛けになったのが『プロメア』という作品だ。

2年ほど前に劇場公開された作品なのだが、監督の今石博之さんと脚本の中島かずきさんのコンビは『天元突破グレンラガン』と同じなのである。話題になっていたのは知っていたし、同じコンビで作られた作品であるのも把握していた。単純に理由なく観に行ってなかった、というだけなのだが、Prime Videoに入ったと聞いて早速先日視聴した。
いや、これは失敗した。劇場で観るべきだった。『芯がありながら他の理を蹴っ飛ばす』という作風が三角と四角という分かりやすい図形の対比で表された映像で表現されていた。視聴時に少々体調を崩していたのだが、視聴後はその体調不良がどこか行っていたほど、心躍っていたのである。

それで、改めて『天元突破グレンラガン』を観てみようと思ったのだが、どうやら僕はこのような『一つの芯が理屈として通っており、それ以外をその理屈で吹っ飛ばす』という話がどうも好きらしい。


『ワイドスクリーンバロック』。
Wikipediaに依れば、ブライアン・オールディス(SF作家)が提唱したSFのある作品群を表す用語であり、以下のような特徴の作品を言うらしい。

『時間と空間を手玉に取り、気の狂ったスズメバチのようにブンブン飛び回る。機知に富み、深淵であると同時に軽薄』

つまり、時間や空間という理論に囚われず登場人物や場面が動き回り、理論に忠実であるようで自由奔放、くらいの意味に僕は理解した。(ちなみに『バロック』とは『規範からの逸脱』を示す語らしい。)
この言葉が生み出された文章では、「舞台として、すくなくとも太陽系ひとつくらいは丸ごと使う」という。SFの分類としての『ワイドスクリーンバロック』では、『スケールのとてつもなく大きい、必ずしも科学としての理論を最重要視するのではない』SFものを指していたのだろう。

先日公開した『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』では、『ワイルドスクリーンバロック』というワードが出てきた。この作品はSFではないし、なんなら宇宙スケールの話でもない。だが、『きらめき』という一つの論理を中心に、それ以外の常識を飛ばしながら少女たちは戦っていく。普段は一般的な(僕らの暮らす世界と同じという意味で)物理法則の上に成り立っている世界な描写なのに、『普通に地下鉄に乗っていたつもりが突然車両変形し舞台に』となったり『校舎の一部が切れてあり得ない地下へのエレベータへ』など、一見理解不能な描写が散見される。
これは、スケール(世界観の縮尺)が曖昧なまま進行しているお話なのは間違いない。それでも、視聴者である僕は誰が何をしたのか、何がどこに受け渡されたのか、ということを理解し、そこに感動することができる。


つまり何が言いたいのかといえば、SFの一分野という意味での『ワイドスクリーンバロック』を超えて、『1つの芯となる理屈を据えたうえで、その他の論理を吹き飛ばしながら進んでいく』というような意味合いともとれるのではないか、という話。あくまで僕の理解の範疇だが。
出典元不明となっているが、どうもWikipediaでは『天元突破グレンラガン』も『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』もワイドスクリーンバロックに分類されているようだ。

どうも僕は、ワイドスクリーンバロックが好きらしい。


追記: ネットで探していると、こちらの記事に『ワイドスクリーンバロック』について非常に詳しく記述があった。どうやら、日本に入ってきてから意味合いが『単なるSFの一ジャンル』から変化があったようだ。
https://the-yog-yog.hatenablog.com/entry/2021/06/23/190403

追記2: トップの写真は『SEX and VIOLENCE with MACHSPEED』のアクリルスタンド。実はこの日、『今石博之の世界展』に足を運んでいた。その自分用お土産なのだが、この作品がこれまたテンポが非常に良くて好きなのである。アニメ(ーター)見本市の作品なので、視聴が困難なのが厳しいところだが、ダッチワイフのせっちゃん(セックスちゃん)、サルのバイオレンス君、早すぎるサメのマッハスピードの三人組が白と鬱金色のような黄色という配色の中エログロ暴れまくる…というトンデモ話でおすすめ。

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