【短編小説】グウィネヴィア
厚い霧が湖面に立籠めていた。霧がすべての物音を吸い込んでいるかのように、静寂だけが広がっていた。微かに、櫂をとる水音だけが聞こえる。霧の奥深くから、小舟が岸辺に近づいているようだった。
汀には棺が一つ置かれていた。女が一人、寄り添うように立っていた。
静寂を乱して、馬蹄の音が響いた。一頭の馬が駆けてきた。締まった体躯に輝くような濃い茶色の鬣が靡いている。騎士が一人、跨っていた。革製の簡素な鎧を身に纏っている。鎧の上に羽織った深紅の外套の生地が、卑しからざる身分であることを示している。
騎士は女に気付くと、馬の足を緩めた。
棺と女の側にゆったりと馬を寄せると、騎士は音もなく鞍上から飛び降り、手綱を岸辺の灌木に結んだ。女に近づくと、うやうやしくその前に片膝を付いた。女の左腕を取ると礼を尽くそうとした。
「おやめ下さい。あなたはもう、そのようなことをするご身分ではありません」
女は厳しく拒絶しようとした。
「いいえ、この国にあっては、ましてやあなたの前では、私は一介の騎士にすぎません」
そう言うと、騎士は言葉とは裏腹に力無く抵抗を示す女の左手を強引に押し頂き、すぐに立ち上がった。棺のほうへ向き直った。
「顔を見ても?」
「構いません。傷一つない、眠っているような顔です」
騎士は棺の蓋を開けた。中には二十歳前後だろうか、若い男の遺体があった。死に顔は傍らの女の面影を色濃く引き継いでいる。ただし騎士は知っていた。あと数年して、その顔が父親に似始める頃には、まごうかたなく騎士自らの面影を映し出すことを。
棺の主を目にして、騎士が黙り込んだ。二人の間に重苦しい空気が流れる。
櫂の水音が近づいてきたかと思うと、厚い霧を破って一艘の小舟が姿を現した。操っているのは痩せた初老男だった。頭巾の付いた濃い茶色の長衣を纏っている。修行僧らしかった。初老男は小舟を岸辺の柔らかな砂地にのし上げると、ゆっくりと岸に下りた。
「長らくです、グウィネヴィア様、それにランスロット卿。いや、今では卿ではなく陛下と尊称するべきか」
「よしてくれ、マーリン。ここブリタニアでは、俺はただの円卓の騎士の一人だ」
ランスロットは小さく苦笑した。
「それにしても、本当に長らくだな。先王、いや、今となっては先々王の葬儀以来だな」
かつてランスロットとマーリンは同じ王に仕えた。グウィネヴィアは二人が仕えた王の后だった。王の名はアーサー。棺の中の若い遺体はアーサーの後に王位を継いだ先王のロランで、表向きはアーサーの長子ということになっている。
再会の懐かしい雰囲気も束の間、再び重苦しい沈黙が辺りを支配した。
「野営中に奇襲を受けたと聞きました。ロラン、いや先王陛下は剣も馬術も腕前は一級だったはず。手練れの側近にも囲まれていたでしょう。なぜ命を落とすようなことに?」
ランスロットがグウィネヴィアに、ロランの最後を訊ねた。彼女の悲しみにさらに追い打ちをかけるようで忍びなかったが、聞かずにはいられなかった。自らの息子を失った悲しみは一切色に出さず、あくまでロランを先王、グウィネヴィアをその母と遇することを崩さない。
「儂が術で見た幻影では、ロランはクロードや主立った家臣を逃すために自ら殿をつとめていた。追いすがる敵に立ち塞がって幾人も切り伏せていたが、投石機から打ち出された石弾をまともに胸に受けた。さすがにひとたまりもなかったようだ」
グウィネヴィアに代わって、マーリンが答えた。クロードはロランの二歳下の弟で、母親似とされたロランと違って、幼い頃からアーサーの生き写しと言われた。
「王弟を逃がすため、王自ら犠牲になったというのか」
弟を守るため自ら犠牲になった。ロランの死の理由に、ランスロットは強く思い当たるものがある。長らくある噂、そして実は噂でなくそれは真実ということに気づき悩み続けたロランの、確固たる決断だったのだろう。
アーサーは外征に出ることが多く、宮廷に不在がちだった。アーサーの信頼厚いランスロットはその留守を守る役目が多かった。
戦場の夫の身を案じ、不安に押しつぶされそうになりながらも気丈に振る舞うグウィネヴィア。彼女の支えになることは、はじめは騎士道精神からくる義務だった。しかし、彼女の美しさと、淋しさを秘めた姿に、騎士道精神を越えたところでランスロットは強く惹かれてしまった。
ある時、この時もまたアーサーは外征中で、さらに間の悪いことにランスロットも不在の折に宮廷が敵に襲われ、グウィネヴィアは誘拐された。ランスロットはアーサーからの王命を帯びて、敵の手から命懸けで彼女を救い出した。自らのために、命を捨てることも厭わぬ覚悟を見せた彼に、グウィネヴィアの心も揺れた。二人の距離は人知れず急速に近づいた。
罪の証しがグウィネヴィアに宿った時、二人は改めてことの重大さに恐れおののき、それ以来お互いを拒絶して生きてきた。ランスロットは円卓の騎士の一員として武者修行を積んだ後、母国ガリアに帰り王位に就いた。グウィネヴィアは王妃・国母として、アーサーの宮廷を支えた。
ロランの死は、父母の罪を贖い、王統をあるべきに復そうという覚悟のものだったのだろう。彼の後はクロードが王位を継いだ。
ロランは自らの出生の秘密に気付いていた。では、アーサーはどうだったか。
おそらくアーサーもロランが自分の血を引いていないことを知っていた。それでいてロランに王位を継がせたのは、自分自身の苦い経験によるものだったのだろう。
アーサー自身、父王ウーゼルの子ではないという噂があった。母イグレーヌが密かに、前夫ティンタージェル公との間の子を宿してウーゼルの許へ嫁いできたのではないかとの出自を疑う声があった。
内容が真実でなくとも、権力闘争となればその噂を利用しようとする者が現れる。
アーサーの甥に当たるモルドレッドが、アーサーの外征中に自らこそ正統な王位継承者であると称して、王位を簒奪しようとする内乱が起きた。
忠誠心はそれを捧げる権力の正当性が揺らいだ時、激しく動揺する。アーサーの王位と人格を信望する者、モルドレッドの正当性を奉ずる者に円卓の騎士達も二分し、ブリタニアは親しい者同士が血で血を洗う激しい争いの場となった。アーサーは辛くもモルドレッドを倒したが、自身も戦いで深手を負った。しばらく床に伏せったが傷は癒えることなく、アーサーはロランに王位を継ぐよう遺言したのち息絶えた。
アーサーの遺体は霧の向こう、湖水に浮かぶ死者の島に眠っている。ロランも同じ場所で眠りに付こうとしている。
「遺体が敵の手に奪われなかっただけでも幸いではないでしょうか」
グウィネヴィアが呟いた。
「結局あの剣は見つからなかったのか」
ランスロットがマーリンに聞いた。
王位をロランが継ぐよう遺言したアーサーだが、今にして思うとその葛藤が知れる行いがあった。
アーサーは所持していた、その持ち主こそ正統の王とされる聖剣エクスカリバーをモルドレッドとの戦いの直後にどこかに捨て、ロランに探し出すよう命じた。
「賭けだったのだろう。ロランがエクスカリバーを見つけだせたなら、血統とは別に王統の正しさの証明になる。アーサー自身がエクスカリバーを自らの正当性の象徴としたように。結局のところ見届けられなかったが」
世俗にすでにないマーリンは、王といえども尊称をつけない。
「ブリタニアも変化の時だ」
マーリンが霧の中を見つめながら呟いた。
北の海からは「デーンの民」、南からはサクソン人の勢力が拡大してきている。ロランは、サクソン人との戦いで命を落とした。
「クロードは西方の地ウェールズに王都を移すそうです。この島を広く我々ケルトが治めていたということも、昔話になるでしょう」
グウィネヴィアが寂しそうに言った。
「マーリン、王統とはなんだろうな。ガリアもやがては俺の血を引かぬ王が君臨するのだろうか」
「答える術を持ってはおらぬ」
あるいは、未来を予見するドルイドの目には、ランスロットやその子孫の未来が見えていたのかもしれない。
霧が晴れた。ランスロットとマーリンでロランの棺を小舟に乗せた。
「それでは、またいずれ」
マーリンが漕ぎだすと、小舟はすぐに、再び立籠めた霧の中に吸い込まれていった。櫂の水音もやがて聞こえなくなった。
「ガリアへおいでになりませんか」
ランスロットはグウィネヴィアに向き直り、誘った。
「いえ、わたしはこの地で残りの日々を祈りに捧げようと思います。アーサーとロラン、そして生きるクロードたちのために」
ランスロットはグウィネヴィアの顔を見つめた。残りの日々。いつの間にか、二人ともそれが長くないところまで来てしまっている。それでも若き日のすべてを捧げ、共に罪を犯した相手の顔は今なお美しかった。
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