見出し画像

【短編小説】里海

 さっぱり釣れない。
 暇つぶしを兼ねた気分転換とはいえ、やはり釣れないとおもしろくないものだ。
 置き竿にして、理一郎は防波堤の先端で仰向けになった。一段高い所にある白灯台が目に入る。視野の片隅からサンダル、白い足、ショートパンツ、ボートネックのTシャツ、少しくせのある薄茶色がかった胸までの髪、整った丸顔の順で入ってきた人物がいる。女性にしては背は高めで、空手をやっていたせいか、歩く姿勢はどこかしゃんとしている。
「おばちゃんにきいたら、りっちゃん、ここって言ってたから」
 里子りこが缶ビールを二本持って歩いてきた。
 理一郎は上半身を起こした。里子が彼の隣に体育座りでしゃがみ込む。
「はい、ツマミはないけど。どうせ今日はもう車も舟も乗らないでしょ」
「サンキュ」
 彼女から缶ビールを受け取る。二人がほぼ同時に蓋を開けた。ホップの香りが一瞬、あたりを漂ったが、すぐに潮の香に撹き消された。夏ももう終わりで、朝晩は初秋の風情が漂っている。それでも昼過ぎのこの時間帯はまだ暑く、冷たいビールは心地よかった。
 理一郎と里子は、四国の西南部沖に浮かぶこの島の小中学校の同級生で、島の狭い人のつながりの中では親戚筋となる。
 理一郎は四国本島側の工業高校を卒業後、島に戻って釣り舟と民宿を経営する実家を継いだ。里子は島の子供の中ではさとかったほうで、本島側の普通高校を卒業すると関西の大学へ進学し、今はそこそこ名の知れた大阪の会社で営業の仕事をしているらしい。
「お前、帰ってきてから見るたびビール飲んでるよなぁ。ひどい時なんか朝から飲んでるって親父さん言ってたけど、本当か」
「島にいる間だけだよ。することもないし」
 理一郎には詳しい事情は分からないが、里子は三週間ほど前、突如島に帰ってきた。漁業をしている実家で一日中、だらだらと過ごしている。
 人口百数十人程度の島で、さらに二人と同世代の、二十代の若者は数えるほどしかいない。里子は全島民の興味のまととなっていて、リストラされた、ひどい失恋をして帰ってきたといった噂が飛び交っている。
「りっちゃん、もうすぐパパになるんだってね。なっちゃんお腹すごく大きいって、おばちゃん言ってた」
 理一郎の妻・奈々江ななえは二人の中学の後輩となる。彼女は今、出産で四国本島側の病院にいる。島には小さな診療所しかなく、彼女の両親が大事を取ったからだ。予定日前後には理一郎も本島側へ渡らなければならない。
「うん、もうすぐ父親」
 少し表情を曇らせて理一郎がうなづく。里子が問いかける。
「うれしくないの?」
「そんなことはないけど。自分が親になるなんてちょっとまだ実感がなくって。どっちかっていうと、不安のほうが大きいかな」
 ここ数年、島を訪れる釣り人や観光客が減っている。二人がいる、久保浦くぼうらと呼ばれる入り江も数年前までは海水浴場として賑わっていた。今は来る客もなく、トイレやシャワーなど浜辺の施設も朽ちるにまかせている。
 家業の釣り舟と民宿も客が減ってきている。本島側に移転して商売を広げるとか、なんらかの生き残り策を講じなければならない。両親の年齢と健康状態も今後島で暮らしていくには安心できるとはいいがたく、子供を育てようにも、小中学校とも数年以内に閉校という噂もある。
「里子はもう、ずっと関西にいるつもりか」
「うーん、戻ってきても仕事ないしね」
「結婚は?」
「向こうでは相手に恵まれなくてねぇ。こっちへ帰ってきても、あたしみたいに中途半端に高学歴で年齢も三十路の大台が近いと、お見合いの話もあんまりないし」
 里子がスマートフォンをいじりながら、なげやりに答える。会話は途切れ、置き竿に魚が掛かる気配もまったくない。
 防波堤から見える海は、水の存在を感じさせないほどに底まで透き通っている。老人たちは昔に比べるとすっかり島の海は汚れたと言う。それでも瀬戸内海に流れ込む黒潮の分流が直撃するこの島は、時にとんでもなく美しい海を見せた。
 理一郎は中学の水泳の授業を思い出した。
 中学にはプールがなかった。海で泳げばいいし、真水が貴重だからだ。水泳の授業はもっぱら、この入り江だった。
「俺、たしか中学の時、お前に蹴飛ばされてこのあたりから海に落ちたよな」
 防波堤から同級生、時に教師を海に突き落とす悪ふざけは島の夏の子供の定番だ。理一郎と里子のクラスでもこの入り江に来ると、仁義なき(?)落とし合いが繰り広げられた。
 中二か中三かはっきりとは覚えていない。ある時、理一郎が里子を海に突き落とそうと、背後から忍び寄った。タイミングを計って、防波堤の端に立っている里子の背中をそっと押そうとした瞬間、里子が振り向いた。背中を押すはずだった彼の両手は里子の両胸を掴むような形となり、次の瞬間、ゴッと鈍い音を立てて彼女の右足の甲が理一郎の左側頭部にめり込んだ。彼は海面まで吹っ飛ばされ、派手に飛沫しぶきをあげた。
「あれは痛かった。今思うと学園物のマンガのひとコマみたいだな」
「あたしもすごい驚いたよ。頭ん中真っ白になって、反射的にハイキックしてた。乙女にいきなりなにしてくれるんだって思って」
「あっ、乙女って自分で言った」
 突然、置き竿がしなった。アタリだ。アワセをくれて理一郎が釣り糸を巻き上げる。しかし、針からは餌だけ取られていた。再び餌を付けて海に投げ込み、竿を置いた。
 里子のスマートフォンが鳴った。
 少し彼から離れて受け答えする。はい、はい、と数回うなずき、最後に「分かりました」と彼女は切った。理一郎のそばに戻ると、また里子はひざをかかえて座り直した。唇の端を軽く噛んでいる。
「なんか深刻な話か」
 理一郎が少し首を右に傾けながら里子の顔を見る。こうしてなにかを問うのは、本気で心配して何かをたずねる時の、小さい頃からの彼の癖だと里子は知っている。
 小六の時、里子はこの入り江で溺れた。幸い、近くにいた父親にすぐに助けられ意識を取り戻した。目を開けて最初に見たのが、少し首を傾けて彼女の顔をのぞき込んでいる理一郎の姿だった。
「信頼していた男の先輩がいたのね」
 ぽつりと里子が話し始める。まじめで堅実な彼女は社での評価は高く、ある重要な企画を任されていた。しかし、彼女の評価に密かに嫉妬していたのか、信頼していたその先輩が陰で足をひっぱる形でその企画が潰れた。
 「誤解を解きたい」。そう彼は食事に誘ってきた。食事の間はやや自己弁護は多いものの紳士的といっていい感じだった。だが食事を終えて地下鉄の駅まで歩く途中で、「まだ話し足りないし、ちょっと休んでいこう」とホテルの玄関先で手首をつかまれた。折悪しくその日は雨で、思わず持っていた傘で力一杯殴ってしまい、無期限の停職処分中ということだ。
「舐められてたんだよね。まじめなだけで、簡単に言いくるめられそうな田舎者の女だろうって、あたし」
「会社勤めってのもいろいろ大変なんだな」
 里子の話を聞いて理一郎が嘆息した。
「で、どうなるの」
「とりあえず来週で処分は停止。営業から外されて内勤に異動で社に復帰だって」
 職場に戻っても変な噂が立ってるだろうし、しばらくはじっと我慢ね―。里子が海面をのぞき込みながらつぶやく。理一郎は彼女の背中を見つめた。その背はあの、海に落とそうとした頃から変わらずに細い。父親になる自分もあの頃から少しも大人になれていないような気がする。人は年を重ねただけでは簡単には大人になれないという、当然といえば当然の感慨が彼の心中に湧き立った。
 いきなり彼は立ち上がり、里子の背後に回り込んだ。少し迷ったようにその背中を押すそぶりを見せる。その逡巡を突いて素早く里子も立ち上がり、理一郎の後ろに回り込んだ。
「りっちゃん、甘い!」
 勝ち誇ったように里子が理一郎の腰回りに手を回すと、バックドロップのように彼を持ち上げようとした。
 里子も本気で彼に技をかけようとしたわけではないのだろう。しかし、女性としては背は高く、空手で鍛えていたとはいえ理一郎は彼女には重すぎた。バランスを崩して、下手な側転のように二人とも頭から海に落ちた。
 一度深く沈んで二人がほぼ同時に海面に顔を出す。口に含んだ塩辛い水を吐き出す。
「ひでえ。俺はちょっと脅かそうと思っただけなのに」
「あたしだってそうだよ。好きでこんなふうに海へ落ちたりしない」
 島育ちだけあって二人とも器用に立ち泳ぎしながらお互いの顔を見る。同時に苦笑する。
「りっちゃん、島、離れたいと思う?」
「思わない。この島が性に合ってる。里子は離れて良かったと思う?」
「時々無性に帰ってきたくなる。で、帰ってくると今度は退屈すぎてすぐまた出ていきたくなる。でもまた同じ気持ちを繰り返すの」
 あたしにとってこの島はそういう場所――。そう彼女は言葉を継いだ。高く紺碧で所々夏の名残の入道雲が残る空の下、島と二人を取り囲んで、群青の海が広がっていた。

いいなと思ったら応援しよう!