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【短編小説】ターナーズ・リバティ(環礁2)

 誰にも生涯忘れられない夏がある。そんなテーマの小説とか映画って、けっこうあるよな。例えば。ジョディ・フォスターの「君がいた夏」みたいな。
 宿泊客を見送りながら、ジンはぼんやりと考えた。
 「八丈島で潜った夏が忘れられない」
 客の一人が、昨晩の夕食時にビールを片手に、いかにその夏が思い出深いかを語っていた。彼は、真夏の八丈島でのダイビングをきっかけに妻と出会い、結婚したということだった。

 最後の宿泊客のワゴンが、遠ざかっていった。少し雨交じりの風が吹いている。海の上には薄い虹が架かっていた。そろそろ木綿の長袖Tシャツにフリースを羽織っただけでは肌寒い。十一月最初の連休が終われば、泊まりがけで潜りに来るダイバーもぐっと少なくなる。
 海の中はひと月、陸より季節が遅い。海中は今、晩秋で、陸はもう初冬だ。四国西南部、高知県大月町柏島にほど近いこの海域は間もなく、北西からの季節風で海が荒れることが多くなる。客が減り、潜ることも少なくなれば、時間を持て余すようになるだろう。
 日常に少し余裕ができるこの季節は不思議と、毎年なにをしていたか印象に残っていない。そうでなくても地元に帰ってきてからは、トップシーズンの真夏でも、なにをしていたか記憶に残ることが少なくなってきたように感じる。目に入る風景に、薄いブルーのフィルターがかかっているようだ。
 小説や映画に描かれているような、目に入るものすべてが暴力的なまでに色鮮やかで、強い日差しで網膜に焼き付けられて一生忘れられなくなる。そんな夏は確かにあるとは思う。
 生涯忘れられない夏があるとすれば、フィリピンの、あのホテルで過ごした日々だろう―。
 干し場にレンタル用のウエットスーツを並べながらジンは思った。

 そのホテルは、フィリピン・ミンドロ島の小さな、ほぼ無名のビーチのそばにあった。ダイビングショップを併設した、こぢんまりとしたそのホテルは「ターナーズ・リバティ」という名だった。ひっそりと訪れる欧米からのダイバーが主な客で、オーナーはイギリス人のジェフで、スタッフは名字の宇賀神うがじんからニックネームがついたジン、韓国人の美姫ミヒ、オーストラリア人のジェーン、ドイツ人のエメリッヒ。年はジェフ一人が三十代半ば、ほかは全員が二十代だった。
 そのビーチは、静かな、秘密の楽園の趣きをしていた。水も砂も美しく、生き物は豊かだった。浜辺には町らしい町もなく人口の光が少なくて、夜空は星が美しい。あまりの心地よさに夜、浜辺で眠ってしまった客を探しに行ったことも数知れない。

 ジンの両親は四国の地元で釣り宿を経営していた。帰国後にその釣り宿にダイビングショップを併設することを口実に、彼は修行の名目でアジアのダイビングポイントをガイドとして渡り歩いていた。ターナーズ・リバティは、それまでは乾期のワンシーズンしか各ポイントに滞在してこなかったジンが、珍しく複数シーズン滞在した、一番居心地がいい場所だった。
 ジンがターナーズ・リバティに来てしばらく過ぎると、近くに航空会社系列の大きめのリゾートホテルが建った。ほぼ同時に、ビーチのそばに中国系資本の水産物加工場ができた。静かだったビーチは、通りにリゾート客目当てのクラブやバーが増え、現金収入が増えたローカルも夜遊びを覚えた。周辺が開発されて賑やかになるにつれて、静かさを好んで訪れていた常連客は、ほかの島々へと移っていった。
 最悪だったのは、沖合に中国海警局の船が頻繁に姿を見せるようになったことだ。周辺海域を自国の領海と主張してはフィリピンの漁船を追いかけたり、フィリピンのコーストガードの警備艇にわざと衝突する嫌がらせをするようになった。
 ある晩、ジェフがスタッフ全員をミーティングルームに集めた。
 「客も減ったし、静寂も失われた。ビーチも以前の美しさがなくなった」
 沈黙を少し挟んで、ジェフが口を開いた。
 「俺はこのホテルをたたもうと思う。シンガポールに同じくらいの規模のホテルを買う。『ターナーズ・リバティ・アネックス』だ」
 自分の迷いを振り切るように、ジェフは早口で宣言した。
 「知っての通り、シンガポールではほぼ潜れない。お前たちみたいな潜水中毒ダイブクレージーがホテルスタッフだけで満足するとは思えないが、希望があれば引き続き雇ってやる」
 口調に反して、誰かについて来てほしいという期待がジェフの表情からうかがえた。全員がしかし、とっさに判断できず沈黙した。数分の沈黙。誰もシンガポールへ渡るとは言い出さない。
 「なんだ、俺と新天地で働こうって奴はいないのか?」
 場が気まずさに支配された。
 「唐突すぎる提案ね。そもそも、なんで『ターナーズ・リバティ』って名前なんだっけ?」
 空気を変えるように、ジェーンがたずねた。
 「お前らは雇い主の名前も正確に覚えていなかったのか?。俺はジェフリー・ロイド・ターナーという由緒正しきイギリス地方貴族だ」
 ジェフが苦笑しながら答える。ダイバーは愛称で呼び合うことが多い。お互いの本名などとっくに意識しなくなっていた。
 「だれも来ないか。まぁ、お前らのブロークン・イングリッシュに影響されて、俺のクイーンズ・イングリッシュも台無しだ。一人でシンガポールへ行ったら、多少はましな英語が喋れるように戻るだろう」
 「しばらく待ってるから、興味が湧けば言ってくれ」。ジェフは寂しげな一言とともに、ミーティングルームから出て行った。
 「シンガポールにホテルを買うとはよほど貯め込んでたんだな。俺ら搾取されてる」
 笑いながらエメリッヒが言う。本気でジェフを悪く言うふうではない。
 残されたスタッフは自然と、お互い今後どうするかという話題になった。
 「とりあえず帰国する」
 エメリッヒが即決した。
 「私も帰国してG・B・Rグレートバリアリーフで仕事を探そうかな。美姫はどうする?」
 ジェーンも屈託無く、次のことを考え始めたようだった。美姫が答える。
 「私はモルディブに渡る。温暖化と海面上昇で数十年後にはなくなる島々かもしれないから、今のうちに見ておきたい」
 彼女たちの決断を聞きながら、ジンは先日、日本から受けた連絡を思い出した。父親の体調が思わしくない。帰国する潮時かもしれないな、そんなことを考えた。いつまでも自由を追い求め続けるわけにはいかない。

 「ジン、一緒に来ないか」
 「あなたたち一緒に行けばいい。バディとしてすごく息が合ってるし」
 美姫とジェーンが、ほぼ同時に口を開いた。
 日本と韓国。ほかの欧米系スタッフに比べると育った文化が近いせいか、ジンと美姫は言葉にしなくてもなんとなくお互いの考えが通じ合う部分があった。育った文化というよりはヒト同士の相性かもしれない。「ひょっとしたら俺たち、すごくいい関係を築けるかもしれない」。ビールに酔って、美姫の笑顔を見ている時、ふとそんな考えがジンの脳裏に浮かぶこともあった。
 別れが急速に現実として迫っている。美姫とともにモルディブへ渡るという決断は難しい。ましてモルディブへ渡るという美姫に、「日本へ来ないか」という一言を伝えるには決定的にジンの中になにかが足りなかった。

 最後の日、建物を背に全員で記念写真を撮った。「ターナーズ・リバティはみな同じ日に去ろう」というジェフの提案だった。
 「いいホテルだったな。お前らもいいスタッフだった」
 泣いているような、笑っているような表情で最後にジェフが言った。

 ジンのダイビングショップの壁一面には、彼が渡り歩いた海の写真とともに、あの最後の日の写真も飾ってある。帰国した後に一度だけジェーンから届いた絵はがきも小さな額に入れて本棚に立て掛けていた。
 ジェーンの絵はがきには、彼女がその後やりとりしたターナーズ・リバティのスタッフの近況と、少し衝撃的なことが書かれてあった。帰国してG・B・Rで働いているうちに、彼女は皮膚ガンを患ったという。強い日差しのもとで働く白人に時々みられる例ということだ。幸い早期に発見して手術後の経過も良好ということだったが、彼女はもうダイビングガイドは諦め、あまり日に当たらないようにオフィスワーカーになるということだった。
 いろんなものが変わって行く。
 潜水機材の干し場を片付け、写真のフレームを拭きながら、ジンは無性にあの夏を恋しく感じた。あのホテルの仲間たちとはこの先、人生が交差する可能性はまずないだろう。もう二度と会うことのない、青春の共犯者たち。
 配達物でも届いたのか、原付のエンジン音がした。来客を告げるベルがなった。ドアを開けると、日焼けした信じられないものが白い歯を見せて、いたずらっぽく笑っていた。
 美姫がいた。
 「私の壊れた日本語でも道聞きながらここまで来られたよ」
 「道を聞きながら? ナビというものがあるのに?」
 「ナビに表示された漢字地名は私には読めないの多いよ。ところでここで働きたい。スタッフ募集していること、ないですか? つい最近までモルディブで現役ガイドだったよ」
 驚きに少しだけ心を立て直す時間がいった。ジェフがジンや美姫、エメリッヒをからかっていた「ブロークン・イングリッシュ」をそのまま日本語に置き換えて「ブロークン・ジャパニーズ」からさらに直訳して「壊れた日本語」。吹き出しそうになった。少し落ち着いてから、ジンは口を開いた。
 「日本語では『言葉』は『壊れる』とはいわないよ。それで、ターナーズ・リバティほどには給料は出せないけど、いてもらえると助かるかな」
 視野に入るすべてのものが、鮮やかな色を取り戻したようにジンには感じられた。

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