僕の名は。
先日、外国人だらけのパーティに参加して一番嬉しかったことは、初めて会ったクリスが「ヒデアキ」と何度も呼んでくれたこと。
というのも、僕は僕の名である"英昭(ヒデアキ)"に愛着がない。
幼少から実感していることなのだが、名前が4文字以上になると、きちんと呼んでもらえることが殆どなく、あまつさえ、どういうわけか"シバ○○"(シバッチ・シバヤンなど)と、圧倒的に名字で呼ばれることが多い。"ヒデアキ"とフルで呼ぶ人は、親族を除くとたった2人。元妻すら"ヒデさん"だった。
一方、3文字までなら高い確率で名前をすべて呼んでもらえる。短ければ短いほど良いようだ。そして最近はそういう命名傾向が強い。
名字は一族を括るが、名前は個人を示す。
呼んでもらえるよう、呼んであげるよう、そして呼ばれやすい名をつけることが、親の義務であると思う。
成り立ちに出生と絡めたストーリーがあればなおさら良い。
ところが僕の名は「神主に5000円でつけてもらった」という、完全にそれらが放棄された成り立ちのうえ、これまで述べたようにろくに機能していない。
おまけに"英昭"という漢字自体、意味を説明しにくく、同名で偉業を成した人が滅多にいない。("秀明"は有名人が多い)
また、ハ行は、英語圏では発音しにくいようだ。自然に読むと"イデアキ"になるらしい。
よくわからない由来とともに5000円で買い与えられ半世紀持ち歩いている"英昭"のいう文字は、誰か他人のことのようにすら思う。
だからこそ、クリスが初対面で、僅かな時間ではあったけど、きちんと「ヒデアキ」と発音して呼んでくれたことは、一回ごとに感動的だった。
ぶっちゃけ、英語が苦手なので、他の文言があまり理解できていないのだけど「ヒデアキ」と言われるごとに、自分にこころを向けていてくれたことがわかった。
ああ、これが、僕の名なんだ、と。
嬉しかった。
嬉しかったけど、少し悲しかった。
この歳で、名の力を知ったことが。