歯医者さんがこわい
私の親知らずは、簡単には抜けないらしい。
医師によると、顎の骨が小さいことが原因のひとつなのだとか。
私の先祖は、やわらかいものばかり食べていたのだろうか。
それとも、かたいものもろくに噛まずに飲み込んでいたのだろうか。
どっちにしても、迷惑な話だ。
まあ、百歩譲って、そこまでは許す。
でも顎を鍛えるのがいやなら、せめて配偶者には顎が発達した人を選ぶ分別をもってほしかった。
6~7年前、顔を出しはじめた親知らずの抜歯を進められ、術前に必要な診察まで受けた。
でも、抜歯の予約には至らなかった。
だって、その際に聞いた抜歯方法の説明が恐ろしすぎたのだ。
それ以来、私は歯医者さんを避け続けた。
受診→親知らずの抜歯、というルートが見えてしまったからだ。
私は、自分から落とし穴にはまりにいくほどのマヌケではないのだ。
でも数日前から、治療ずみの奥歯が痛いような気がしはじめた。
さすがに歯の痛みは、自然治癒はしない。
というわけで、勇気を振り絞って歯医者さんに行った。
ただし、せめてもの悪あがきとして、前回とは違うクリニックを選んだ。
抜歯は避けられないとしても、もう少しソフトな治療法を選ぶ病院もあるのでは? と期待したからだ。
私は、子どもの頃から歯医者さんがこわい。
こう書くと、「私も」「オレも」「拙者も」などと言いだす人がいるだろう。
でも、軽い気持ちで共感を示さないでいただきたい。
私は本当の本当に、恥ずかしいほど歯医者さんがこわいのだ。
というわけで、6~7年ぶりに歯医者さんに足を踏み入れた私は、
「スリッパに履き替えてください」の表示を見落として土足で上がり込んで注意され、
入り口横の検温器に何度手首をかざしても検温できずに「今日はいいですよ」と苦笑いされ、
お財布から保険証を引っ張り出す際に、重なって出てきた小田急ポイントカードとユザワヤ友の会の会員証を床にばらまいた。
ちなみに、ユザワヤ友の会のカードはゴールド会員用の金色バージョンだ。
問診表の記入や初診時に必要な検査を終えると、やさしそうな医師があれこれ説明してくれた。
受診のきっかけになった歯の痛みは、どうやら気のせいだったらしい。
そして、最優先すべきは予想通り、親知らずの抜歯だった。
「やっぱり……」とつぶやいた私に、医師は明るく言った。
「たぶん、世界中どこの歯科に行っても抜歯を勧められると思いますよ」
そして、軽い調子で言葉を続けた。
「歯を抜くのはこわいですよね。まあ、得意な人なんていませんよ」
無言でうなずいて目を泳がせた私に、何か感じるものがあったのかもしれない。
医師は、重ねて聞いてくれた。
「あ、もしかして歯医者がすごく苦手だったりしますか?」
私はヘビメタファンのヘッドバンキングのように激しくうなずき、早口で訴えた。
とにかく歯医者さんがこわいこと。
以前通っていたクリニックで抜歯するつもりだったが、説明が恐ろしすぎてできなかったこと。
今ここにいるだけで血圧が上がりそうなこと。
私のような患者は決して少なくないのだろう。
医師は笑顔を保ったまま聞いてくれた。
「うん、なるほど。やっぱり、麻酔の注射がこわいんですか?」
……いいえ。針がこわいとか注射の痛みがガマンできない、なんて思ったことはありません。もちろん、好きじゃないですけど。
「そうですか。それなら、音ですか?」
……いいえ。特に音に敏感なわけじゃありません。たしかに気持ちいい音ではないですけど。
「う~ん。じゃあ、何かなあ」
……。
そう言われれば、歯医者さんの何がこわいのか? と、突っ込んで考えたことはなかった。
でもでも、私はこわいのだ。
たしかにこわいのだ。
私の答えを待っている医師に、この気持ちをなんとか伝えなければ。
「えーと、具体的に何がこわいのかはわかりません。
でも、こわいんです。本気で。
ちなみにどのぐらいこわいかというと、今、泣きたいぐらいこわいです。
あ、泣きませんよ。
本当に泣きはしませんけど、恐怖のレベルはそのぐらいです」
私の答えを聞いた医師は笑っていたけれど、心の中では、私を面倒くさい中年と認定したに違いない。
明らかにポイントのずれた会話をして医師の時間をムダにしたことは、心から申しわけないと思う。
でも私には、あの答えが精一杯だった。
私にとって、歯医者さんで正気を保っていることにはとんでもないエネルギーが必要だ。
思考に回す力など残っていないのだ。
結局、今日は説明を受けただけで何の治療もせずに帰宅した。
でも私は、運動会の後の小学生レベルの疲れを感じている。
仕事などできそうにないのでnoteに逃避したけれど、「歯医者さんがこわい」というそのまんまのタイトルはいかがなものか。
できればもうひとひねりしたいところだけれど、今日の私にそんな力は残されていない。
これからしばらくの間、私のnoteには「ごはんがおいしい」とか「今日は晴れている」なんてタイトルの投稿が増えるかもしれない。
そんな日は、私が歯医者さんに行ったことを察してやさしく見守ってほしい。