七里村の「物部社」
明治期に山梨県が認識していた「物部社」
明治24年に記された「山梨県市郡村誌 七里村誌」によると、七里村(現甲州市塩山)内に大石神社は登場せず、代わりに同位置に「物部社」の記述を見ることができる。
「村社社地東西四拾間南北拾間面積四百坪本村ノ当方ニアリ祭神可愛◼️手命(◾️不可読:おそらく「可美真手命」)大山祇命鎮座年月未詳」
明治期に村社となっていることを含め、祭神や境内の規模も山梨県神社庁の記録とほぼ一致する。
これまで挙げてきた資料はいずれも「七里村」規模の記録であり、大石神社が延喜式に見られる甲斐国の物部神社であるかどうかは不明確であった。
しかし、山梨県(甲斐国)の記録として、大石神社が「物部社」と称されていた可能性が高いことを示すこの資料により、甲斐国の物部神社が、すなわち大石神社であることを意味する可能性がある。
もちろん、本記録と延喜式の連続性はないため、依然として論社であることに変わりはないが、少なくとも県としての公式記録において「物部社」と称されていたことは、大正6年の神社台帳にみられる「一二物部神社ト称ス」の記述を支持する。
元禄二年三月に正一位となっていることも考えると、より注目されるべき神社であると、評価が見直されるべきではないだろうか。
前記事でも述べたように、実際に物部神社と称された神社が時代の移り変わりにより多数生じたのかもしれない。大石神社もその一つであると考えると興味深い。
いずれにせよ、明治維新以降も「物部社」と県の公式記録に残っている神社は、保全されることが望ましいと考えている。
お知らせ
大石神社について調べて参りましたが、その貴重さから、神社の運営のお手伝いをすることを目的とした、非営利団体である大石神社崇敬会(仮称)を立ち上げる努力をして参りました。
神社庁や区長様、氏子総代長様からの支持を受けつつ、ひと月ほど前から、総氏神神社の宮司様に、崇敬会立ち上げについてご相談をさせていただいておりました。
しかしながら、宮司様に思うところがあるとのことで、崇敬会立ち上げは認められないとのお返事をいただくこととなりました。
神社保全の観点からも、また、学術的な調査を組織立って行うための資源確保のためにも、崇敬会設立は有意義なものであると考えて参りました。
このような結果になり残念ではあります。
しかしながら、今後も大石神社を中心として、地域文化・信仰の歴史や経緯について、個人的にではありますが、より広い視野を持って学術的な調査を続けて参りたいと考えております。
引き続き、本ブログをご愛読いただけますと幸いです。