つまらないのお話
ここらでつまらないお話を少し。
SNS、動画投稿サービスなんかが流行りまして、もう随分経ちますが、
今や、誰も彼もが頼まれてもいないのに、ネタだのユーモアだのをひけらかして、衆目を集めようとする時代になりました。
無論、私もその一人でございます。
そんな連中が増えたのなら、さぞかし笑いの絶えない良い時代になってくれそうなものですが、数撃ちゃ当たるが信条の素人ばかりですから、そう上手くもいきません。
賑わいを見るなり えいやっ と意気込んで、得意満面でどこかで見たようなものを繰り出す輩が後を絶たない。
面白いものが増えたぶんだけ、つまらないものを目にする機会も増えてしまって、難儀な時代になりました。
とは言え、今の時代に限らず、面白くない人間というのは昔からいたんでしょう。
私は、そんな奴らが『つまらない』と言われるようになったのが、少しばかり不思議に思えるのです。
つまらない、もとい、詰まらない。
詰まりのないさま。
「しゃべりが詰まらない」 なんて書くと、
途中でつっかえずにスラスラとしゃべってそうに思えます。
面白くないものというのは大概、間が悪かったり、たどたどしかったりするものです。
「詰まらない」という言葉を聞いても、流れのいい水路のようなものがイメージされて、淀みのない、スムーズな感じで、どうにもそぐわない。
一体全体どういうワケで、面白くないものを指して『つまらない』と言うようになったのか?
私の聞いた話によると、こんな由来があるようです。
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戦国の世が終わり、天下泰平の頃。
町人文化が花開き、歌や踊りや咄しのような娯楽を売る商いが流行っていきました。芸人の台頭です。
メディアなんてものは立て札くらいしかない時代。
当然、彼らの芸はお客の目の前で見せる他ないわけですが、決まった劇場や舞台を持たない大道芸人のような連中にとっては、お客を見つけるというのは簡単なことではありませんでした。
兎にも角にも、人の目に付かなくては始まらない。
金払いの悪い相手に見せたって仕方がない。
人の行き来の多い街道沿いや、湯治客で賑わう宿場町なんかで芸を披露したいところですが、目ぼしいところはみんな、他の芸人の縄張りになっていることが多かったのです。
芸人が裏も表もひょうきんなわけではなく……。
大きな縄張りを持つ芸人には、大抵の場合、おっかない後ろ盾というものがありまして、勝手にお客を奪ったりしたらどんな目に合うか分かりませんでした。
演芸とこういった稼業が切っても切り離せないのは、今も昔も変わりませんね。
いざ縄張り争いが起きてしまうと、お互いの食い扶持がかかってますから、それはもう苛烈を極めました。
行くところまで行ってしまって、流血沙汰になることも珍しくはなかったとか。
このように、芸を見せるために「力」が、明け透けに言えば「暴力」が必要になることがこの時代の常識ではあったのですが、必ずしも力が強い方が、毎度好きに興行を打てるというわけでもありませんでした。
というのも芸人には、縁起物としての役割もあったのです。
自らの芸で笑いや驚きを起こし、陰の気を払って、福を呼び込む存在でした。
そのため、あんまりにも血なまぐさい噂がつきまとうとお客が離れてしまうし、何より、場を貸してくれている有力者に厄介払いをくらってしまう。
芸を見せる場は譲りたくはないが、できることなら周囲からひんしゅくを買うことも避けたいという気持ちが芸人達にはありました。
それが特に顕著に出るのが新年でした。
新年は芸人にとって一番のかき入れ時。
新年参りの境内での公演ともなると、ご祝儀だ、おひねりだで、その年の大半の稼ぎを一日で得られましたから、芸人達は皆、目を血走らせてその権利を欲したものです。
しかし、特に縁起を担ぎたい場ですから、場を貸す人間に少しでもやましいところがあると思われた者は、候補からはじかれてしまいます。
そんなわけで芸人達は、なるべく殺伐とせず、周囲を含めた全員が納得する形で、芸を見せる権利を勝ち取る方法が必要になったのです。
今の時代であれば、収拾のつかない揉め事があったなら、裁判を開いて決着をつけるわけですが、当時であれば、裁判の他にもうひとつ決着の方法がありました。
当事者同士で時と場所を定め、公正な第三者の立ち合いのもと勝負を行うという方法。
すなわち、果し合いです。
と言っても、芸人らが刀を振り回して戦うわけではありません。
剣に命を賭すのは侍同士でやることです。
芸人同士であれば当然、お互いの芸で競い合います。
そんな芸人流の果し合いの中で、最も厳かに執り行われるのが、先に述べた新年の興行権を巡る果し合いでした。
この興行権とは単体の場ではなく、新年の賑わいを見せる領域一帯に及ぶものでした。境内をメインステージ、目抜き通りの見世物小屋はセカンドステージという具合に、大小様々な場があります。
そのため果し合いの主体となるのは芸人個人ではなく、芸人らが結成した組合でした。勝った方が組合内の番付に応じて、芸人らを場に割り振るわけです。おいしい場にありつきたい芸人は、いずれかの組合に属さざるを得ませんでした。
組合同士の果し合いではあるものの、勝負そのものは双方の立てた代表者による一対一が基本となります。芸の種類によっては一組対一組という構図になったりしますが、一つの芸と一つの芸の一回勝負という形は変わりません。
勝負の内容もなんら難しいことはなく、互いに芸を見せ合うだけのことです。
肝心なのは勝敗を決める裁定の方法です。
審査員による採点方式を取ってしまうと、審査員自体の公平性に対する疑惑を拭いきれませんでした。やれ裏金だ脅しだなんて噂の立つ余地が残るようでは、わざわざ果し合いを行った意味がありません。
それに芸人流とは言え果し合いである以上、やはり勝敗は勝負の場に立つ者自身の力量と、天の采配に委ねられるべきと考えられていました。
そんな果し合いの原則に則った決着を付けるべく、勝負の際に使用されていたものがありました。
その年の豊穣祭の折、芸能の神様である天宇受売命に奉じられた米を以て拵えた『餅』を使っていたのです。水気が多くなるように作られ、甘葛煎を練り込んでいたため、普通のものと比べて柔らかく、粘つきの強い餅です。
この餅は『秤餅(はかりもち)』と呼ばれました。
芸人流の果し合いは、まずくじを引いて先手と後手を決めることから始まります。
その後は一塊の秤餅が運び込まれ、先手となった者がこれを半分に切り分け、後手が二分されたどちらかを選び、これを口に含みます。
口に含むのは嵩にしておよそ半合ほどの量であり、口いっぱいと言って差し支えない量です。
餅を口に含んだ方が攻守でいうと守りの側となり、
攻め手は自らの芸を以てして笑いや仰天をもたらし、相手に餅を飲み込ませるか吐き出させることができれば勝利となりました。
『芸を終えた時点で相手の口の中に秤餅が残っていない』という明確な勝利条件を設けることで、
芸によってはっきりとした決着をつけることが可能になったわけです。
もう少し細かい作法についてもお話しますと、攻め手の方、芸を見せる側にはあまり制約がなく、各々得意とする芸を披露できたのですが、受け手の方にはいくつか決まり事がありました。
簡単に言うと「相手の芸をきちんと見ない」ことと「餅を口に留めやすくする」ことを防止する策でした。
前者については「瞬き以外で目を閉じてはいけない」、「目線を逸らさない」の他、少々世知辛いのですが「視覚や聴覚に問題があるものは参加できない」という決まりがありました。
そして後者の対策は「下を向かせない」というものでした。秤餅は口いっぱいの嵩があるので、舌を丸めて喉に蓋をするといったずるはできなかったんですが、頭を前傾させて、相手の芸を上目遣いで見るようにして、口の中の餅が喉の方に行かないようにすることはできたので、それを防ぐ策です。
果し合いは野ざらしではなく、劇場を借りるか、少なくとも舞台は設えてある場所で行われましたので、受け手は舞台上の攻め手を見ていますから、普通に見ていれば軽く仰ぎ見るような形になりました。そのため口の中の餅をどうこうしようとすれば、分かりやすく不自然な体勢になったそうです。
芸人の果し合いにおいて勝敗自体を審査する者はありませんでしたが、こういった不正を行っていないかをチェックする「見定役」という立場の者が存在しており、不正があった者は警告を受けました。
何回か警告が続くと失格というルールも存在していたようですが、曲がりなりにも芸人の代表として果し合いに臨んだ者ですので、そのような白けるマネを続ける輩はいなかったでしょう。
特性の秤餅に加え、これだけのお膳立てがありましたので、芸が見事なものでさえあればきちんと決着は付きました。
攻め手の披露した滑稽話や軽業に、堪えきれずに笑いや驚嘆の声を上げようものなら、秤餅は息を吸った拍子にするりと喉に滑り落ち、そのままぴたりとへばりつきました。
当然、息ができなくなりますので、苦しんでばたばたともがき出したところで、見定役が介抱し、餅を吐き出させます。
見定役が介抱に立ち上がったあたりで、観客がワッと湧いて、攻め手の側が勝ち名乗りを上げ、決着となりました。
果し合いには観客を入れていました。客が居ないところで芸を見せてもしょうがない、というのが一番の理由ではあるのですが、果し合いが本番の興行の宣伝も兼ねていたのです。
そして、芸がウケず、相手の口の中に秤餅が残ったままになってしまった芸人は、おまんまの食い上げを食らった身内の芸人から
「秤餅が詰まらないような芸をしやがって」
と散々になじられてしまったわけです。
この果し合いによって芸の良し悪しが秤餅が「詰まる」か「詰まらない」かで評されるようになり、
果し合いに出る者を決める時にも「お前の芸じゃあ詰まらねえよ」などと言うようになりました。
これが今日の『つまらない』という語に続くのだと言います。
良くできた芸に対しては、「詰まる」という褒め言葉が始めのうちは使われていたそうなのですが、息苦しさを連想してしまうためか、餅を喉に詰まらせたまま不幸なことになってしまったケースがあったのか、こちらは徐々に敬遠されて使われなくなりました。
人が死ぬことを「仏になる」と言うように「詰まる」という言葉も遠回りな表現をされるようになり、餅が詰まると直接的に言うのではなく、餅を詰まらせた者の顔色がだんだんと蒼白くなっていく様子から、『面白い』と言うようになったとか。
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芸人がお客を勝ち取るために行ったこの果し合いには副産物がありました。
反応すまいとする相手を如何に笑わせるか、驚かせるかに苦心したことで、芸の水準が飛躍的に向上していったのです。
芸人達がとりわけ力を入れていたのは、自分の芸にどれだけ革新性を持たせられるかということでした。
予想の範囲内の芸では相手に堪えられてしまうため、相手の予想を上回ろうと努力し、相手の意表を突こうと工夫を重ねたことで、技術が磨かれ、多様性が生まれました。
芸の発展は連綿と積み重ねられ、今日の巨大なエンタメコンテンツへと成長を遂げました。
しかし、現在も飛び交う「面白い」「つまらない」という言葉に、かつての真剣勝負の熱量はもはや込められていないと感じます。
膨れ上がったエンタメは芸人とお客の境界も押し潰し、今の時代は「面白い」と言われたがる輩で溢れかえっています。
私も同じ穴のムジナですから、それを責めはしませんが、どうせなら語源に立ち返って、なるべく原点に近いものを追い求めてほしいのです。
テンプレートの流用や模倣に終始して得られる「面白い」は、せいぜい指で"いいね"をタップしてもらえる程度のものです。
相手の予想を超える気概がなければ、いつまで経っても口の中に餅は留まり、つまらないままでしょう。
ー 終 ー
【参照文献】
大洞出版『芸能経済録 〜おひねりから裏金まで〜』 著:田猿 輝夫
字向出版『大道芸の歴史』著:孟 厳