#4 自分の「だらしなさ」と向き合う

私はかなりだらしない人間である。

部屋が片づけられない。家でも必要最低限のことしかせず、ほぼずっと同じところに座ってだらだらしている。「やるべきこと」は基本やれず、「やらなきゃいけないこと」だけギリギリになって慌ててやる。



今でこそ自分が相当だらしない人間だと自分で認めているが、たぶん人生の途中まではそれをよく認識できていなかった。

周りから優等生に見られていたこともあって、できない自分を認められなかったのかもしれない。

思えば私のこのネガティブで自己否定感の強い性格は、「私は他の人と同じようにちゃんとできない」ということに気づき、その度に自分にがっかりし続けてきた結果の、成れの果てだったのかもしれない。



学校でも職場でも、締め切りのあるものを早めに出す人は「偉い」と言われるから、ギリギリになってから慌て出す自分を「ダメだ」「情けない」と思って自分を責めてきた。

でもどんなに自分を責めても、私は変わらなかった。小学生の頃、夏休みの宿題を2学期スタートの日の夜に泣きながらやっていた私は、大人になっても職場で締め切りのある提出物を翌営業日の朝に慌てて提出している。

何も変わっていないのだ。



普通にちゃんとできる人からすると、「どうしてやらないの?」「やればできるのにもったいない」と思うらしい。うちの母はこのタイプだったので、母に相談してもずっとこれを言われるだけだった。

ちなみにこの「やればできるのにもったいない」という言葉はさらに私を苦しめた。どうしてやらないの?やれば未来が変わっていたかもしれないのに・・・

分かっている。分かっているけど、やりたくない。やりたくないことはやらない。たとえそれがやるべきことだとしても。

それがつまり「だらしない」ということなのだ。

そうやって、やれない自分を責めて生きてきた。



でも、自分の経験上、確実に言えることは、自分を責めて何かをさせようとしても決して上手くはいかないということだ。

「ああ、またやれなかった・・」と自分を責めても、次も絶対にやる気にはならない。次もやれなくて、またさらに自分を責めて、自分をどんどん嫌いになっていくだけだった。

私はもう大人なのだから、それを叱る先生や親はいない。誰に責められているわけでもないのに、今でも自分で自分を責めてしまう。そしてさらに落ち込んで、やる気をなくしていく。



なんでそんなことをしているんだろう。

このまま一生、それをし続けるんだろうか?それはなんだかとても馬鹿馬鹿しいことな気がする。

学校では、きっと良かれと思ってそう教えてくれていたんだと思う。

だけど、その呪縛に勝手にはまって、大人になっても自分を責め続けていたとしても、それはなんの役にも立たないんじゃないか?



なので、もう金輪際、だらしない自分を責めるのはやめようと思う。

「私はだらしない人間です。

だらしない自分を無理に変えようとするのもやめます。

でもその全責任は自分で負います。」

それでいいじゃないか。



だらしないことで、仕事の評価が落ちても、人の信頼を失っても、それは自分の責任だ。

そこまでの覚悟を持って「やらない」のか、それでは困るから「やる」のか、それを自分で決めればいいだけだ。

自分がだらしない人間だと理解した上で、自分の行動の結果にちゃんと責任を持てばいい。



「私はだらしない人間です。」

そう認めることで、なんだか胸のつかえが取れたような、肩の荷が下りたような、そんな気持ちになる。

もう優等生を目指すのはやめよう。



でも、そんなだらしない自分と付き合っていくのは、だらしなくない人の生活よりもたぶん面倒だ。

例えば、日常生活の中で、「これだけは頼むからやってほしい」と思うことがある。

一つは、部屋を片づけてほしい。

もう一つは、noteを続けてほしい。noteじゃなくてもいいから、とりあえず書くことをしてほしい。



前回の記事で「決まり事を作って、一週間それを守る」みたいなことを書いて自分に鞭打ってみたわけだが、見事にダメだった。

だらしない私は、決まり事をあっさり破ってしまったわけだが、その結果「結局またできないのか・・・」と自分を責め立てることになっただけで、あれは全く自分に優しくない方法だった。



誰がなんと言おうと、自分が幸せになる方法は、自分で考えなければいけない。甘いと言われたっていいのだ。

だらしない自分のまま、自分とうまくやっていける方法を考えようと思う。それは誰でもない自分が考えるしかない。

自分が自分に優しくなれなければ、幸せには絶対になれないのだから。



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