一週間ライブ配信を離れてみての感想
REALITYというアプリでゆるゆると活動していたが、自分の中でぬぐえない違和感があって一週間ほど離れてみることにした。
もともとVtuberに興味がなく、昨年の感染症に対する政府の宣言の時期にREALITYを始めた自分にとって、推し事、配信活動という文化は新しいことずくめで、いい意味でも悪い意味でも様々な刺激をもらった。
ロールプレイや全肯定、杞憂民にファンチ(厄介ファン)など…
この界隈に来なかったら一生聞くことのなかった単語も色々と知識として蓄積できた。
また、配信者として家族ユニットを結成して活動したり、イベントを走ってみたり、好きな配信者のイベント応援にコラボで参加してみたり…
学ぶ事が非常に多かったし、これからも学んでいくのだろう。
年齢を重ねるほどに「学び」というものの尊さを知るし、自分の中に何かがインプットされていくことに得難い喜びと興奮を感じる。
この6月で1年を迎える配信界隈での活動(「配信活動」と呼ぶには活動しなさすぎなのであえて「界隈での活動」にとどめておく)を振り返り、ここに記しておきたい。
※非常に辛辣な書き方をしてしまっているので、今現在悩んでいる方や強く影響されやすい方には非推奨の文章です。
ぬいぐるみ、お気に入りのアクセ、おいしいグミやチョコをお手元にご用意してからの閲覧をおすすめいたします。
・現実世界と似て非なるもの、しかし遠からざるもの
俺が活動する「REALITY」のキャッチコピーは
「なりたい自分で、生きていく」
というもの。
ルッキズムをはじめとした「先天的に生まれてくる差異」の垣根をできる限り取り払い、
自分の望んだ姿(アバター)
自分の望んだキャラクター(ロールプレイ)
自分の望んだ生き方(ライバーかリスナーか、その両方か)
で生きていこうじゃないかという意味に自分は捉えている。
このキャッチコピーが、俺は実に好きだ。
先天的な才能や環境や人間関係、様々な壁やハードルによって自分の生きたい生き方を制限されてしまう現実世界から、「逃げ」ではなくポジティブな気持ちでVirtualの世界へと身を投じる前向きなパワーを、この言葉から感じるためだ。
しかし、現実世界と完全に隔絶されているかと言えば、そうでもない。
「人気者になりたい」という自分を思い描いてREALITYを始めたとしても、現実は残酷で、才能や努力や工夫や運や、様々な要素を積み重ねた一部の人間が人気になる。
コミュニケーション能力の高い者は好かれやすく、共感能力の高い者には人が集まり、トークスキルの高い者の配信は多くのリスナーが耳を傾ける。
バーチャルの世界で「なりたい自分」になるのにも、現実世界と同じく、努力が必須で、工夫は当然で、運も重要なファクターとなり、それらの根幹に存在するのはやはり「才能」なのだ。
嫉妬に聞こえるかもしれない。「お前はそんな偉そうなことを言えるまで努力したのかよ」という意見もあるかもしれない。
その通り。
俺は嫉妬もする人間だし、努力不足を自覚したうえで偉そうにこんなことを書いている。
それなのに、なぜこんな事を書けるかというと、それは俺が「ライバー」よりも「リスナー」気質であるからなのかもしれない。本文は自分自身が味わった理不尽ではなく、応援していた人たちが味わっている気持ちが傍観者、第三者の立ち位置からは痛いほど伝わってくるためだ。
なぜ。どうして。どうすれば。
夢を追いかけるライバー諸氏の、そんな声に出せない悲痛な叫び(声に出している人もいるけれど)を自分が客観的な視点でどう受け取ったか。もしかしたら客観的な視点すら持てていないかもしれない。HSPの気質がある可能性があると診断されたことがあるが、もしかしたら本当にそうかもしれないと自分でも思う。
※HSP=ハイリー・センシティブ・パーソン。病気ではない。気になる人はググってみてね。
・「才能を持った人間が理不尽に埋もれる事を防ぐ」役割
REALITYの「なりたい自分で、生きていく」
またYouTubeの「好きなことで、生きていく」
これらのコピーは決して間違っていない。YouTubeのおかげでやりたい事を仕事にする事が出来たという例はいくらでもあるし、REALITYというプラットフォームから、一般の学生・社会人だった人が千、万を超える人から応援・支援される様なスターになっているという事例もある。
間違ってはいない。けれど、不十分なのだ。
キャッチコピーとは本来そう言うもので、言葉の持つパワーを最大限に発揮するために「より簡潔に、より力強く、より印象的に人の目に、心に飛び込ませる」ことを目的としたものである。余分な説明や但し書きは省かれてしかるべきで「一番伝えたい事」を集約してあるのがキャッチコピーだ。
ちなみに上記の「間違っていないが、不十分」というのは、超有名予備校講師の林修先生が「努力は裏切らない」という言葉に対して言った事に大いにインスパイアされている。
林先生はこう言っていた。
「『努力は裏切らない』という言葉は不正確だ。正しい場所で、正しい方向で、十分になされた努力、これは裏切らない、というのが本当だ」
がむしゃらに努力しても、夢は近づいてこない。夢に近づくために適切な努力を積み重ねて初めて、意味を持つのであるという言葉だ。
そして努力の方向性の中には「才能」という言葉が内包されているように感じてならない。「才能」という言葉だと抵抗を感じる人も多いと思うので「適正」と言い換えてもいい。
勉学は工夫であり積み重ねであり環境整備であり、努力の余地が大いに残されている点で平等性がかなり高い競争だと思うが、ライブ配信活動は「人気商売」である。
勉学に比べ、人気商売・タレント業ほど必勝法の不明瞭な、それでいて不平等な競争も他には思いつかない。
ウマ娘というアプリが大変な人気を博している。競走馬を擬人化させて競馬で勝ち抜いていくという、萌えとスポ魂(死語)が折り重なった大変出来のいいゲームだ。俺自身もオグリキャップがURA(パワプロサクセスでいう甲子園的なラストステージ)で優勝した時は年甲斐もなくジワリと来てしまった。
アプリ内でもそうだが、現実の馬にももちろん適性があり、長距離を走ることが苦手な馬がどれほど訓練を積んだところで、血統的に長距離を得意とする有力馬にはほとんど勝てない。逆もまた然りだ。中には作戦で相手の得意戦法を封じ込め、大穴を開けて勝ってしまうという事実も存在するが、本当にごくまれだ。第一、それで勝ててしまうような馬は基本的に適正距離でのレースでは負けなしのスターホースだったりする。
「才能」すなわち「適正」が元々あって、それが芸能界というゴールを目指したレースの中で、馬込みの中に埋もれて本来の脚質を活かしきれていない。見つけてもらえない。これまでの夢追い人の多くはそれを理由に諦め、また敗北していった。
そんな彼らにとって、YouTube、ライブ配信アプリ、歌ってみた投稿アプリなどは天の助けともいえる。
事務所に、マスコミに、大きな力に後押しされる必要もなく、優れていれば目立ち、自身の才能を見つけてくれたファンたちによって拡散され、日の目を浴びる事を許される。
「自分には才能がある」と信じて頑張り続けてきた人にとって、新しい表現の場を与えられることがどれほど救いになったことか。
YouTubeやニコニコ動画、それにREALITYなどの配信アプリが生まれたことによって、才能を世に出せたアーティスト、才能を目の当たりにできたファンは数多い。それこそが配信プラットフォーム最大の功績だと言える。
「才能」「適正」のあるものにとっては、だが。
・非情な現実を再認識させられるという事もある
「なりたい自分で、生きていく」という言葉に希望を抱いた人は少なくないはずだ。俺自身もそうだ。
現実の自分とは違う、キラキラした世界で、たくさんの人に囲まれながら、自分らしさを積み上げ、自分を表現していく。
全員が全員、そんな生き方が出来ているのだろうか。
当然のことながら、そんなことはない。REALITYに限らず、どの配信プラットフォームでも格差というものは存在し、希望を抱いて入ってきたユーザーが「思っていたものと違う」という感覚を抱くことはあるはずだ。
それは、YouTubeのせいでも、REALITYのせいでも、誰のせいでもない。
結局、人間がやっていることである。
配信者も視聴者も運営も等しく人間である限り、常人をスーパーマンにすることはできない。そう「見せる」ことはできても、長くは続かないだろう。
歌が苦手な者が「超一流歌配信者」というのは、100%不可能ではないが、茨の道なのだ。
このキャッチコピーは「なりたい自分」に100%なれるという事ではないのである。
歌で人気を博する配信者はもともと歌がうまいし、トークで人気になる配信者はもともとしゃべり上手なのだ。
才能という下地に努力という石垣を積み上げ、強固な地盤があるからこそ、アバターという城が映え、様々な人が見に来るのだと思う。
「努力をしてから言え」
という言葉には大いに賛成だ。誰かの才能をうらやむ人間は、少なくともその才能ある誰かと同じ程度の努力を積み上げてからでなければ、才能をうらやむことはしてはいけないと思う。
それでも一般的には、才能の差というのは顕著に存在してしまうものなのである。
・自分の着たい服と、似合う服は違う。それくらいわかってる。
イブニングKC「少女ファイト」という漫画の中にこんなセリフがある。
春高バレー(サッカーで言うと冬の国立、野球で言うと春のセンバツみたいなもの)を目指す女子たちがバレーを通して人間的にも成長していくという、非常に考えさせられる漫画だ。
稀有な才能と高い技術力に加え、誰よりも努力していた彼女が泣きながら言い放ったセリフ。詳細はネタバレを含むため省くが、ぜひ読んでみてほしい。
適正のない人間がいくら努力しても、本当にそのポジションに適性のある実力者に追いつくのは並大抵ではない。
そして彼女は涙ながらにこう続ける。
「でも一度くらい、自分の着たい服で認めてもらいたいじゃない」
痛いほどわかる。自分が焦がれ、目指したものと、現実が乖離していた時のその切なさ、つらさ、苦しさ。
たとえば、煌びやかなステージにあこがれ、正統派アイドルを目指していた少女が、トーク力を買われてバラエティアイドルになった。
客観的に見れば適材適所、ステージよりもひな壇で強みを発揮する彼女は成功者と言えるのかもしれない。
しかし、それは同時に「歌とダンスではあなたよりも適した人材がいる」と突き付けられたのに等しいのではないか。彼女の胸中はいかばかりか。
人気商売と前述したが、そう、商売なのだ。
そのタレントの商品価値が最も高まる市場で勝負させることは、市場原理から見てもなにもおかしなことではない。
むしろ、彼女らはまだラッキーな方なのだ。
不本意だったとしても、自分の輝ける道を見つけられたのだから。
・やさしいせかいの中で、自分だけは自分に厳しくする瞬間を
配信界隈はよく「やさしいせかい」と評される。
それが直接的な賛辞なのか、それとも皮肉を込めての言葉なのかは個人個人の感覚により違うだろう。
文章の頭に書いた「ぬぐえない違和感」はもしかしたら、これに起因するのかもしれない。
ライブ配信ユーザーのほとんどの人と同じく、俺も強い承認欲求を持っている。
認めてもらえれば嬉しいし、同じジャンルで自分より評価されている人がいれば素直に嫉妬もする。
承認欲求の強い、若い世代の多い配信界隈は、基本的に「承認」つまり、認めて褒めて、相互に高め合う世界だ。
それは本当に素晴らしいと思う。現実世界では誰かを素直にほめたり認めたり、評価したりするのは少しためらわれる事もある。(特に、成人男性が若い女性をうかつに褒めるとセクハラなんてことになりかねないし)
バーチャルの世界を通して、相互に高め合い、相手の、そして自分の魅力を発見していくのは本当に素晴らしい行為だし、それによって救われた人も多いことだろう。
しかし裏を返せば、批判や批評に対しての耐性が非常に低い人が多い、という面もある。
配信者のパフォーマンスに対して、成長を願う意味であっても少しでも否定的なことを言えば
「厄介リスナー」
「何様だよ」
「お前がやってみろよ」
「荒らしはやめろ」
「嫉妬してんだろ」
という言葉が飛んでくるのを見かけることがある。その場でなくても、SNSでという事もある。
もちろん、全部の配信がそうというわけではないが。
基本的な「やさしいせかい」の空気に慣れすぎて、悪意ある言葉と真摯な批判がごっちゃになってしまっている部分もあるのではないか、と思う。
たしかに、本人が批判を望んでいない配信の中で「ここがイマイチだった」などとコメントするのは、ちょっと空気が読めていないと思う。
批判は、あくまで本人が「忌憚のない意見」を望んだときのみ言うべきことだ。
誰だって、批判されるよりは褒められたい。
俺だって、批判されたら腹も立てるだろう。
それでも、夢を追っている以上、少なくとも「そんな意見を持つ人もいる」程度の飲み込みは必要ではないか、と思う。
簡単にそうできない理由として、悪意のあるリスナーが炎上を狙って辛辣なコメントをしてくるという事が多すぎるという点もあるが。
ちなみに俺は、仲のいい人から言われた言葉は必要以上に重く受け止め、深く考え、勝手に落ち込むこともあるが、まったく見ず知らずの人の言葉はそんなに響かない。「まあ、こう思うやつもいるか」くらいで、その言葉をいつまでも引きずるという事はない。
「やさしいせかい」は、競争激しい人気商売の世界で生き抜いていくためのシビアな視点を、配信者から奪い去ってしまうのではないか。
残酷なことだが、努力では補えない適正というものがあるのもまた、現実なのだ。
そして、夢に向かって全力疾走している自分の視点からでは見えてこないものも、確実に存在する。
・今自分が持っているもの、持っていないもの、手に入れることが出来ないもの
どなたかの記事で
「男性ライバーは『ASMR』や『セリフ』や『甘い歌詞の歌』など、イケカテが今の市場にマッチしている」
というのを見て、
「絶望じゃねえか!」
と自分の適性のなさを呪ったのは記憶に新しい。
だが、それでも面白いトークをみんなに届けたい。
「面白いね!」と言われたい。
今流行りの服は残念ながら自分には似合わなかったが、きっと似合う服が存在すると信じて。
自信は大切だ。過信は禁物だ。
過不足なく、自分を見つめていけるように、「やさしいせかい」に甘えすぎないように。
夢破れたときに、その自分をきちんと受け入れられるように。
似合わない服に固執しすぎると、後悔が生まれてしまうかもしれないから。
「あの時こうしていれば」を、今から一つずつ潰していこう。
配信から離れた一週間で思った、とりとめのない思考を書きなぐってみました。
気分の悪くなった方もいるかとは思うが、これがしばにぃという人間が思う、人気商売への所感だ。
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