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わたしは逃げるよ。

子供のいじめ問題は、なくならない。

わたしは小学5年生のころ、何か月間かいじめられていたことがある。

仲の良かったともだちと、ガキ大将の悪口を言い合いながら帰ったら、次の日にそのともだちが、わたしだけ悪口を言っていたと告げ口をした。

それがキッカケで、その日からガキ大将と、そのほか仲良くしていた何人かはわたしを無視しはじめた。

金曜日の給食はいつもカレーだった。
カレーの日は、それぞれが好きなともだちと班になって食べられる制度があった。

だから、金曜日がゆううつだった。
いつも集まって食べる4人は、わたしを仲間に入れてくれなかった。

それからしばらくは、たいして話したこともない、数人の寡黙なグループに入れてもらってカレーを食べた。

しかし、そのグループのみんなは普段入ってこないわたしに対していやな顔をすることもなく、太っちょのS君が「カレーにソースかけるとうまいんだって」と話しかけてくれたことを強烈に覚えている。

きっと、周りの人にとっては、わたしがいつものメンバーでカレーを食べていないことなど、さして違和感もなかったのだろう。
「めずらしいね」くらいの感覚で歓迎してくれていた。

客観的に見たら、たしかにそんなもんだろう。

しかし、当の本人のこころのなかはグチャグチャだった。
情けないようで、こころが針のむしろで締め付けられるような、苦しい気持ちだった。

だからあのころは、とにかく学校に行きたくなかった。
とにかく、行きたくない。ひたすらそれだけだった。

ひとりでさぼって海に行ったり、車庫の裏に隠れたりして時間をつぶした。

親や先生に頼るのは恥ずかしかったし、いじめられてるって言いたくなかった。

逃げて、逃げて、とにかく逃げた。

その小学校では、病気で1日休むと、その翌日以降はとくに連絡をしなくても休み続けられた。

でも1週間も休み続けたので、これはまずいだろうと思い、母親の声マネをして学校に連絡を入れたら、すぐにばれた。

親父にビンタされた。
でも、いじめられてることは、格好悪くて言えなかった。

それから次の日、なんとか学校に行った。

細かいことは覚えてないが、学校に行くとガキ大将から「キャベツを刻んでマヨネーズで食べる人をやって」と言われた。

よく分からなかったが、わたしが学校に行っていない間に、そのよく分からない設定を、ひとりで演じ切る遊びが流行っていた。

よく分からないまま、わたしもピン芸人のように、「キャベツを刻んでマヨネーズで食べる人」を、自分なりにおもしろおかしく演じた。

すると、周りが爆笑した。

輪の外にいた女子までもがケラケラと楽しそうに笑った。

そこから、わたしのいじめは徐々に終わっていった。

授業中、先生が職員室に忘れ物を取りに行く。
その数分間の隙を狙い、クラスの誰かが「キャベツが観たいー!」とリクエストする。

わたしが演じると、教室が爆笑の渦だった。
その年、ともだちがくれた年賀状には、「マヨ最高だったよ~!」とか「オレも今年はマヨネーズ!」とか、まるで流行語のように書かれていた。

好きだった女子から「あのマヨネーズのやつ、ほんとおもしろいよね!」とまで言われた。

わたしはそこで、人を笑わすことは、自分の身を守ることにもつながるのだと学んだ。

人が数人集まったら、斜に構えているよりも、場を盛り上げる発言を心がけて生きるようになった。

いつしかカレーの日も、ストレスではなくなった。

だけどわたしは、とても運が良かったのだと思う。

子供のいじめは、そんなにうまく解決しない。

いじめと死は、紙一重だ。

人は、いま生きている自分の周辺がすべての世界だと思い込む。
限られた数十人の人間の性格や行動が、この世界のすべてなんだ、と。

その住人から裏切りを受け、傷つけられたら、もう生きる場所がないと思い込む。
これは、本当にそうなのだ。

だから、頼むから、いじめで苦しむ子供がいたら、逃げられる場所を作ってあげて欲しい。

いじめられたら、逃げればいいんだ。
大人たちは、その場から子供を逃がしてあげて欲しい。

もちろん本人の気持ち次第では、戦ってもいい、工夫してもいい。

でも最後には「逃げる」という選択肢もあるんだと、分かったうえで戦って欲しい。

いじめを苦にして死ぬなんて、こんなにむごいことはないから。

それは大人でも一緒だ。
仕事でも過労でも、自殺する前に逃げよう。辞めよう。

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しばいぬたろう
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