大吉原展を見に行って、歴史と罪について考えた話
東京藝術大学の「大吉原展」を見に行きました。
発表時点でSNSで軽く炎上していたのもあって応援の意味をかねて……。
華やかな吉原の展示は倫理に反しているのか?
令和の吉原炎上に関してはまぁネットでも色々と記事があるので詳細はそっちに。
私は、まぁ「吉原がもてはやされて、文化・流行の発信源となっていたのは歴史的事実じゃん?」と思っています。
その裏で悲惨で過酷な境遇になっていた方も数えきれないほどいますが、他の視点から見れば「華やかで楽しい場所」だったのは事実。そこを否定するのもまた「吉原の一面しか見ていない」となってしまうのではないでしょうか。
そもそも、わたしは江戸中期の全盛期吉原と、明治以降の吉原は別のものと思います。運用されている法律だって全然違うものだし……。
そんな感じで展示を見に行きました。
遊女たちの幸・不幸
展示がとてもこだわっていて、吉原で生活していた遊女たちの息遣いが聞こえてくるようでした。
特に辻村寿三郎の人形が並ぶ遊郭のジオラマは圧巻の一言。
他にも、実際に遊女が来ていた艶やかな着物や、生き生きと描かれた浮世絵……これらを楽しむことは、倫理的に反していることなのだろうか?
私は「現時点では罪ではない」と考える。少なくとも、これらを展示すること・見に行くこと・楽しむことが何らかの法律に反しているわけではないはずだ。
でも、100年後、200年後、400年後はわからない。もしかしたら展示するのも、それを見るのも罪となって逮捕されるようなことで、楽しむことは白い目で見られることという倫理観になっているかもしれない。それは現時点ではわからないし、そんな世の中にはなってほしくはないのだけれど。
でもそれは、100年前、200年前、400年前の人も同じだったんではないだろうか? 当時はそれが倫理的に悪いことなんて意識していないし、加害者とされる人たちはもちろん加害者の自覚はないのだけれど、被害者とされる遊女たちも被害者という意識はあったのだろうか? それは本当に不幸なことなのか?
浮世絵の中で生き生きと暮らす遊女たちは、本当に不幸だったんだろうか。
もし、それが本当に不幸なことで、遊女たちにとって耐え難いもの、屈辱的で尊厳を失うものだったとしたら、こうして展示物を観に行くこと自体が、加害者と同じことである。
だからといって、もし描かれた遊女や、着物や道具の持ち主が不幸ではなく、堂々と「私の栄華を見てくださいな」というタイプの人だったら、「かわいそう」と同情的な目線で見るのも失礼な話ではないだろうか。
どう考えていたかなんてわかりようもない。歴史を掘り下げるということは、当事者たちに無遠慮な目線を向けることもある。
そのことにはせめて自覚的でいたい。行く前に炎上したこともあって、ずっとそんなことを考えていた。
来年の大河を思う
来年のNHK大河ドラマの主人公は、江戸の出版王・蔦谷重三郎。通称・蔦重の紹介も少しあった。
蔦重は吉原で生まれた人物で吉原のガイドブックも手掛けた人物だ。遊女たちに親しみを持って華やかな吉原を盛り上げようとして作ったのだろう。
でもそれがどう描かれるか、フェミニストな視聴者にどう映るのかは気になる。
私は歴史物の醍醐味の1つは「現代とは違う価値観の中の機微」を感じることなのだけれど、近年どうも現代とは違う価値観を受け入れられる人が少なくなってきていると思うのだ。
令和の世で吉原をどう描くのか、楽しみでもあり怖くもある。