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短編小説・さかな

言うことを聞かない左手のおかげで、僕は次第に世間から狂人のように扱われはじめる。僕はその左手にサカナの刺青を彫った。ある日出会った少女が僕を森に導く。少女が現実に存在するのか、僕にはわからない。


【さかな】

 僕は僕の左手が、僕の目を盗んで、たびたびその役割を放棄してることにしばらく前から気づいていた。
 気づくと僕の左手は、死んだニワトリの足のように、みぞおちの辺りで固く縮こまっているのだ。
 僕がさっと目を向けると、魔法が解けたように左手はいつもの仕事に戻った。   
 つまり、書き物をするときに紙を押さえたり、飲み物のキャップを開けるときにボトルを押さえたり、頭を掻いたり、そんなことだ。
 
 ある休日、僕は街に出ると刺青屋を訪ねた。
 左手に刺青を彫ってほしいと僕は注文した。
 「何を?」
 「魚を」
 それはただの思いつきだった。
 注文通り、手首から肘までの前腕の部分に3匹のサカナが描かれた。
 記号のようなとてもシンプルなデザインで、サカナは同じ方向に顔を向け一列に並んでいた。
 僕はそのサカナの刺青が気に入った。
 おかげで僕はチラチラと左手に目をやるようになり、左手はさぼる間も無く仕事をこなしているかに見えた。
 
 しかし、左手は働くことを拒否する意思表示を僕に示してきた。
 ある朝、目覚めてみると左手は巨大化していた。
 ちょうど羽を畳んだダチョウが僕の肩から逆さにぶら下がっているような様子なのだ。
 立ち上がってみると、手の甲は床にあたり窮屈そうに指先を丸めていた。
 サカナは、水中に沈んだように、小さくなって皮下に埋もれてしまった。
 仕方なく僕は、左腕を引きずるようにして会社に向かった。

 もちろん、これは気持ちの問題なのだ。
 本当に腕が巨大化したわけではないことは、僕にもわかっていた。
 つまり、僕は病気なのだ。
 しかし、そうは分かっていても、僕は行く手を阻む左手に蹴つまずかずにいられなかった。
 
 病院か、刺青屋か、悩んだ末に僕は病院へ行くことにした。
 というのも、僕が左の腕に耳を当ててみると、ぷくぷくと水音がするのだ。
 そして、目をやるとサカナは僕の腕の中で自由に泳ぎ回っているのだ。

 僕はその一部始終を医者に話をした。
 医者は特に驚いたふうでもなかった。
 「薬を飲んでしばらく様子をみましょう」と医者は言った。
 「その薬は僕が飲むのですか?」僕は聞いた。
 「そうです」
 「薬が必要なのは、僕ではなく、この左手ですよ」
 「その考え方が、病気なんです。自覚をしてください」と医者は言った。
 僕は薬をもらって、病院を出た。
 医者が正論を言っているのは僕にだって分かっている。
 しかし結局僕は、その足で刺青屋に向かった。
 
 彫り師の男は、じっと腕組みをして僕の左腕を覗き込んだ。
 彫り師が3度手を鳴らすと、サカナたちは水面に浮かび上がるように皮膚の表面に姿を表し、一列に整列した。
 「さすがですね」僕は感心して言った。
 彫り師は神妙な顔つきで僕を見返した。
 その表情は、困惑しているようにも、全てを悟っているようにも見えた。
 僕は礼を言って、店を出た。
 しかし、しばらくするとサカナは尾ひれを翻し、再び水中深くへ潜っていってしまった。
 手を叩いて呼びもどそうにも、僕の左の手の平はずっと遠くにあるのだ。
 刺青屋に戻ることも考えたが、僕はあきらめてアパートに帰ることに決めた。   
 結局、何度呼び戻したところで、サカナはきっとまたどこかへ行ってしまうのだ。

 医者からもらった薬は続けていたが、症状は改善しないばかりか、悪化していく一方だった。
 僕はしだいに悪夢に侵されるようになった。
 僕の腕の中でサカナが暴れるのだ。
 夢の中の魚はカツオほどにも成長していて、尖った面先をぶつけて僕の腕を突き破ろうとする。
 とうとう魚は大量の水しぶきとともに、僕の顔めがけて飛び出してくる。
 「うわー!やめろー!」
 いつもそこで目が覚めた。
 体は本当に水を浴びたように、いつも汗でぐっちょりと濡れていた。
 
 それでも僕が勤めを辞めずに通常の生活を続けていられるのは、ただ単に自分はおかしいのだということを自覚している一縷のまともさが残っているからなのだった。
 しかし、周りの人間はしだいに僕のことを遠巻きに見るようになりつつあった。
 それは、僕がありもしない左手の虚像につまづいたり、階段を登るときに左手を渾身の力で引きずり上げるような奇行をおこなうせいだろう。
 巨大な左手に翻弄され、今や僕には時間内に信号を渡ることすら困難なのだ。
 左手は、イカにもタコにもいかようにも好き勝手に姿を変えた。
 すでに僕の左手には「手である」という概念はなく、僕にさえ、左肩に存在すべきは何なのか、わからなくなってしまっているのだ。

 ある朝の通勤途中のことだ。
 バスを降りると誰かに呼ばれた気がして、振り返るとそこに少女が立っていた。
 「こっちよ」少女は僕を手招きをした。
 幼い、とても美しい少女だった。
 僕は直感でその少女は、現実のものではないと察した。
 「ごめんね。これから会社に行かないといけないんだ」
 僕は膝を曲げ、少女の目線に顔の位置を合わせて誘いを断った。
 少女は僕の両頬を手の平で挟み、僕の唇に念入りなキスをした。
 それで僕の意思はとろけてなくなった。
 僕は少女に手を引かれて、生垣の合間から森へと続くトンネルをくぐり抜けた。
 もちろん、そんなトンネルが街中にあるはずないことはわかっていた。

 僕は少女に手を引かれて、森の道を歩いた。
 不思議なことに少女に繋がれた左手はただの左手の形状を保っているのだ。
 「君は誰?」僕は言った。
 でも、そんなこと本当はどうでもいいような気がしてきた。
 たまにひらひらと舞う蝶とすれ違った。
 頭上高くで知らない鳥の声がした。
 僕の頭の中では、少女にいたずらをする妄想が浮かんでは消え、浮かんでは消えしていた。
 「あなたにはそういう性的嗜好があるのよ」少女がいたずらっぽく笑った。
 そして、僕の妄想を消し去った。
 僕はただ、少女に手を引かれ、森の中を歩き続けた。

 少女が足を止めると、そこには大きな泉が広がっていた。
 音のない静かな場所だった。
 少女は僕の左手のシャツの袖をまくり上げると、サカナの刺青を細く小さな指の先でそっとなぞった。
 「あなたはサカナの形に自分を傷つけた」
 少女が微笑むと、僕も微笑んだ。
 「行きましょう」
 僕らは水辺に立った。
 僕は泉にそっと左手を浸した。
 魚は水に放たれ、しばらく水面を3匹で並んで泳いでいたが、やがて水中に消えていった。
 いつの間にか、少女の姿はなかった。
 僕は左手を太陽にかざし、感覚を確かめた。

 はじめからこうすればよかったことはわかっていたのに、僕は何故かそうすることを思いつけずにいたのだ。

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マツダシバコ/短編小説家
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