短編小説・片道キップ
私は列車に乗るたびに必ず切符を無くしてしまう。
「私はあなたの希望です」と鳥が言う。
そして私は不思議な列車に運ばれてゆく。
【片道キップ】
私は何でも忘れてしまうのが特技だけれど、特に忘れてしまうのは切符のありかだった。
私は切符を買う。
列車に乗る。
目的の駅に着く頃には切符は失くなっている。
どこにしまったのかまったく覚えていない。
どこをどう探しても切符は出てこない。
仕方なく駅員に理由を話して、もう一度料金を払う。
家に帰ると枝から枯葉が落ちるように、どこからともなくパラリと切符が降ってくる。
でも、ほとんどの切符は二度と見つからない。
私はまた切符を失くしてしまったことで落ち込むけれど、ふとんに入って寝てしまえば何もかも忘れてしまう。
私はふとんの中がどこよりも好き。
私はふとんに守られている。
朝になってベッドから足を下ろし、冷たい床につま先が触れた瞬間から、また夜になってふとんに潜り込む幸せを夢見ている。
私は慌てて身支度をして家を出る。
私は硬い分厚いコートの襟を立てて、湯気のような白い息を吐き出す。
カツカツとつま先でリズムをとって、坂道を駆け下りる。
駅に着く。
列車に乗る。
これから悲しいことがあるとも知らずに。
私はイヤフォンから流れてくる音楽を聴きながら、ご機嫌で列車の揺れに身を任せている。
コートのポケットに手を突っ込んで切符に触れる。
「私はキップを持っている」
「私はキップを持っている」
「私はキップのありかを知っている」
呪文のように歌うように私は頭の中で繰り返し、自分に言い聞かせる。
今日こそ、私は勝ち誇った気分になる。
けれど、列車を降りる頃には、切符は失くなっている。
私はもうどうしたところで無駄だとわかっているけれど、あちこちのポケットに手を突っ込んだり、切符が隠れそうな様々なところをパタパタと開け閉めしてみる。
そして昨日と同じように、私は悲しい気持ちで駅員のところへ行く。
もちろん駅員は顔見知りで、一応形式として私の話を聞いてくれる。
もちろん、というのは、この駅が私の職場のある駅で、私は休みの日以外毎日ここに通っているから。
「どこから乗ったんですか?」
駅員はもちろん知っているけど、私に聞く。
私は自分が住む駅の名前を言う。
「240円」
私は耳にタコができるぐらい聞き飽きた金額を財布から取り出して、駅員に渡す。
私が切符を失くすことが日課になっているように、駅員は私の切符の清算をすることが日課になっている。
「定期券を買ってケースに入れて首からかけてはどうですか?」
おおよそ一ヶ月にいっぺんもしくはそれ以上のペースで駅員はこんな提案をしてくれる。
以前はもっと頻繁に声をかけてくれたけれど、駅員だってあきらめているのだ。
「ダメよ。定期券にしたって失くしてしまうもの。首からかけたって、いつの間にかケースの中から定期券だけが失くなっているのよ。もう呪われているとしか思えない」
私は親切な駅員に毎回そんなふうに答えて肩をすくめてみせる。
駅員は納得したようにうなずいて、また日常の単調な作業に帰っていく。
彼だってただ言ってみただけなのだ。
以前、一年ほど前、私はこの駅員の彼と親密な関係になったことがある。
彼は私に定期券を入れるための頑丈なケースをプレゼントしてくれた。
もちろんそれには首からかけるためのチェーンが付いていた。
夕食を一緒に食べた後、私は彼と寝た。
でも、私があっという間に定期券をなくしてしまうと、彼との関係もあっという間に終わってしまった。
きっと彼は私に定期券を失くさせない自信があったのだと思う。
でも、私が駅員としての彼のプライドを傷つけてしまった。
それにそもそも私たちは切符という共通点以外で、それほど互いを求め合っていなかったんだと思う。
とにかく我々はあっという間に駅員と乗客という関係に戻った。
ある日、私は決定的な瞬間を目撃してしまった。
それは私が切符を捨てている瞬間なのだ。
私の右手がコートのポケットから切符をつまみ出し、それをパラリと列車の床に放り出したのだ。
私が息を呑んでいる間に、落ちた切符を私の右足が遠くに蹴飛ばした。
私は慌てて満員電車の中にしゃがみ込んで切符を探したけれど、切符は見つからなかった。
「これは一体どういうことなの?」
私は怒りのあまりふぅふぅ息を吐き出しながら右手に問いただした。
右手はこぶしを握って、固く口を閉ざした。
「どうしてこんなことをしたりしたの?」
再び私が吠えると、右手がおずおずと口を開いた。
「ワタシはただ脳からの指令を受けてやっただけです」
私は脳天に怒鳴りつけた。
「一体、何てことをしてくれるの!」
脳が生み出す膨大な思考のデータをかき分け、かき分け、私は何とか答えらしいものに辿り着いた。
「それはあなたが望んだコト…コト…デス」
「何ですって!」
今度こそ私は絶句した。
私は腹いせに、切符を蹴り飛ばした右足を、左足のヒールできつく踏みつけた。
右足は「ギュウ」と言った。
「いったい、私のどこのどいつがそんなことを望んだって言うのよ!」
「さあ」
「さあ」
「さあ」
「さあ…」
いくら吠えても、誰に聞いてもさわさわと風になびく草原のように、みんなはそう言うばかり。
それで私は欠席を一切認めない大会議を開くことにした。
「言い逃れは一切、許さないんだから」
会議の冒頭に、私は胸の前で腕を組んで参加者の面々を睨みつけて釘を刺した。
彼らはそれぞれ私が所有する私の一部だった。
私を形成するための私の一部と言ってもいい。
その中にはもちろん、主犯格の右手右足脳みそもいた。
「でも、あれはいったい誰だろう」と、私は思う。
会議の席に見知らぬ鳥が座っている。
鳥は会議机の上に大きなくちばしをどかりと置いて、我がもの顔で会議に参加している。
「あんなメンバーがうちのチームにいたかしら?」
私はそのことばかり気になって会議に集中できなかった。
「ともかく!切符は捨てないでちょうだい!」
私はドンッと机を叩いて会議を終わらせた。
「ちょ、ちょっと待って」
私は帰ろうとする鳥を引き止めた。
「あなたは誰?」
「私は鳥ですが」鳥は言った。
私は鳥と目を合わせてみたけれど、何を考えているのかさっぱりわからなかった。
「あなたは私とどんな関係が?」私は聞いた。
鳥は小首をかしげて私を見返した。
「私はあなたの中の鳥ですが」
「つまり私が作り出した想像上の鳥ということ?」
鳥の首はいくらでも曲がった。
「そうとも言えるかもしれないし、そうとは言えないかもしれません」
「わかりやすく言って」
「つまり、私はあなたの希望です」
「何ですって!」
そう叫んではみたものの、私には鳥の言っている意味がまるでわからないのだ。
でも、希望ってもっとキラキラしたものじゃないのかしら。
「ごらんの通り、私のくちばしは大きすぎますし、羽はとても小さい。これでは飛べるわけないとお思いでしょう?でも、飛べる可能性はゼロではない。もちろん、飛べない可能性の方が圧倒的に大きいわけですが」
「それが希望だっていうの?」
「まあ、…」
鳥はペンギンのようなぜんぜん飛べる気がしない小さな羽をパタパタと動かしてみせた。
気付くと私は列車に乗っていた。
私は頬杖をついて車窓から外を眺めていた。
金色の麦畑が続いていた。
それはまばゆく美しかった。
景色はどんどん流れていった。
変化のない色調に、私はだんだん眠くなってきた。
私は眠ってしまう前にポケットに手を入れて切符があることを確かめた。
切符はそこにあった。
小さな固い四角形。
けれど、右手がまた悪さをしないように、私は切符を左のポケットに入れ直した。
「これで安心」
私は眠りに落ちていった。
目が覚めた時、列車はすでに終着駅に着いていた。
そこがどこなのかはわからないけれど、車掌がやってきて列車から降りるように私を促すのだ。
ホームに降り立つと、たくさんの人たちが改札に向かっていた。
私はポケットに手を入れた。
けれど、いつものように切符はないのだ。
「もう切符は捨てないようにあんなに言ったのに…」
悲しみが私を包んだ。
そこで私は思い出した。そうだ、切符は左のポケットに入れたのだった。
私は左のポケットに手を入れた。
何かが私の指先に触れた。
それが切符じゃないことはわかっていたけれど、私はそれを取り出した。
それはムクドリの卵のように青く小さな卵だった。
「あの鳥の卵であるはずはないわ」
会議に参加していた鳥は何しろカモメのように大きくて、ふてぶてしいくちばしをしているのだ。
「じゃあ、誰がこんなものを?」
切符とすり替えてこんないたずらをするなんて。
私は頭にきて卵を握りつぶそうと思ったけれど、試しにそれを改札にいた駅員の手の上にのせてみた。
駅員は青い卵をつまんでじっくり眺めると上着のポケットにしまって、代わりに私に切符をくれた。
「この切符で改札の外に出てもいいのかしら?」私は聞いた。
「外に出るも、別の列車に乗るもあなたがご自身で決めていいのです」駅員は言った。
私は改札の外の町も気になったし、どこか別の土地に行くべきなのかもしれないとも思った。
さんざん考えて、私は駅員の前に切符を差し出した。
「さっきの卵を返してくれないかしら?」
「でも、卵では改札の外に出ることもできないし、列車に乗ることもできませんよ」駅員は言った。
「でも私、その卵を温めてみようと思うの」
「何も孵らないかもしれませんよ?」
「でも、ここで改札の外に出ようか、他の列車に乗ろうか、ずっと悩み続けているよりマシでしょう?」
駅員は仕方ないといった様子で、ポケットから卵をつまみ出した。
手の平にのせると卵はとても軽くてちっぽけだった。
「どうやって温めたらいいのかしら。脇の下に挟んだら割れてしまいそう」
それで私は口の中に入れて、左の頬っぺたに卵をふくむことにした。
しばらくすると虫歯が痛んできた。
きっとこの卵のせいに違いないと私は思って、私は卵を吐き出した。
頬に触れると熱を帯びて腫れ上がっていることがわかった。
私は痛む頬を押さえながら駅員のところに持っていって言った。
「やっぱりこの卵を切符と取り替えてちょうだい」
駅員はすごく嫌な顔をした。
「お願いよ。虫歯が痛むの」
「これで最後ですよ」
駅員は渋々、切符と取り替えてくれた。
ズキズキと痛む虫歯を抱えて、私は知らない列車に乗り込んだ。
車掌は差し出した切符を確認すると、豪華な客席へ私を案内した。
「あんな卵にいったいどんな価値があるっていうのかしら?」
私は再び窓辺に頬杖をついて外を眺めながら、青い卵を手放したことを少し後悔していた。
すきま風がぴゅーぴゅー入り込んで、私の頬を冷やしてくれた。
痛みが去ると、私は再び眠気に襲われた。
「どうせ、寝て起きてたどり着いたところも代わり映えのないところに決まっているのよ」
空には重く暗い雲が垂れていた。
私が切符のありかを確認して眠りに落ちようとしたとき、雲の合間から何かがこちらに近づいてくるのが見えた。
「あら?あれは?」
私は窓のガラスに額をくっつけた。
あの鳥が大きな体を風にのせて空を飛んでいるのだ。
「何よ。飛べるじゃない」
鳥は私のことをじっと見つめなが窓のすぐ外までやってくると、列車と平行になって飛んだ。
小さすぎる羽がびりびりと風になびいて、ずんぐりと重そうな体がぐらぐらと揺れていた。
「不恰好な。あんな姿を見せるぐらいなら飛ばない方がマシなのに」
私はいまいましく毒づいた。
鳥の必死な様子を見ていると何故だかとてもイライラするのだ。
鳥は表情も変えぬままじっと私を見つめて追いかけてくる。
そして、私の席の窓ガラスをコンコンと大きなくちばしでつつくのだ。
私は舌を出して鳥から顔をそむけた。
「でも、そろそろ中に入れてあげないとかわいそうかしら」私は思う。
何しろ私たちは知り合いなのだから。
私は古い木の窓枠に手をかける。
けれど、建て付けが悪くて窓はなかなか開かない。
どうにかやっと少し隙間が空くと、鳥はそこから大きなくちばしを突っ込んで、私の手をつついた。
「痛い!何よ。せっかくあなたのために窓を開けてあげようとしているのに」
私は頭にきて大きなくちばしを手でつかんでやった。
鳥は暴れて逃げようとする。私は強引に車内に引っ張り込もうとする。
とうとう鳥は私の手の中にくちばしを残したまま飛んでいってしまった。
「あっ」
見ると鳥の体は空中分解してバラバラになってしまっている。
そして、宙には無数の切符が舞っていた。
「まったく」
鳥は私が何年もかけて失い続けた切符でできていたのだ。
今、その切符が、列車の窓辺の小さなテーブルにうず高く積み上げられている。
「あなたのキップです」と、車掌が届けてくれたのだ。
「これが私の希望だって言われてもねぇ」私は
ため息をつく。
「いいじゃないですか。これだけたくさんの切符があれば、どれだけも列車に乗れるし、どこにだって行けますよ」車掌が言う。
「どこにだって行けるって言われたってねぇ」
私は延々と金色に続く麦畑の景色に目をやる。
そして、あの青くて小さな卵は、駅員のポケットの中で、今ごろ何かに孵っているのじゃないかしらと思ってみたりするのだ。
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