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「わたしの頭の中の『鑑賞』」2021年6月5日の日記

・今日は東京都美術館のアート・コミュニケータの基礎講座の日でした。
・今日で早くも第5回。


・今日のテーマは、公式HPにも載っているとおり、「作品を鑑賞するとは」というテーマで、東京都美術館(都美館)の学芸員の稲庭さんが講師として講座を進めてくださった。


・美術館で鑑賞するとはどういうことか。作品を鑑賞するとはどういうことか。
・あまり講座の内容について書かないけれども、ひとつだけ印象に残ったことを挙げる。
・それは「作品について情報を知っていると、かえってその作品を見なくなってしまうおそれがある」ということ。


・今は本でもインターネットでも、ある作品について正しい情報を仕入れることはだれでも簡単にできる。作品名、作者、描かれた時代や、その作品を発注した人、描かれている場所や人物、その作品に作者が込めた想い、描画上のテクニックのことまで。


・事前の情報を収拾するのはもちろん有益で、わたしもよくするけれど、気をつけなくてはいけないのは、その状態で美術館へ行き、作品と向かい合ったときに、事前情報の確認としてだけで作品を消費してしまうおそれがある。
・事前に勉強したことを思い出して、ふむふむなるほどと感心して終わってしまうと、作品と自分の間に、第三者が分析して書き記した情報しか残らず、自分自身の感想や発想というものが少なくなってしまう恐れがある。


・わたしは作品に向き合うときに、その作品の前情報を知っている自分と、あえて無知な状態で向き合う自分と、ふたつの側面を自分の目に用意して作品と向き合う必要があるのかもしれない。


・わたしは、YouTubeのサムネイルとか、YouTubeナイズされたわかりやすい動画、SNSのバズ写真やバズ動画などなど、瞬間的で情報の薄いメディアになれている。
・一方で絵画作品の多くは、描かれていること以上に多くの要素や意味を含んでいる。今日学んだことの言葉を借りれば、ひとつの画面の中で、複数の物語が同時進行しているような複雑をはらんでいることが多い。


・そうした複雑な状況を理解して、向き合うためには時間と静寂が必要で、美術館の機能の一つとしては、日常に置いてあまり得ることのできないその理解と向き合いの時間を提供する、ということがあるのではないかな。


・わたしたちアート・コミュニケータは、ただ単に自分と作品が1:1で向き合うというだけでなく、誰かと一緒に作品を鑑賞するということも多い。
・作品を鑑賞している人を鑑賞する、という時間は、当初わたしが思っていたよりもずっと豊かで、充実した時間だと思った。
・みんなそれぞれ生きてきた背景が違うので、作品に対して持つ感想も異なる。その感想に正解は無く、そもそも、誰かに正誤を判断してもらうものでも、評価してもらうものでもない。


・「作品を鑑賞するとは」というテーマは、これからわたしが深く深ーく関わっていって考えていくテーマになると思うから、今後活動する上で少しずつ自分なりに、この「鑑賞」という言葉に対して、自分の頭の中の辞書の内容を充実させたいと思う。

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