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海の無い街、夜の汽笛

海のない街にある私の部屋には、毎晩汽笛が鳴り響く。

引っ越してきてからしばらく経ったある晩、ぼおおおん、と巨大な腹に響く音を初めて聞いたとき、これは幻聴だと思った。隣の部屋にいる同居人と「聞こえた?」と尋ね合い、私の耳の問題ではないと胸をなでおろす。

まるで船の汽笛みたいな音だが、近所の川では汽笛を発するような船は見かけないし、あったとしても夜中に朗々と轟音を鳴り響かせていれば近所から非難轟々だろう。
じゃあ、マンションにほら貝を愛好する住人がいる? 管楽器を学ぶ音大生? 単に上階の住人が大きい家具を引きずっているだけ? 同居人と二人で考えてもそれらしい答えは見つからず、結論はうやむやになった。

音はいつ鳴るかわからない。鳴るときは数分と間をおかず鳴るし、鳴らない夜もある。

暗い部屋で布団にくるまりながら汽笛に耳を澄ませていると、思い出すのは昔、祖父母の住んでいた港町だ。夏休みによく訪れたその家では、毎朝日の出頃にぼおおお、と汽笛を響かせて船が出港しているのがよく聞こえた。いつもと違う家で目を覚ます高揚感とともに、リビングに舵の形をした湿度計があったこと、普段暮らす家にはない革張りのソファが客船の船室みたいで興奮したことをよく覚えている。

幼少期のまばゆい思い出の一方で、真夜中に聞く汽笛の音は、自分だけがいつまでも停泊しているという思いを強めた。故あって私は今、休職している。毎日ぼんやりと過ごし、会社へ行く同居人を見送る生活。私以外の全員が、鳴り響く汽笛の中で意気揚々と出航していくような、取り残されたような気持ちになり、夜中に沸き起こる底知れない焦燥感がどんどん深まっていくのを感じながら、暗い天井を見つめていた。

時折汽笛が響く夜は数週間続いた。しかし、一向に音の正体は分からない。物件の管理会社に言うほど困っている訳でもないし、いつ鳴るか分からないので録音もできず……。正体を知りたい気持ちはあったものの、汽笛が鳴る部屋なんて詩的じゃんと私は思考を放棄していた。だが、立て続けに汽笛が鳴ったある晩、ついに同居人が「マンション 汽笛のような音」とGoogleに打ち込んだ。ほとんど期待せずに打ち込んだワードだったが、まったく同じ悩みを相談したYahoo!知恵袋がトップに表示された。インターネット万歳。人類の悩み事って大概普遍的なんだな。

どうやら汽笛の原因は、「ウォーターハンマー」なる現象のようだ。水道管の内部で急に圧力がかかったり、逆に圧力が下がった場所に勢いよく二つの水流が流れ込んで衝突することで音が鳴るらしい。ウォーターハンマーの音は発生個所とは異なるところで鳴ることも多いので、場所の特定は難しいそうだ。マンションのどこかの部屋でトイレや風呂の水を流した時など、大量の水が一気に動く時、うちに「ぼおおおおん」が来るのだろう。うちの水音もどこかの部屋で鳴り響いているのかもしれない。すみません。

「ウォーターハンマー」という名前がついてから、夜の汽笛はノスタルジックな輝きは失ったけれども、焦燥感を掻き立てることもなく、別の部屋の住人の息遣いを感じさせる音になった。平日の夜更け、一日を終えた誰かがゆっくりと風呂に浸かって疲れをとっている。その生活の証が、「ぼおおおおん」と聞こえてくる。
相変わらず眠れない夜は眠れないが、「ぼおおおおん」が来ると「今日もお疲れ様です」とこっそり思うようになった。私だけが港にとどまっているように思っていたけれど、港に帰って身体を休めていく船もたくさんある。変わらず天井を眺め続ける夜はあるが、少なくとも私ひとりきりではない、と見ず知らずの誰かの音にすがるように思いながら、眠りに落ちるのを待っている。
管理会社に言うべきかもとは思うけれど、しばらくはこのままでいいかな。

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