黒柴の来歴 その10
管理職としてのお仕事
その9で、「マネージャになってお金ついて意識ができるようになった」とは書いたが、今思うと大したことはやれていなかった
会社全体として「育てる」という文化がなかったし、「何をどのように」マネジメントするのか、という統一的な認識もなかった
そのため、会社のプロジェクト管理システムを適当に操作して、プロジェクトのメンバーの残業費用を調整しつつ、粗利を管理することが、自分の上長である部長から指示されたマネージャとしての仕事だった
当時所属していた会社のプロジェクトの契約形態は「請負」と「SE支援作業」があり、契約先はほぼメーカー(いわゆる電機メーカー)か、当時ようやく主流となり始めたシステムインテグレータ(いわゆるSIer)だった
その8、9でも触れているが、当時は現在のようなPMBOKをベースとしたプロジェクトマネジメントが行われていなかったこともあり、程度の差はあれ、ほぼすべてのプロジェクトが遅延していた
そのため、「請負」契約するということは、見積もりした一定の金額で、契約した納期までにシステムを納品するということになるため、リスクが大きかった
また、契約先となったSIerは、もともとの母体がやたら不動産を所有していたので、作業場所に困らなかったこともあり、契約した作業者を自分たちの手元に集めたがる傾向があった
そんな事情もあり、自分が携わったプロジェクトは、圧倒的に「SE支援作業」という月締めの稼働時間で生産する派遣的な契約がほとんどだった
そんな状況のため、自分が管理しているグループのメンバーの8~9割くらいは、「SE支援作業」という派遣契約だった
そして、当時「派遣作業」をメインでやっている会社は、いわゆる「ブラック企業」が多く、自分が在籍していた会社もブラックだった
企業の営業活動を抽象化していくと、利益=売上ー原価となる
ソフトウェア開発は、原価の大半が人件費であり、ここをいかにして抑えるかというのが、利益を出すためのポイントとなる
そのため、「人件費を抑える」ということで、超過勤務手当、いわゆる残業代を調整することが、当時の作業者派遣を行っているソフトウェア開発企業では、よく見られた
現在の派遣契約では、稼働時間をそのまま精算することがほとんどだが、それだと年末年始や夏季休暇など、まとまった休みがある月は稼働時間が極端に少なくなってしまうため、幅を設けた契約時間を設定することが多かったすなわち、8H/dayで月あたり20日働くとして160Hを基準として、±20Hまでは同一金額として、それを超えたり下回ったりしたときに1Hあたり金額×調整時間で増額、または減額するというやりかただった
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