黒柴の来歴 その18

転職活動

黒柴が転職を決意する契機の一つになったITバブルだが、実のところ前職を退職した2000年の夏ころにはすでにピークを過ぎていて、市場は下降傾向となっていた
退職して1年くらいを経過した2001年夏頃には、アメリカのIT市場も縮退傾向にあり、一時期はアメリカ海外(主に英語圏のインド)からのエンジニアを好待遇で迎え入れていたが、それもなくなっていた
そんな状況でもあり、また苦手意識は無くなったがそれほど英会話が上達したわけでもないので、アメリカ行きは諦めて国内で就職先を探すことにした

ソフトウェアエンジニアの募集に対して何社か面接に行った中で、また一つ気付かされることがあった
その企業は、本社は東京にあったが大阪に支社をもっており、面接の中で大阪への転勤の可否について確認された
黒柴は、「転勤についてはやぶさかではないが、大阪でのビジネスに対していいイメージがないため、実際のところ大阪には行きたくない」と、正直に答えた

いいイメージがないというのは、前職の会社が事業拡大を意図して、大阪に支社を開設した
大阪で盛大に人集めを行ったり、当時竣工したばかりのオフィスタワーに事務所を構えたりと、かなり予算をかけていた
にも関わらず、関西ではほとんど仕事が受注できず、採用した若手は大量の未オーダーとなった
そのため、東京本社の事業部に対して、「大阪の未オーダーを何とかしろ」と社長命令が下った

その14あたりで書いたが、当時グループマネージャだった自分の上司のセクションマネージャは、自分で考えることができない人だった
そのため、社長から言われるままに大阪の未オーダーを引き受けてしまい、その対応に黒柴も追われた
ちなみに、自部署の多忙を理由に、社長オーダーを断ったマネージャもいた

当然のことだが、東京で関西の仕事を受注することは難しく、大阪採用の社員を東京に長期出張させて、東京のプロジェクトに従事させた
この長期出張の申請やウィークリーマンションの手配、および大阪採用の新人社員教育も一切が黒柴に降りかかり、安直に大阪の未オーダーを受け入れたセクションマネージャに恨み言の一つも言いたくなった

しかし、その会社で面接を担当してくれた方からは、以下のような説明をしていただいた
「大阪で創業し、本社を東京に移転せず、未だに大阪中心で事業を行っている中堅企業は結構多く、往々にしてオーナー社長でワンマンなことが多いです
そういう企業は、社長がワンマンであるがゆえに、社長に対してきちんと提案し理解を得られれば、社内に対する説明もトップダウンで早く進むし、必要な予算もきちんとつきますよ
だから、そういう営業先を見つけて、魅力的な提案を行い、社長を口説き落とすことが重要なんですよ」

この担当者の説明は、いろいろと考えさせられた
前職の会社は、東京でのビジネスと同じ戦略で大阪に進出し「SIerの下請け」という名のパイの分配に割って入ろうとして、上手くいっていない状態だった
しかし、自社が独自のサービスを提供しており、その独自のサービスを元に大阪で別のパイを焼くことができていれば、状況は違ったはずだ
このあたり、会社経営の難しさ、また多くのIT企業(ソフトハウス)が、単にメーカー、SIerの下請けという作業に終始していることを再認識した

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?