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手を放すということ
母の通夜と告別式を終えて帰宅。
やっぱり空が青かったな。そんなことを思ってた。冬らしい晴れ。澄んだ空気。
寺族だった母の葬儀はとても盛大なものだった。沢山のお坊さんに列席いただいて、読経は多声で鳴り響いた。お経の声と声が重なり合うと倍音が生まれて、うねりのような空気の振動を感じる。それがサラウンドで身体のまわりに広がる。僧侶だった父の葬儀の時にも感じたことだけれど、なかなか得難い不思議な体感だ。
母が遺したエンディングノートの最後には「おかげさまで充分幸せな人生でした。今、生命が終わっても感謝の気持でいっぱいです」とあった。
生前に話していたときには口癖のように長生きを嫌がっていた。寝たきりのまま生きていくことは苦痛だと言っていた。認知症になることを怖がっていた。それでも最近は少しずつ記憶が不明瞭になっていくのが見て取れた。年が明けたら病院に行こう、と話していた。
死因は入浴時に浴槽の中で意識を失ったことだった。ヒートショックだった。苦しみがあったとしてもそれはきっと一瞬のことだったと思う。突然のことだったけれど、本人にとっては最も願っていた形だったのではないだろうか。そういうことを兄が話した。僕も同意。
だからかもしれない。喪失感や悲しみはもちろんあったけれど、それは感情の真ん中を占めるものじゃなかった。考えていたのは見送るということについて。手を放す、ということについて。
帰りの車で第三京浜を走りながら藤井 風の「満ちてゆく」を聴いた。
自分がこれまで生きてきた時間を振り返ると、いくつか、大切な記憶と結びついた曲がある。たとえばくるりの「ロックンロール」とかキリンジの「drifter」とかceroの「ロープウェー」とか。曲が世に出たときの空気感と、その時の自分の状況と、歌詞に歌われていることと、そういうものが符合して大切な記憶として封じ込められる。
年末に紅白での藤井 風のパフォーマンスを観ながら「満ちてゆく」がそういう曲になるんだなという直感があった。
走り出した午後も
重ね合う日々も
避けがたく全て終わりが来る
あの日のきらめきも
淡いときめきも
あれもこれもどこか置いてくる
それで良かったと
これで良かったと
健やかに笑い合える日まで
全てのものは移ろいゆく。諸行無常。そういうことを藤井 風は繰り返し歌っている。「帰ろう」も「花」も「ガーデン」も。花は咲いては枯れる。始まりがあるものには終わりがある。そういう大きな時間の流れを俯瞰で見下ろすような視点が曲にある。
変わりゆくものは仕方がないねと
手を放す、軽くなる、満ちてゆく
満ちてゆく
サビではこう歌われる。MVの冒頭では英語で同じことを語っている。
things change, and we can do nothing about it
just letting go, feeling lighter, and becoming filled
Overflowing
火葬場の空を見上げながら「手を放す、軽くなる、満ちてゆく」と胸の内で口ずさむ。
そういうことだよな、と思う。