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言ノ葉の内容物。/車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』

「世を捨ててみよう。人生を好転するには。」

 考え始めると、では一体、どんな理想の生活を追求するか、どんな美醜、身分が自分としてあらまほしいか、そんな「世界の求法。」もまた、分からないままだ。

 選択と集中の当てもなく、毎日、毎日、毎日、を繰り返す。

 会う人間も、行った場所も増えて、経験がまた、別の良い視点を生んだりしても、そのどれも違うのだと、視線を下げ、相手の不審を買う。

 基本的で在り来たりな悩みも嫌になれば、自己批判で突き詰めることなしに、今の余暇、趣味性だけで生きている、生き長らえている。

 それだけで貴方は、全身全霊で私の味方なのかもしれない。

「今の『世界の求法。』を携え、人生をある時点からやり直そう。」

 仮想の霊言が届き、数十分も何も手に付かない事態が、最近よく起きてしまう。

 確定した未来から逆算し、期待されている才能、事業に先行投資すれば、既定路線に立っている欲望の全てーー例えば、

 人間関係の成功
 肉体の充足
 社会的地位の確立
 
 
 を恣(ほしいまま)にできる。誰かの青春の惚れた腫れたや、人格の形成プロセス、そのデータ十数年分が手元にあれば、社会生活を送る上で、そう大きくは立ち回りを間違えない。

 子供の無垢な心をコントロールして取り入ることは簡単で、強権的な大人を正論に臥させることはもっと簡単だ。

「次の瞬間、ある時点の意識へ、不可逆的にタイムトラベルする。残すべき記憶は?」

 霊言は自己問答に代わり、宝くじの当選番号や馬券、新興企業の銘柄など、端ない発想が浮かび上がる。
 
 少し経てば、自分の場合、知り得た現代の歴史年表を正確に起こそう試みている。

 金融危機
 天災
 ソーシャルメディア
 感冒
 戦争や暗殺


 親族の死や、自分が惹かれていた誰か、惹かれ合っていた誰かと誰か。その説話的シチュエーション、といった私史のようなもの。

 予測可能どころか、確定した未来をつつがなく守り、一方で、感情が衝突するリスクを避けながら、あらゆる選択的な傾きを正に保とうと考える。
 
 どこまでも際限なく吊り上がる欲望のバブルを、恣(ほしいまま)にしようと考える。

 どの道、実年齢に近づくことは避けられない。曲がりなりにも自分が仮想している(文字通りたった今の)パラレルを生き、蓄積した営為は、決して繰り返すことができない。

 若過ぎるとは言えない若い年齢。
 もっと有りうべき健康な体と、活動的な自己開示を拝めたのではないか、いっそやり直せないか、いや是が非でもなり直させてくれ!
 
 今よりもっと若い、何をしても許される過去を顧みてしまうのは、無理からぬことだ。

 決して実現し得ない、未来の仮定法を用いてまで、厚い絵の具で過去を上塗り、納得のいく自分にのし上げ、後の人生全て、そのレガシーさえ顧みれば、余りある快適さを過ごせるという期待に浸っている。

 常に一筆書きの生を、二度走らせるのは無理なのに、悲劇と誤解に立ち合い、腰が砕かれる意識の過程で、その仮想は止められない。

 取り戻せ!

 仮想は仮想のまま、今の橋に絶望を渡し、いくら崩落しそうな荒んだ状態でも、渡ってしまうのは容易だ。

 天候が荒れ、橋の底が抜けてしまえば、先の崖に佇む人間は、これから描く絵を投げ打つだろう。
 あらゆる人間関係を逃れ、無計画に、誰も知らない世界のどこかへ、隠れようと考えるだろう。

 見る前に飛べ。

 氾濫した川で溺れた貴方はやがて、滝にたどり着くだろう。

 さあ、泳いだのは遠い昔だ。

 立ち漕ぎしながら水面を叩くのがせいぜいで、川の流れを力で捉えることもできず、鼻や口に流れ込む濁った葉を、どう吐き出せば良いか考えている。

 こんな非常時でさえ、貴方は、水面に映る緑が綺麗とか、鳥や虫の囀りが耳に届いているとか考えて、一体、どれだけ人生を美しく、ロマンチックに魅せないと、気が済まないのかと思っている。

(秕目)


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