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【Podcast】死ぬのって怖くない?

死ぬのって怖くない?という話を、他者と上手にできたためしがない。

現象として、というより自分に待ち受けている不可避的な運命としての死が、恐ろしいものだと思った日からそれは未だに解決していない。未だに解決していないのだが、一方でそんなことを全く思わない日も少なくなくて、そういう日、もしくは季節に自分が死んでいたら、それはきっと絶対的に不幸なことだったと思うけれど、この問題の帰結としては、一種のハッピーエンドだったんじゃないかと思うこともまたある。

死ぬことが怖いと思っている日と、死ぬことが別に怖くない日と、あとは「死ぬことって怖くない?」という問いのことを全く忘れている日もあって、だから概ね薄くは死ぬことを恐れているはずなのに、それを他者に聞く機会はあまりなかったりもする。
例えば、よく覚えていることとして、小学校を卒業して中学校に入学するとき、その中学校に関する情報として、「何でも相談できる人がいます(たぶんスクールカウンセラーのこと)」というのをどこかで見て、小学校を卒業する時くらいまでのあいだは、中学生になったら何でも相談できる(=解決してくれるだと思っていた当時は)大人に、「死ぬことが怖いんです」と相談して、その恐怖を払拭してもらおうと楽しみにしていたのに、いざ中学生になると、その部屋のことなどすっかり忘れたのか、いつか行けばいいと思っていたのか、とにかくそんな話をしようと思っていたことすら思い出さないまま、中学を卒業してしまった。そして、その「死ぬことが怖いんです」って相談するのを忘れていた!ということを思い出したのは、高校を卒業したあとのことだった。それはけっこう後悔した。なおかつ今でも、中学生の時の自分と、その中学校の、どこかの部屋にあった部屋でその相談をしていたら、どういう会話になっていたんだろうと関心が尽きないので、惜しい限りである。
で、怖いのは今、この文章を書いているときは「惜しい限り」であるのだけど、その感情もまた日々に埋没して、すぐなかったことになってしまうのだ。じっさい、大学に通っていたときは大学の中にある、学生相談室みたいな部屋で先生に話を聞いてもらう機会もあったのに、その先生に「死ぬことって怖くないですか?」って聞けばよかったじゃん!って思ったのもまた、大学を卒業してしばらくしてからだった。もしそうしていたら、どんな話をしたんだろうということはとても興味があるのに、もう知れない。

僕は誰かを待っているのだろうか。僕の恐れを解決してくれる誰かを。もしかして、それが死では?と綺麗な構造として文章を思い浮かべたりもするけれど、そういうことって理屈ではないからよくわからない。

いつのことだったのかは忘れてしまったけれど、家族の大人に、「死ぬのって怖くない?」と聞いて回ったこともあった。特に祖母あたりは、年齢としてジェネラルに死が近いはずなので、どう考えているのか、ヒントをくれるのではないかと思った。そして、話してもらったことは印象に残っているけれど、誠実に話すと、全然怖くないとは思わないみたいで、「あ、そうなんだ」という落胆の感触をよく覚えている。大抵の問題は時間が解決するみたいな論理は僕も信じているけれど、この問題は長生きしたとしても解決できないものだと仮定したら、それはもう大変なことである。困っている。

じゃあじっさい、何がどう怖いんだよ、ということは、今こうして自分に尋ね直してみないと言葉にならなかったりする。やはり日々の中ではその恐れや問いは忘れていて、その忘却こそが恐れの表れかもしれないけど、なかったことになっているのは、実はたいした問題じゃないのかもしれない。そんなことあるかな。

僕が死ぬのは怖いのは、少し冒頭でも触れたけれど、死んだあと自我みたいなものが消失するということを信じていて、その消失の感触を全く想像できないのだけど、想像できないままに、今こうして考えている自分も、この言葉も、怯えも、なくなるって、「ええ、、」みたいなことが、怖い。「まじか、」みたいな。それは十二歳くらいに初めて(そのときの寝室の天井の色合いを今でもなんとなく覚えている)気付いてしまってから、根本的には変わっていない気がする。

変わっていないけれど、流石に小学生の時から今に至るまでにはたくさんの時間があって、本を読んだり、いくつかの喪失を経験したりしたので、今はもう少しだけ話を続けることができる。

例えば、僕の恐れている死の一部には、「終わってしまうこと」への恐怖もある。僕は旅行に行ったとしても、その行きの電車の中で「ああ、この旅行もいつか終わってしまうんだ」って思って悲しくなる性質なので。これまでたくさんの終わりを経験してきているはずなのに、まだ終わってしまうことに慣れていないのだろうか。
その終わってしまうということの、暴力性みたいなものも、怖さの一因である。旅行っていうのは日程が決まっていて、それが終わった後の日々に戻っていく予定も決まっていて、だからどんなに終わってほしくないと思い、あがいても、終わらない旅はないのだ。たとえすべてを振り切って遠くまで行ったとしても、いつかは必ず終わってしまう。もしかしたら、ずーっと旅をしていたら、ずーっと旅ができるかもしれない。机上論としては死ぬまで。それなら、百歩譲って、「旅」は努力次第で終わりを回避できる類のものかもしれないが、「死」はそうではない。
終わりが回避できるものの具体例としてはもっと簡単なものがたくさんあって、例えば小説は、「終わってほしくない」と思ったら本を閉じてしまえばいいし、映画は映画館から帰ればいい。コーヒーとかビールは、目の前の一杯は簡単に終わってしまうかもしれないけど、次の一杯もまた比較的簡単に続けることができるから、終わってしまうことへの悲しさはあまりない。
夜は? ずっとこの夜が続けばいいのにね、みたいな夜もいくつかあるけれど、朝まで寝ないで過ごして、「ああ、朝になってしまったよ悲しい」ってロミオとジュリエットみたいに思った経験は実はあんまりなくて、いつの間にか終わることへの恐怖は、「疲れたから早く寝たい or 今日これからどうするんだよ、、」みたいな感情にすり替わっている。お別れも、改札とか路地で別れるときに、ロミオとジュリエットみたいにこの人と二度と会えない運命だったらどうしよう、と思うこともたまにあるけれど、なんか帰り道を歩いているうちに、正常性バイアスともまた違う、「まあ、耐え」みたいなことを思うようになるので、実は日常の中にある「終わってしまうこと」への恐怖は、回避可能であるものが多いのである。
ここであげた、恐ろしい「終わり」への対応を分類すると二通り、文字通り終わりを回避できるパターンと、終わった後に恐怖を回収できるパターンがあって、そして僕が「死」を恐れているのは、それが「絶対に回避できない」ことを知っているし、「終わった後にその恐怖が回収される見込みがない(無だから)」、つまり対処する手段が全くないと思っているからなのかもしれない。何一つないって絶望的な響きだ。


なんか、こうして一人で文章を書く方がよっぽど成果を得ることができる、ということも寂しい。この文章を書く目的は明確に一つあって、これを読んでくれているあなたを、自分たちのPodcastへ誘導することなのだけど、

僕は気の合う仲間たちと、ついに「死ぬのって怖くない?」ていう話ができると思って、嬉しかったのに、やはり上手には話せなかった。「死ぬのって怖くない?」って聞いてるのに、「死っていう言葉が最近より身近になってきているよね」なんて返ってくるから、会話って難しい。そんなこと聞いてないのに。
でも、そういう難しい会話の、面白さというか、噛み合わなさが空間としてのリアルであり、文章ではまとまらない答えのようなものでもあることをもう知っているので、「死ぬのって怖くない?」って実際に思ってこの文章を読んでいる人には、けっこう、三人で一時間以上も「死ぬのって怖くない?」ということを成果の出ないままに話し合ったこの記録は、この文章よりも僕が聴いてもらいたい切実な「何か」には触れているものだと思うので、聴いてみてくださいって言いたくなる。例えば僕は「自分が死ぬ(≒消失する)という体験」が怖いという話をしたかったけれど、逆に一人で考えていては俎上に乗せることはまずないような、「人が死ぬという現象」については全然怖くないんだなということを、他人との会話で自分から出てきた言葉、態度から実感として知ったり。
ほんとうには、どうかな? と、無理にまとめすぎているかもしれないけど、さらに綺麗にまとめると、「死ぬのって怖くない?」という話が整合性を失って瓦解してよくわからなくなることを僕はもう知っている。現にもう少し迷路に入ってるし。だからずっと上手にできない。
話したらうまく伝わらないし、どうしてか話したいということすら簡単に忘れてしまうし、なんというか、難しい孤独だ。

そう、とにかく、Podcast聴いてみて! 長いけど、その間きちんと話し合ってるし、そういうことってなかなかないから、面白いと思う。よろしくお願いします。

(けむり)







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