「まだまだ」と思ってた時って、全然伸びませんでした:飛躍的に伸びたのは?
こんにちは。天道です。
今回は、「まだまだ」と思っていた時は、全然力が伸びなかったお話です。
「まだまだ」は美徳? - 伸びませんでした…
人に褒められた時、「いやあ、まだまだです」。
それが謙譲の美徳なのはわかります。
でも・・・
「自分はまだまだだ」と思ってた頃。
私は全然力が伸びませんでした・・・。
たとえば、英語にしろ、空手にしろ、です。
英語は、ネイティブと比べちゃってましたからね。
ネイティブと比べて、自分はまだまだだ、みたいに。
そりゃまだまだですよね。
ネイティブと私じゃ、そもそも「前提」が違うんですから。(笑)
で、「まだまだ」に意識があると、「まだまだ」のほうが現実化してしまうわけです。
英語で「まだまだです」は、
There is a long way to go.
まさに、「まだまだ」と思うほど、a long wayが際限なく実現していたのです。
「いやいや、自分はもう十分だ」と思おうとしても
これを、「いやいや、自分はもう十分だ」といくら自分に言い聞かせても無駄でした。
「自分は十分じゃない」という意識が実はあるわけです。
その上に「自分は十分だ」を塗り重ねようとして無駄なんですよね。
逆に「自分は十分じゃない」を上塗りすることになってしまうわけです。
意識が「自分は十分じゃない」にさらにフォーカスしてしまうのです。
この場合の「意識」とは、深層的意識(潜在意識・無意識)レベルのことです。
つまりは逆効果。
余計に悪化することだってある。
やはり、自分に嘘はつけないんです。
いわゆるアファメーションやポジティブな言葉を繰り返し唱えるのが逆効果になりえるというのも、そういうことなんですね。
ついでにいうと、日本人の謙譲の美徳は美質ですが、そのせいか「まだまだ」と思いすぎる傾向があるように感じます。
「まだまだ」が自己否定や自分いじめになっては伸びません。
でも、やっぱり「やりたい」
やがて、英語も空手も嫌気がさしてきました。
どうせ俺はネイティブのようにはなれない。
どうせ俺は空手で強くなれない。
そんな風に思うようになって、いずれもあきらめてしまったのです。
だって、どれだけやっても、やればやるほど、「まだまだ」⇒「伸びない」の繰り返しでしたから、それは嫌にもなりますよね?
その後、どちらも年単位のブランクの末に、「その時」はやってきます。
やっぱり「やりたい」と思ったのです。
「よろこび」でやるようになった結果(1)
その時から、私はこう考えるようになりました。
ネイティブみたいな英語じゃなくていいや。
俺のは俺の英語でいいや。
そして、ただ「よろこび」で英語を再開したのです。
ああ、やっぱり俺は英語が好きだなー。
自分の「好き」を再確認しました。
すると・・・
年単位のブランクがあったのにもかかわらず・・・
英語が前より飛躍的に伸びはじめたのです。
「まだまだ」と思っていた頃、あんなに伸び悩んだ英語が、です。
そして、海外に情報発信することがさして苦痛なくできるようになり、私のコンテンツに望外の評価をいただくほどになったのです。
「よろこび」でやるようになった結果(2)
空手でも、同様のことが起きました。
ある時ちょうど知り合った整体同業者に空手の元師範代がいて友だちになり、遊び半分で一緒に練習しました。
やはり年単位のブランクがあったにもかかわらず、その元師範代が私の空手を評価してくれたのです。
それと前後して、空手が若い頃より目に見えて伸びていきました。
英語同様に、自分は自分の空手でいい、と思って「よろこび」でやってからです。
元師範代は
「天道さんの空手でいいんですよ。天道さんの空手をつくればいいんです」
といってくれましたが、奇しくも私が思っていたことそのものでした。
時を同じくして、これもまた新たに知り合った空手師範(先の方とは別な人)が同じことをいってくれたのも印象的でした。
英語も空手も、長い間放っておいたのにも関わらず、私のもとに戻ってきてくれた。
やはり、真剣にやったことは無駄にならない。
流した汗は無駄にならない。
それだけでもうれしいのに、どちらも「まだまだ」時代とは比べ物にならないほど格段に進歩したのですから、驚きでした。
「よろこび」に勝るものなし。
私はそう思っています。
まとめ
「まだまだ」は「まだまだ」が実現するだけだった
「自分は十分」と言い聞かせても逆効果だった
「やりたい」「よろこび」でやったら飛躍的に伸びた