サラバ!
宗教
人は自分が悪いことがわかっていてもそれを認めながら、自分が悪いことを感じながら生きて行くのは辛すぎつから何かにすがりたくてしょうがないんだという記述があった。
確かにそうだと思う。その典型というかそのもっと人間臭いものが人のせいにするということだし、人に何かをなすりつけるということでもあるのだと思う。
私も私自身が悪いことなんて100%わかっているのに、それを認めてしまうと自分が揺らいでしまうというか、その場に立っていられなくなってしまうからこそ、何かしら相手の落ち度を見つけて自分は悪くなかったのかもしれないというストーリーを立ててしまうんだと思う。
そう思うと自分の心の拠り所というか、救いになるものが一つでも自分の中にあれば、私はそこにまだ立っていられて、なんとか立ち直ろうと踏ん張ることができるような気がする。
自分のアイデンティティを形成するための道具として芸術を利用する。
何かの思惑があって誕生した芸術も中にはあるかもしれないが、多分大多数はそんな邪推であったり汚い思惑なんて微塵もなくて、純粋の塊みたいなものだとおもう。だからこそそれを楽しむのには、自分だけのために楽しんだほうがいい気がするんだ。
そんで持って、それを好きだという人が奇跡的に入ればその人と何が好きなのかとかそういう話をすればいいのだし、好きなものを純粋に楽しんだらいいような気がする。
サラバを読んでから、サラバがなんなのかわかったような気もするし、わからなかったような気もする。
最後に主人公が言いたかったこともわかったような気もするしわかっていないような気もするけど、わかりかけているような気もするというもどかしいような状態になった。
自分の中に信じるものを持っていることで、自分がブレることなく生きていけるということがわかったけれど、自分でいうそれはなんなのかは読み終わるまでにわからなかった。
大学三年生のときに自分の拠り所とするものを見つけた気がして、私は一生生きていけると思ったけれど、それもだれかに決められたというか他人からの受け売りだったのかもしれないと思うと、何が正解で何が自分の拠り所なのかわからなくなった。
私は自分がわからなくて、何がしたいのかとか、何を信じて生きて行くのかわからない。
多分だから私は真理というか自分の信じるものを見つけたいがために舞台を見に行ったり、本を読んで見たり、人がいいとオススメしているものを摂取して見たりしているんだろうなとふと思った。
自分の中で変わらない自分が自分で見つけた自分だけの心の拠り所というか信じられるものを見つけて、どうにか現実や日常を乗り切ろうとしているんだろうと思う。
自分の嫌いなところをピンポイントに刺されて、いまの自分にハッとすると同時に、自分が目をそらし続けていたことに目を向けることができたように思う。
だからと言ってそこから自分が変われるかと言われるとわからない。
なんせまだ自分の信じるものを見つけられていなくて、どう生きていけばいいのかさまよっているような状況なんだ。
どう生きればいいかわからない。
けどなんか生きることの指針を示されたような気がして、この本はまた読み返すだろうと思うし、大事に取っておくのだろうと思う。