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オンスクリーンタイポグラフィの基礎と実践

ポートフォリオサイトを作った。
badbadnotgood.design

会社や、家や、お洒落なカフェや、ドトールや友達の事務所や、いろんな場所でmacbookのキーボードを叩く。
コードやデザインに感情を込めている。いや、それは願いかもしれない。
己の思想や内側にある生き方を表現にしてコードに載せる。多くの人はクライアントの意向を再現するものとして捉えているかもしれない、私の場合は自分が見たいものをクライアントという制約の中で作っている。なによりも自分が満足したい。そうでなければ、失礼だ。少なくとも、マシなものを作ったと心の中で納得したい。それをクライアントや友達にも納得してもらいたい。

中野ブロードウェイに青春の残骸をぶちまけるところから生活は始まった。

付き合っていた彼女と別れて、一人暮らしを始めた。
もはや、どこにも自分のいる場所を見いだせないので過去の亡霊に問いかけるように引っ越してきた。

かつての俺にとっては中心であり全てであったようなもので長い間執着していたような文化。それらを手から離す、いい加減諦めがついたのかどうでもよくなったのかその両方なのだろう。

駅のホームで音楽を聴く。中学生の頃聞いていたくるりを聴く。その頃の感情、その頃思っていたようなことを何一つ成し遂げられていない自分に恥ずかしさを覚える。歌だけはその感情を覚えている。

自分の境遇など気にならない、将来の不安などが目に入らないがむしゃらさを抜けた後に歩いているとこのままどこへむかえばいいのか突然わからなくなる、自分を麻痺させていたものが効果がなくなり隠されていた痛みがゆっくりと襲ってくるような感覚。

大学を出た頃の自分は可能性に満ちていた。今は身につけた技術と引き換えに可能性を削られている。己と向き合っていることでもあるだろう。可能性という逃げ道をなくして自分自身がやること、やらなくてはいけないことと向き合うこと。

自分の人生という物体とケリをつけようとしている。俺の人生というのは青春時代に考えたことややりたかったことのことでそれに対して微塵の後悔もなく叩きのめされたい。
それか、その上で何か可能性を掴みたい。そのどちらかだ。
どちらにしても、大人になったという言い訳でなかったことにはできない。

道は一つしかない。道を選べたことなんてない。就職先もバンドメンバーも彼女も全てその時唯一いた人が拾ってくれただけだ。
俺自身でなければならない。と歌ったのはリアムギャラガーだが、それは己のカッコ悪さを隠してモダナイズしたつもりになっているのではなく、カッコ悪いダサい部分をそのまんま世界に放り出してみろ、そうしたら初めて人生が始まるかもしれないということなのだと解釈している。

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ここ10年間、自身からなるべく遠ざかろうとしてきた。
それは、周りがほとんどプログラマーの会社に大学を出て入った時から自分を変えなくてはいけないという焦燥感、そして自分が属しているカルチャーの終わりを感じたからだ。
それまで、国分寺のレコード屋に行き漫画を描き、ギターの練習をして曲を書き、己の精神世界を高めていたいわゆるフォーク詩人タイプから別の何かへと変化する必要があった。

そのうちの一つが、コンピューターやインターネットカルチャーであり、プログラミングであった。その辺りの歴史を学んだり、デザインをやるにしてもプログラミングを学んだ上での表現をできないだろうかと実験を行った。

新しい環境で出会うプログラマーの価値観にもびっくりした。こちらが大事にしていた、文脈はむしろどうでも良くて、全く別のものを大事にしていることだけはわかった。
そこに、アジャストするような何かを提供できなければ自分はやっていくことはできないなと思った。

The Klfを聴きながらwebサイトを作る。
自分自身から遠ざかる、自分が好きなものではなくそれらと繋げるために自分自身が別の領域へと赴く。

音楽の趣味は、ダブステップからはじまり、ハウスやヒップホップという方向に広がっていき、おのずとファッションもパンクからストリートへと変化していった。
クラブに行き、その場の若者たちの匂いや発している何かを感じにいった。

入社2年目くらいの頃、私はある展示を誘われて見に行った。
それは、インターネットを使った表現を得意としているチームで、webサイトを訪れる人の痕跡をポスターのグラフィックに昇華したり、ブラウン管の粗いディスプレイから白黒の電卓の表示のようなディスプレイの質感を紙の質感のように楽しんだり、ソフトウェアだけでなくハードウェアを使っていたり私にとっては眼から鱗の内容だった。そのチームはSemitransparent Designという名前だった。
もう一つ、その頃webのプログラミングのレベルにおいては国内有数の技術をもっていたため持ち込まれるデザインは自分のレベルと遥かに違うことだけは分かった。
使っているフォントから写真のディレクション、そして何より何を表現したいのかというシャープな感性のようなものがそのpsdファイルには宿っていた。
そのデザインファイルを開くと画面が光っているように思えた。それは、物理的な光ではない、素晴らしいデザイン画というのは画面が光る。そういうことを学んだ。
その会社は、simoneという会社だった。

デザインという世界の底で、誰にも期待されずに馬鹿にされ続けていた。
小さなキャンペーンページのデザインからはじまり、そしてそのような分野で誰かに評価されて仕事が続くようなこともなく、そして最悪なのはそんな仕事をして、こちらを試してくる人たちを私自身が馬鹿にしていた。
こんなレベルの仕事など自分には似合わない、もっと大きいところでこそ自分の本領は出てくる、だからそういった人たちの評価はほとんど気にならなかった。
そういった場は全て自分にとっての練習の場所だった。全く必要とされていない要素をデザインとして詰め込んで小さなアノニマスな仕事の中にも何かやるべきことを入れようとしていた。

大学を出てから就職するまでの半年くらいの間、引っ越しのバイトをしながら就職先を探しながら音楽活動のようなことをしていた。
その時、一緒にやっていたのは予備校の友達のM君というやつで彼自身はテクノを作っていたがバンドにも付き合ってくれた。
スタジオで練習をした帰りに、M君の赤いマーチでJames BlakeのLimit to your loveという曲をかけると低音が凄すぎて車がガタガタと揺れた。
実家でご飯を食べたりおすすめのYoutubeを見せあったりする中で、ふとその頃まとめていたポートフォリオを見せたことがあった。M君はそれを無言で眺めた後に、「これじゃどこにも就職できねーな」と言った。
その頃は、絵を描いたりするのがやりたかったことなんじゃないかと思いアニメーターの試験を受けたりしたがどこにも受からなかった。
あるアニメ会社では、試験が終わった後の面接で言ってなかったけど今の仕事の8割はエロだよ、君は毎日それを続ける覚悟はあるのか?と言われた。

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勤めていた会社は地下にあった。
地下のスペースで夜な夜な音楽をかけたりしていた。
どんな音楽が良いとか悪いとか話し合いながら同時にプログラミングの技術についてなどを話したりした。
プログラミングの技術は全くないのだが、どちらかといえばプログラマーの彼らの技術がどのようにデザインに活かせるだろうかということを考えていた。
その頃、音楽においてはネットレーベルと呼ばれるものが全盛を極めていた。それらは、インターネット上を主な活動としており、レーベルとしてフリーの音源を配ることでリスナーにアピールしていた。その中でもマルチネレコードは雑多な音楽性の中でも時折、imoutoidのような革新的な作品をリリースしていたり活動としてもポップで頭角を表していた。ネットレーベルは、ある程度インターネット上で知名度を得るとフィジカルな場での活動を増やし始めていた。それは、マルチネレコードのあらかわとものりという架空の?人物の名前を冠した代官山UNITでのイベントや渋家という一軒家での活動などインターネット上のものが現実世界へと染み出していた。IDPWのインターネット闇市もそうで、インターネット的なカルチャーや価値観、手法を通過した上で改めて物質をつくる、SNS上だけではなく実際に会うということが行われ始めていた。それは、ポストインターネットという動きとリンクして新鮮なものとして受け取っていた。
そういったポストインターネットという流れは、2016年のDIS Magazineによるベルリンビエンナーレのキュレーションというフィナーレまで続いていたように思う。

ある日、twitterを眺めていたら気にかかるというかどうでもいいというかとにかく読んでみたいと思わせるタイトルを見つけた。そのタイトルは、「クラウド化するギャル男──「ギャル男ヘア」の成立をめぐる表象文化史とその批評的解釈の試み」というものだった。インターネットのCloudと、ファイナルファンタジーのクラウドのダブルミーニングとそれに続くクラシックな本格論文のような補足?文、そのどうでも良いシャープな笑いの感覚に衝撃を受けて、Shibuya Publishing & Booksellersでしか置いてなかった雑誌を買いに行った。
そこで書かれている内容というよりも、その文体のシャープさに一番衝撃を受けた、軽やかで繊細でありながら抜けている感じもあり、その上で圧縮された情報量みたいな印象も受けた。その作者の千葉雅也という名前を強烈に刻み込まれた。

仕事を始めて、4年くらい経った頃、会社でいくつかの会社にアプローチをして実際に会って話を聞こうというタイミングがあり、その中でPOSITRONという会社の土井さんという人と会う機会があった。
POSITRONはm-floやMAD CAPSULE MARKETSやPhilip K Dickの文庫版のカバーであったりとカルチャー的な領域で私自身が多くの影響を受けていたものを多く手掛けていて、話を聞いたタイミングで今度何かあれば仕事をしましょうということになった。

最初に依頼をもらったのは、土井さん自身のライフワークになっているPhilip K Dick作品のTシャツなどを売るブランドサイトの制作だった。
私自身が小説をよく読んでいたし、土井さんのグラフィックもある、これこそは何かできるのではないかという予感がした。
プログラマーとも音楽の話や最近の使っている技術の話を同じようなレベルでしていた。
そういった、仕事だけではなく一緒にカルチャー的な話をする、遊びに行くというスタイルがこちらがやりたいということに対して、大きく膨らまして返してくれるという結果に繋がった。
デザインと実装が離れていては実現できないやり方だった。こちらが、デザインや世界観の提案をするとその上で今の技術でできることならこれというのをいくつかキャッチボールしながらサイトを組み立てて行った。
サイトはリリースされると、そのもともと人気のあった小説の力もあり大きな反響があった。
デザインと実装の不可分な関係性の中と、先人たちの作ったwebサイトに匹敵するものを作りたいという衝動で出来上がったもので、初めて世に対して何かができるかもしれないと思った。

Webデザインというのはなぜ面白いのだろうか。それは、私たちはデザインという世界において、誰からも期待されずにただ渋谷の地下で夜な夜なもがいていたが、その進む方向は別の方向だった。
タイポグラフィーを学ばない、色彩や造形の訓練をしたりしない、誰かの心を打つアイデアや構成を考えない、キャッチーなコピーライティングも入れない、流行りのグラフィックスタイルを取り入れない、デザインに関するそれっぽいものを一つもやらなくても良いものはできる、違うやり方で到達しようともがいていた。
既存の枠組みに入って安心しようとするのではなく、新しい領域を目指してみんなで別の道を走っていた。明らかに誰もが望まない道を全力で振り切って走っていた。

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