オリラジ中田と禁忌芸
ネットニュースで神田伯山さんとオリラジ中田さんが舌戦を繰り広げたという記事を目にしました。
それでいろいろ思いましたので自分の中で言語化してみようと筆を取りました。
先に言うと個人的な考えの整理みたいな事をしようとしているだけなので「読まなきゃよかった」と思うかもしれませんがそこは自己判断でお願いします。さらに言うと僕はその話題の中心となっている番組を観てないしラジオすらちゃんとは聞いていません。その上での感想というか感触みたいなものを個人的にまとめてみてるだけなのであしからず。あと単純に長いのでそれもご了承下さい。
僕が一番気になったのは伯山さんの
「中田さんってキングコング西野さんと同じ枠だと思ってるんですよ。」
という部分です。
ネットニュースの書き起こしで見ただけなのでそこがどういうニュアンスなのか判断しかねますし、そしてそのあとの「芸か金か」論争はいろんな価値観があった上でお互いの論点と認識にズレがあったように思います。ただこの発言自体はざっくりと世間の目みたいなものをたしかに捉えている気がします。しかしその上で僕は違和感を感じているのです。
端的に言えば僕は中田さんは西野さんとは全然違うタイプで、なんだったら伯山さんの方が西野さん的な枠組みの中に居るような感覚があったからです。
今回言いたい事はその部分だけではあるのでこの感覚を説明出来れば終わりなのですが、そのためにはまず僕の中でオリエンタルラジオ中田敦彦さんがどういう枠の芸人なのか言語化する必要があります。
中田さんは僕の中で「密室芸」の人です。
このnoteの中で何回か言っているのですが誤解を恐れず言えばいわゆる「エグい種類の笑い」だと思います。見る人を選ぶ笑い。立川談志的な業の肯定のけっこう核心的部分。オリラジはあの時代の東京よしもとの中心的立ち位置から出てきた人たちなのでその風味を使い分けていてそれを広い場所では感じさせないようにショーアップしていますが、それがひとたびクローズドな空間になるともうちょっとバイオレンスであったりアイロニーであったりグロテスクであったりする表現を忍ばせています。
初期の武勇伝のネタの中に
というものがあります。
これは今の時代だとアウトなのは丸わかりだし、かといって前時代的な空気の中で無自覚に入れ込んでるにしては駄洒落の作り方とメモリアルという皮肉めいた言い方がなんらかの文脈を伝わる人にだけ向けてやってる事が透けて見える提示の仕方になっています。
これだけでも充分にオリラジが「大衆的な場所でさらりとタブーを侵す芸」だというのがわかります。中田さんは特にそのことに関してかなり自覚的ですし同時にその追求の仕方が愉快犯的天才ハッカーのような動機として快楽を優先しているだけで目的や思想が出発点ではない事をたびたび自己言及していたりします。
特にその中田さんの「大衆的な場所でさらりとタブーを侵す芸」の本質が表れているネタで僕が好きなのはオリラジの初単独DVDでの「ジェットガイザー」というコントです。
ネタバレをしてしまいますが、わかりやすいヒーローものです。悪の怪人から藤森さんを守るために参上した中田さんが正義の名の元に暴力を行使しまくるという設定です。これを観れば中田さんが常に何をしたいのかが理解しやすいし印象も変わると思います。もちろん作品の中で皮肉も含めてですが。(ちなみにその後の「約束の日」というコントも藤森さんの芸の根源的な部分を表現しててとても良いです。未見の方はぜひご覧になっていただきたいです。)
さらに中田さんにはその「大衆的な場所でさらりとタブーを侵す芸」をネタの中だけには留まらせずその後のタレントとしての振る舞いにも組み込んでいきます。
代表的なのは「オールナイトニッポン」での喧嘩ではないでしょうか。周りも含め本人たちもネタ化させていますがこの行為は何処かパッケージのしやすさも感じられて100%わざとでないにしろ例えばキングコングの梶原さんの逃走やオードリーのIKEYAの椅子の破壊とは違った事件性の担保が感じ取れます。絶妙に黒歴史的話題として振り返りやすいサイズ感をしていて言ってみればとんねるずのカメラ転倒事件と同じぐらいの若い頃ヤンチャだったことの証明をあまり説明しなくても伝わるトピックです。
また「よしもと男前芸人」の投票をファン心理を掴んで2位に躍り出たり、藤森さんの不祥事をオールスター感謝祭でビートたけしさんにいじられた時水を向けたり、8.6秒バズーカーのリズムネタを完コピしたり、ベッキーの不倫に対して他のコメンテーターが擁護する中それを批判する立ち位置で仕事を増やしていったり、しくじり先生のゴールデンでヒトラーを扱った授業をしたり、茂木健一郎さんの「日本のお笑いはオワコン」発言をブログ上で支持したり、「幸福洗脳」というブランドを立ち上げてラジオで告知しまくったり、個人でのYouTubeチャンネルをよしもとと連携させずあの段階でヒットさせたり、創価学会を扱った授業をしたり、闇営業の一連の騒動があったのちそれが収まってきたけど解決する前のタイミングで事務所を離れたり、脱税目的と噂される中でシンガポール移住を決めたり
などなどこのラインナップを見ただけでも感じ取れるように全て法の抜け目的なところから「ルールを守った上でタブーを侵す芸」のオンパレードです。これらはタイミングやポジショニングを少しでも見誤れば空気として成立しないものである事がこうして並べてみるとわかります。つまり漠然とだとしてもこういう目論見自体は長期的に視野に入れている事が感じ取れます。個人の感想ですが。
そしてこれらのタブーを侵すために重要になってくるのは「虎の威を借る」という要素です。
中田さんは常に自分より明らかに圧倒的に大きい存在にはわかりやすく忠誠しています。ただその矛先は流動的でありその時々のパワーバランスで変わる非常に刹那的な動きをしています。それは正確であると同時に病的にまで繊細です。
それは時としてよしもとという事務所であり、時としてテレビ業界であり、時として大御所の芸能人であり、時として同世代の芸人であり、時として相方の藤森さんであり、時として他ならぬ自分自身のアイデンティティだったりします。なので中田さんの芸風は物凄く情報量が多くそれがプレゼン芸にも繋がっています。つまり移ろいゆく対象や情景に対してきめ細かくそれでいて忘れやすく言語処理をメロディに乗せる事が異常に発達しています。ちなみにこの芸風に一番近いのはアンジャッシュの渡部さんです。(2人は似たような能力でその役割をボケとして行ってるかツッコミとして行ってるかで印象が大きく違います。)
中田さんのようなタブーを侵す芸は既存のルールや大衆心理、既得権益自体の中でこそその規律や雰囲気をさりげなく破る意味があるのでむしろ弱体化する前段階の権威の傘の下に入る事が第一命題になってきます。無秩序な中で治外法権的振る舞いをしても目立たないからです。
そこで重要になってくるのがキングコング西野さんの存在です。
西野さんは中田さんとは違い「密室芸」の人ではなく
「大衆芸」の人です。
西野さんは今までの活動を振り返ったとしても炎上こそ引き起こしている印象はあれどタブーを侵す事自体を目的とした芸はしていません。
デビューしてすぐにMー1グランプリの決勝に駒を進めるが「つまらない」と批判も受けたり、20代でゴールデンタイムのテレビ司会を務めるも番組が終わったり、ブログ西野公論で吉田豪を蹴飛ばしたいと記述したり、「雛壇に出ない」発言をしたり、岡村隆史と揉めたり、岡田斗司夫にクラウドファンディングの仕方を批判されたり、芸人交換日記面白くない発言したり、「芸人引退」発言したり、絵本を無料公開する事でクリエイター界隈からバッシングされたり、ゴッドタンで劇団ひとりと尻出し対決をしたり、オンラインサロン入会数日本一になるも映画えんとつ町のプペルのチケットやグッズを高額で販売しているビジネスが詐欺まがいだと話題になったり
などなどこれらは結果として炎上しているのであってはなからそれを狙ったわけではないのがなんとなく感じ取れます。というか狙ってたとしたら大雑把すぎます。西野さんはプロレスとして自分の身に降りかかった事をネタとして消化はしますがその一挙手一投足は中田さんのように「法の抜け目からタブーを侵す」わけではなくけっこう半ば強引に自分に注目させて「敵対する相手や事象を自分のキャラクター上のストーリーに組み込んでしまう」という芸をしています。これは明石家さんまさんなどがその代表格です。
なので西野さんはツッコミ芸なのだと思います。自分が正論を言ってる立場でありイジられた時の返しで際立ちます。それは言葉はテンプレートであれど洗礼された顔芸や所作のひとつひとつが舞台出身の大振りな演技であり声の張り方の技術でありその素材に向けて梶原さんを含めた周りの共演者がどう料理するのかが面白さの鍵となっています。そのため自己像と他者の関係性で成り立たせているシンボリックアイコンであるため時代の中で大衆側でありながらなるべく多くの人に叩かれるという立ち位置を常に崩さないようにしているのが見受けられます。
中田さんはその大衆的な存在の西野さんの活動範囲の影響下の中に今は軸足を意図的に置いています。その前段階では主戦場であった宮迫さんが中心地のアメトーークなどの雛壇番組にプレイヤーとして居住していましたが今はYouTube上の番組のwinwinwiiinでのバランスの取り方を見てもそれが移行しているのがわかります。中田さんは西野さんに対しての初動の絡み方は「ディズニーを倒す発言」などを表面的にイジるポジションからだったと記憶しています。それら芸人全体的なノリはアメトーークでも宮迫さんも含め「スゴイんだぞ西野さん」で集大成的に消化されたものでしたが、今は中田さんはそのイジりの矛先を若干ぶれさせています。むしろwinwinwiiinの初回では宮迫さんの方にイジリの重心を置いています。中田さんはその時々で絶妙にバランスを保ちながら天秤がどちらかに傾くかのように笑いながら誰かを正義の名の下にイジリを行使しているのです。
自分より先輩をイジる事は大きく言えばタブーなのだと思うのですが中田さんはそれを絶妙なパワーバランスを見極めながら大衆の中にさりげなくメスを入れ込むのです。これはれっきとした「密室芸」そのものだと思います。
そしてその上で神田伯山さんです。
この人は「毒舌」という意味では一見密室芸的に見えますがその実体は伝統的な場所に身を置いているからこそ成立している昔ながらの芸人像をキャラクターとして守り抜く「大衆芸」の人だと思います。
先のネットニュースでも
と言っています。
これは上記した西野さんの「敵対する相手や事象を自分のキャラクター上のストーリーに組み込んでしまう」という方法論とまるまる一緒であると思います。
西野さんとの違いはツッコミ芸ではなく一人芸であるので自己完結的であるという事でしょうか。つまりふっかけはするけどそれが最終的には自分の解釈とともにひとりの喋りでのみ成立させるという形に回帰します。それはそれでそういうお約束であると理解するとより楽しめるオープンな場所での芸だと思います。伯山さんは西野さんがオンラインサロンでやっている事をラジオや寄席の空間でやっているという形です。
なのでよく似ていると言われている爆笑問題の太田さんとも表面的なアイコンとしては確かに似通った部分は感じられますが本質的な活動領域は異なると感じます。太田さんこそ過去の発言や騒動を振り返ると「大衆的な場所でタブーを侵す芸」だという事がわかります。中田さんと違ってそれがさりげなくではなくドサクサに紛れてという感じですが。そしてその太田さんがむしろ伯山さんに大衆性を感じているのだろうとも思います。中田さんが西野さんに感じてる大衆性と同じような歩み寄り方です。その事に大衆側である西野さんや伯山さんがあまり今は気付いてないという感じではないでしょうか。それが伯山さんの「中田さんってキングコング西野さんと同じ枠だと思ってるんですよ。」発言に繋がると思います。
むしろ
これは伯山さんと西野さんのプロレスなのだと思います。
それは今からでも想像するとワクワクするようなタイトルマッチでいつか観てみたいです。
なのでこの中田さんの「密室性」と
伯山さんの「大衆性」
どちらが上とか下とかなくそう言った相互関係の中で複雑に絡み合っている現状を映しているのでそれを踏まえて観るとより興味深く味わい深いです。
長々となりましたが僕の捉え方は大体こんな感じです。
最後に少し触れたいのが
では何故中田さんは西野さんと同じ括りにされてしまったのか?という点です。
これは上記している通り中田さんが「大衆的な場所でタブーを侵す芸」という性質上西野さんに近づいたからという単純な話でもあると思うのですが、それならば同じ性質である太田さんにはそういった「何か自分より大きなイメージのものに取り込まれている印象がない」という部分で差異があるのがわかります。もちろん芸風の違いはあれどでは何故中田さんはそう思われてしまったのか?
それは前半で言及したようなアンジャッシュ渡部さんに芸風が似てるという点が大きいのではないでしょうか。
2人ともボケツッコミという役割は違えどきめ細かい情報や表面的な言語処理をメロディに乗せるという芸をしています。ようは説明台詞を早口でまくしててるため小賢しく聞こえ鼻につくというベースがあります。その上で「虎の意を狩る」わけですから巨悪の根源だと目に映りやすいのかもしれません。むしろ言ってしまえば小悪党的な振る舞いでもあるとも言えるのですがそういったアイコンの方が反感を買う回数が無意識に多くなると言った感じでしょうか。
その気質であるがゆえ威を借ってるはずの西野さんと同等のサイズ感に映り括りとして同列に扱われてしまったのかと。渡部さんも復帰しにくい現状は潜在的な反感を買ってしまったせいで巨悪そのものだと思われてしまった事によるものでもあると感じます。
なのでむしろ中田さんの立ち位置は
「西野さんのオンラインサロンに入って映画えんとつ町のプペルのチケットやグッズを高額で販売されている側」
もしくは
「それを嘲笑してリツイートしてる側」
の間を行ったり来たりしてる揺らめく天秤のようなポジションを体現しているのだと思います。
しかも今回の件を調べようと思ってYouTubeで検索すると伯山さんが中田さんと舌戦を繰り広げた裏話をしているラジオの次に、以前中田さんが伯山さんを賞賛していた動画が上がってくるというなんとも言いがたい少し切ない配列になっています。たまたまではありますがこの状態も含めて大衆芸と密室芸の隔たりが浮き彫りになっていてその関係性と時系列の間で悩ましく揺れ動く中田さんそのものを表しているかのようで面白いと感じました。
中田さんが次にどの大衆的な場所でさらりとタブーを侵すか楽しみです。