不倫報道とアンジャッシュの関係性
アンジャッシュの渡部さんの不倫報道とその一連の流れを見ていろいろ思いました。それを書いていこうと思います。これは僕が勝手に思った事で読まなきゃ良かったと思うかもしれません。あしからず。
そしてどういうポイントを語りたいかと言うとお笑いとして、エンタメとして、コンビバランス等そういう点で見ていきたいと思います。ネットの誹謗中傷や男女の社会問題的な要素も含まれる話だとは思いますがそこがメインの考察ではありませんのであしからず。文章としても拙いです。
なのでこの呟き自体で気分を害するかもしれませんので自己判断で読み進めて下さい。そして僕がどういう観点でお笑いを見ているのかは呟きを遡るとかもめんたるの槙尾さんについて書いてるツイートがあるのでそれを読んで頂けましたらわかりやすいと思います。
今回の件で僕が思ったのはざっくり言うと2点で、「アンジャッシュのコンビバランス」と「アンジャッシュがどういう笑いをやっているのか」についてどちらも前々から感じていたのだけど言語化出来てなかったので今回してみようと思います。
まず「アンジャッシュのコンビバランス」ですがアンジャッシュってそもそもけっこう複雑な2人芸をやってのけてるよなぁ…と感じていたんです。アンジャッシュって「フリ」と「ツッコミ」のコンビなんだと思います。
僕の理論ですが通常お笑いコンビ、特に漫才師なんかは「ボケ」と「ツッコミ」で役割分担をしています。「変な事を言う方」と「それを訂正したり進行したりする方」です。これが最もオーソドックスでもはや日常会話でも使う認知度の高いお笑いの関係性です。
それともう一つがコントをする芸人さんや割とボケツッコミが明確に別れていない関東の芸人さんがたまに使う用語で「フリ」と「コナシ」という役割分担があります。これは「面白い事をさせる方」と「それに振り回されて面白いリアクションをする方」です。
「フリ」と「コナシ」は技術的な用語としても使われますが役割分担としても機能してます。最も有名なのは「コント55号」だと思いますが最近で言うと「バナナマン」とかがわかりやすい例です。設楽さんが「フリ」日村さんが「コナシ」それで笑いを生んでます。
漫才師ですがハライチもノリボケ漫才の時なんか特に顕著ですね。岩井さんが「フリ」澤部さんが「コナシ」アンガールズも山根さんが「フリ」田中さんが「コナシ」その他で言ったら「ロンドンブーツ1号2号」とかも淳さんが「フリ」の要素が大分強いですね。
具体的に「ボケ」と「ツッコミ」と違う点は「変な事をする事」が目的なのではなくそれによって「コナシのリアクションを誘発させる」事が目的の役割なのです。自分が「面白い事を言う役割」なのではなく「面白い事を言わせる、させる役割」なのです。
それで言うとアンジャッシュはどうなのか?先程言った通り「フリ」と「ツッコミ」という変則的な役割分担なんだと思います。児嶋さんが「フリ」渡部さんが「ツッコミ」です。「面白い事を言わせる、させる方」と「訂正したり進行したりする方」の組み合わせ。
このバランスは珍しいですが確かに何組か居て例えば先程上げたロンドンブーツ1号2号とかも淳さんが「フリ」亮さんが「ツッコミ」的なバランスです。淳さんは司会やドッキリの仕掛け人など番組や演出側ごと「フリ」という立ち位置にいます。
それに対して亮さんはたまに仕掛けられたりもしますが基本的には視聴者側からの目線で「ツッコミ」をしているのです。ロンブーはネタよりも企画での立ち振る舞いの上手さで売れたのでこういう番組の構造に組み込まれた役割分担をしていると思います。
若手で言えば「ニューヨーク」なんかも割と「フリ」と「ツッコミ」だと思います。嶋佐さんが「フリ」屋敷さんが「ツッコミ」です。ニューヨークはイジりたい対象をネタやトークの中に組み込んでそれに対してツッコむという形でイジるのでこの形が成立します。
なので嶋佐さんは演じ込みやちょっと痛い事を言ったり天然が出ても割とツッコませていると思います。「ボケ」と「フリ」が一番違うのは「天然」が出た時の所作だと思います。ツッコまれたりイジられたりしても展開を見越してそのままの佇まいが出来るかです。
「フリ」と「ツッコミ」は関東人と関西人の組み合わせに多い気がします。(その逆の「ボケ」と「コナシ」もそうですね。例えばドランクドラゴンなんかそうです。)さてアンジャッシュですが関東人同士でなぜこの組み合わせなのか?
やはりすれ違いコントというネタが代表作であるからだと思います。あのシステム上どちらもある程度「ボケ」「ツッコミ」「フリ」「コナシ」を出来なければ成立しないタイプの技工的な仕組みのネタだからだと思います。
その中で微妙に、コミカルな演技や雰囲気作りを児嶋さんが、きちっとした説明的な部分や笑いどころの噛み砕きを渡部さんが、お互い若干担当していってたのだと思います。「ボケ」「コナシ」という笑いの肝が「人物」ではなく「状況」にあるシステムだから。
それをフリートークやバラエティの立ち振る舞いでも応用していったので個々の活動になっていきやすいわけです。児嶋さんは演技やイジられの仕事や、渡部さんが何かを紹介したり司会進行をするのはネタの仕組み上自然な流れなのだと思います。
そこで興味深いのはネタ以外で2人揃った時に「状況」で笑いにする仕組みになっているので微妙に噛み合わないという部分がコンビ芸として表面化するという面白い成立の仕方をしていくのです。特に「児嶋だよ」ブーム以降それがわかりやすい。
児嶋さんはピンの時「イジられ芸」になったのは自然な流れだと思います。なにかにボケるわけでもツッコむわけでもドッキリで大きなリアクションを取るわけでも無いですから皆が自分をイジるという状況や雰囲気を作っていく方向になるのは最適解だと思います。
(先程上げた設楽さんや岩井さん山根さんや淳さんも初期の頃は皆大御所にいわゆる「じゃない方」的なイジリを大小差があれど受けてると思います。児嶋さんの場合はピンの比重が大きいのでそれが状態化したのだと思います。)それが「児嶋だよ」ブームです。
そしてその「児嶋だよ」ブームで渡部さんと一緒に番組に出ると渡部さんはちょっとやり辛そうになるわけです。そして「やり辛い」という角度でよくツッコんでいました。あまり参加はしないんです。これこそが「状況」のおかしさなのだと思います。
「児嶋だよ」ブームは要は第三者が児嶋さんの名前を間違えるのが流行っちゃうという状態なので児嶋さんが何もしていないわけです。それに対して渡部さんも相方としてやりようが無い。(言われるの待ちだし児嶋さんが「児嶋だよ」と言えば成立しちゃうから。)
何もしてない児嶋さんがブームになってることに対しやり辛い渡部さんが「やり辛い」とツッコミを入れてもやりようが無い児嶋さん。このどちらも悪くないのにすれ違い続ける変な状況の面白さこそがアンジャッシュの「フリ」と「ツッコミ」だと思います。
特にアンジャッシュは前述のロンブーやニューヨークと違って何か自分達の冠番組や巨大な芸人組織みたいな所に属していた訳ではなかったので団体芸的なものになりすぎてないからこそ個人技が各々問われたのだと思います。
そして児嶋さんがイジられキャラとして確立していけば行くほど時代の流れも相まって渡部さんがよりきちっとしたキャラクターが反比例的に比重が大きくなっていったと感じます。なにせ児嶋さんをイジるコンビ芸では無いから個で確立しないといけないからです。
渡部さんの好感度キャラは「児嶋だよ」ブーム以降その色濃さを強めた感じがします。「状況」がそうさせたというか「児嶋だよ」ブームに対する渡部さんの返しにも感じます。そして今回のような件になり、またその「状況」に児嶋さんが巻き込まれる。繰り返し。
ポイントは児嶋さんが「フリ」つまりキッカケの役割なので「状況」に対して今回の件をラジオで話したりした事でまた次の局面に入っていった感じがする事だと思います。それに対して今また新たな「状況」が生まれていると思うので渡部さんがどう返すかです。
これが僕の感じてる「アンジャッシュのコンビバランス」です。そしてもう1点が「アンジャッシュがどういう笑いをやっているのか?」という話です。これが今回の言いたい肝の部分でもあるのですが、内容から先に言うとけっこうエグい種類の笑いだと思います。
エグいと言う表現がなかなか難しいのですが、今回の件はよくナンイティナインと比較されていると思います。確かにそこと比較するとわかりやすいので引合いに出させていただきます。感じるのはナイナイと真逆の部分が多い気がします。
問題を起こした方のキャラクターとか役割とかシチュエーションが見事に逆だと思います。ツッコミ、ポンコツじゃない方、モテる方、視聴者を励まそうとして言葉を間違えたのではなく視聴者が思ってたイメージでは無い行動を取っていたという点でも違います。
そしてナイナイはそれ自体が賛否あるのですがその失敗自体をエンタメにしようとしたんだと思います。アンジャッシュは逆です。エンタメの失敗を見せられてる。というようなもっと人間の下世話な欲求を満たす怖いもの見たさのような代物だと思います。
これはかもめんたるの槙尾さんの時も言ったと思うんですが確かにそういう見世物が世の中にはあるのです。密室芸的というか見る人をだいぶ選ぶ笑いというかエンタメというか…ギリ人前に出せるもの。ギリアウトだったりするのも含めて。
プロなので、ショーアップしているので、気付きにくいのだとは思いますがそういう笑いはあって、そして実はわかりにくいんだけどアンジャッシュもそういう成分を実は内包しているタイプなのだという事です。
例えばタモリさんが昔やってた放送禁止用語を使うネタとかわかりやすかったり今売れてる芸人さんでも「テレビで出来ないネタ」を持っていたりします。アンジャッシュはお互いクリーンなイメージだし本人達も意図しては無いかもしれませんが要素を感じます。
これは言い方として難しいんですが例えばアンジャッシュも昔のネタは下ネタやホモネタみたいなのが多かった印象があります。児嶋さんがバナナマンのラジオで開拓していった「いじられ芸」も、渡部さんがおぎやはぎにラジオなどで言及されてた「女遊び芸」も本来その場だけの日の当たらない笑いの要素がスタート地点からは物凄く感じる。それらを大衆的な場所でも披露できるようにそれぞれでショーアップしていった感触です。
本人達が意図しているか別としていわゆる立川談志の「業の肯定」的なものを感じる事がある。岡村さんが間違って発言したのとは違って渡部さんは間違ってるとわかってるけどしてる。それ自体の倫理性とは別の話として。です。
僕はそれを面白いと手放しで称賛しているわけではないです。切り離して考えてます。「すれ違いコント」ももちろん素晴らしいし大衆的な笑いは存在するし売れるとはそこにウケるという事です。ただ「核」の部分がどこにあるのか?という話であるわけです。
僕はアンジャッシュのネタで「それぞれの会話」というコントが一番好きです。とてもよく出来てると思います。最初の児嶋さんの天然ぽいくすぐり演技の小ボケと、渡部さんのさり気ないツッコミ言葉のなぞり技術というか少しだけうろたえる絶妙な感じ。しかし掛け合うのはそこだけで後は電話で全然違う会話をするのです。
でもそれが微妙にかけ合わさって会話みたいになったりならなかったりします。本人達は気付かない。「状況」の笑い。そして終盤はAVの話と誘拐の話がリンクしてくる不謹慎な笑いになってゆきます。
児嶋さんが娘を拐われた悲劇の男を熱演するばするほど滑稽に見え、反対にその横でただ友達とエロい話しかしてないだけの渡部さんの姿が醜悪に見えてくる。それぞれ別の会話をしているだけなのに微妙に重なり合いながら互いの業を肯定し合う様は美しいです。
このコントは最後に2人が「え?」と言って目を合わせて終わります。僕はそれが何とも好きです。またこのコントを演るアンジャッシュを見たいです。