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あの日、運営が俺を見て、俺はアイドルを見ていた


あちらの世界とリアルイベント

アイマスへの入り口は人それぞれだ。
俺はいわゆる推し文化やアイドル文化とか、音楽シーンから入った人間ではない。アニオタの延長でキャラの持つ魅力から沼にハマった1人だった。

彼女らの世界へもっと没入しようとして、俺は触手を伸ばした。
CDを聴き、漫画を読み、ゲームに触れ、そしてライブに行き着くまでそう時間はかからなかった。

俺にはライブの経験が無かった。

だからあちらの世界に生きるアイドルをこちらの世界のライブでどう表現するのかと期待して臨んだ。
でも、演者本人がステージに立つ事は流石に知ってた。だから視覚的なハンデは少なくなさそうけど、それを演者の表現力と観客の想像力で補う魅力こそが舞台だと理解してるつもりだった。

けどそれは俺の思い描いていたイベントなんかじゃなかった。

ステージの上で何故かプロデューサーさんに向けられるトーク。
自己紹介でノルマのように演技した後はひたすら演者目線のMC。
“アイマス”などというあの世界にはないハズの単語の登場。
果ては演者の名前を叫ぶ客。

その空間はあちらの世界へ没入させるために作られたものではなかった。


別にキャラと髪の色が違ったって良い。
ダンスだってゲームやアニメほどのキレは出せないかもしれない。
片手がマイクで埋まってるのも仕方ない。
2次元を3次元におこす難しさを考えたら、俺はそんな事ならいくらだって受け入れられた。

でも、そもそも企画自体にあちらの世界へと誘う姿勢が薄い事だけは、どうしても苦しかった。



演者頼りの歴史

ライブのパンフを開いてそれが演者の写真集だった時は何かの間違いかと購入履歴を確認した。
リアルイベントと関係の無いアニメBlu-rayの特典さえ演者のバラエティ映像になる始末だった。
主体であるはずのキャラクターはどこへ追いやられたのか。


そこに需要があるのは理解してる。
かつて有機的なキャラクターとして期待されていたVtuberが配信者のガワとして隆盛したことを考えれば、こちらの世界にいる生の人間の持つ強さが分かる。

演者が愛されればそれは時に盾にもなることも知ってる。
運営が失敗した時と比べ、演者の至らなさは遥かに許され易い。だから運営も演者の愛嬌頼りの企画へと流れるのかも、と意地悪な推測もしてしまう。


でも俺は演者が好きでアイマスを追いかけてるんじゃない。
キャラクターが愛おしいから、あちらの世界にもっと触れたいんだ。


演技の領域において「中の人を感じさせない」ことは表現者としての演者への最大の賛辞だ、と俺は思ってる。けどその感覚はアイマスとすこぶる相性が悪いっぽかった。

ライターが演者の嗜好やノリをキャラに還元してしまい、結果演者が苦言を呈した事もあった。
リアルイベントのトラブルを演者の機転により解決した出来事が、後にライブやアニメなどで再演されるほどあちらの世界で意味を持ってしまった。
昨今は演者のMVなどというものが大々的にアピールされ、今後さらにこちらの世界が優先される予感がする。


俺だって演者を軽んじたいわけではない。

でも演者はあの世界を作るチームの一員でしかない。キャラクターデザイナーやシナリオライター、作曲者、振付師…そんな中の1人。
比重は言うまでもなく大きいけど、代替不可能な程でもない。だって現に交代した例がいくつもある。

演者のパーソナルを切り売りする現行の手法は、キャラクターとしてのアイドルの価値を高める上で避けては通れないのか。俺には演者とキャラを同一視することがどうしてもできない。

じゃあアイマスというテセウスの船で、何がアイマスたらしめているのか。それこそが演者と切り離した“アイドル”のキャラクター性や彼女らが主体の物語じゃないのか。


……そんな共感を得られ辛いものを抱えながら、それでも俺はアイマスからは離れられなかった。

そして大好きなアイマスの中でも一大コンテンツであるライブ。
俺はその運営姿勢と目線の合わなさを感じながらも、無視はできないくらいの距離感で接していく事にした。



主体性の獲得

さて、先日シャニマスのXRライブ[liminal;marginal;eternal]が行われた。

XRライブの特性上そこに演者の人間性やナラティブが介在する余地が無い事は知っていたし、純粋にキャクターであるアイドルを見ることができるステージはかつての俺好みのイベントっぽい。

パンフもキャラクターが主体になってるらしい。
少なくともあちらの世界へ連れて行ってくれる姿勢は見せてくれるんじゃないかと、どれどれお手並み拝見くらいの気持ちで配信を視聴した。


長らくアイマスと付き合う中で、きっとどこかで傷つきたくなくて、俺がライブに求めるものは大衆に迎合しつつあった。それに気付いたのはこのライブの後だった。


このライブは俺の胸倉を掴んだ。

完成された映像が精巧に映し出されるだけのライブイベント、そこにあちらの世界への入り口を探していた俺は、強引に引きずりこまれた。

緋田美琴が倒れ、照らされる無人のステージ。
その後のにちかのソロ登場とMC。

あの瞬間、俺は初めて、確かにあちらの世界でアイドルを見ていた。
不安で胸が張り裂けそうになり、心からの応援をステージへ送る。そんな没入が気付かぬほど自然に引き起こされた。


XRライブで決して起きてはいけないトラブル。
でも現実ではいつどこででも起こりうるし、それが演者の体調不良なら責めるファンはいない。

そんなリアルイベントにおいて、こちらの世界の住人である“本人”にしか許されない失態があのステージで起きた。
この“本人”はこれまでずっと演者だけのものだったのに、あの日初めてキャラクターである彼女らがそれを獲得した。

ステージの上の彼女らに血が通い、こちらの世界とあちらの世界が繋がった瞬間だった。



運営の視線と賛否の絶対値

あの日初めて、ライブイベントが俺の方を向いて行われていた。
それはアイマスのライブで初めての体験だった。

けど俺たちは同じコンテンツを愛しているようで、みんな少しずつ別々の場所に立っている。運営が俺の方を向いたら、その代わりに目線を外される人がいる。


好きなコンテンツの運営が自分を見ていない苦しみは嫌というほど分かる。

長らく視線が合っていたコンテンツから急にそっぽ向かれた人が負った傷は、俺が初めてのライブで感じた失望より遥かに大きいのかもしれない。

でもそれと同じくらい、長年付き合ってきたコンテンツのライブが初めて自分を見てくれたことへの感動は大きい。ずっとこんな風に考えていた人間の存在も認めてくれたんだと、俺は喜び満たされた。

もしその感情の絶対値が同量だとしたら、ここでコンテンツを見限ってしまう人を俺は止められない。探せばずっと自分の方だけを見続けてくれるようなコンテンツもあるかもしれない。


それにいくら俺の望みが叶ったとはいえ、今後は全て今回と同形式のライブにしろと言うつもりはない。大きいコンテンツの中で、別々の場所に立つ俺たちみんなが報われる機会があって良いと思うから。

そしてまたこの先の長い付き合いの中で、このライブと同等以上の感動を期待して俺は待つことができるだろう。


アイマスには、これからも手を変え品を変え色んなファンに視線を合わせていってくれる事を願う


(誰の方を向いているイベントなのかもう少し事前に告知すべきで、そこがしっかりしていれば傷つく人を減らせたのでこれは運営の落ち度だと思う)

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