生後90日目、入院
今日の診察で、急遽入院することになった。
水腎症と腎臓結石の併発は本当に珍しいそうだ。
2週間前より結石が増えており、まだ結石の原因特定のための検査は残っているが、治療を早くスタートした方が良いという判断だった。
腎臓の弱さは私の家系だ。
どうして、私より我が子が症状が悪いのか。健康に産んであげられなくて、つらい。
処置室の前で採血や導尿で泣き叫ぶ声を聞くのはつらいが、重要なのはその後の治療。
結石を作る成分を薄めるために、水分の大量摂取と服薬を並行して行う。
まだ母乳以外の水分は飲ませたことがないのに、1日に800ml近くも追加で水分を取るらしい。
経口が無理なら、移管。鼻からチューブを通すらしい。入院で様子を見極めて、家庭で治療を継続する。
大事なのは、治療の効果が出ること。腎不全を防ぐこと。
さらに、遺伝子検査や精密検査を続けて原因を絞っていくらしいが、遺伝子検査は国内ではやってない、原因成分の精密検査も近くではやってないし、治験段階だそう。しかも併発が珍しい上にこんな乳児の段階ともなれば、治療方法が限られる。
理屈も治療も、理解できる。本当によく理解できる。
私の頭は、悲しいことに、子供の頃からピンチな時ほど冴える。そして、冷静に先にことをパターン分けして考えていく脳ミソだ。
何の不安もない幼少期に、もし母が先に死んだら、一人暮らしをはじめたら、と考える子供だったが、残念ながらそのシミュレーションが若いうちに役に立ってしまった。
そして、今回もその防衛反応がさっさと働いて、もし普通の生活が出来なくなれば、もし我が子が先に死んでしまったら、と淡々とシミュレーションが始まる。死んでほしくなんかないのに、母の時のように最悪のシナリオを何パターンも瞬時に考える自分が憎い。
治療を急ぐことになるなんて、辛くて不安で申し訳ない。はずなのに。心がついていかなくて、涙が出そうで引っ込んでいく。
母が亡くなった時も、心がついてこなかった。悲しいとか辛いとか、寂しいという名前のある感情として認識できたのは、かなり後になってからだった。
今回も、私は私の心が動いているのか分からない。動揺しているはずなのに、淡々と入院準備をして、必要な人たちに状況を説明して、1人で入院に付き添っている。いつもの授乳や寝る時間を思い出して、寝かしつけている。
本当は泣きたいくらい申し訳なくて、辛くて、不安なはずなのに、私は私を泣かせてあげられない。
ただ、目の前のことを淡々と進めるだけ。