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母の言葉がよみがえる

人の好意を選り好みしてはいけない。

たとえ好意自体が迷惑だったとしても。




私の母は、父の実家と折り合いが悪かった。

父の田舎は母を温かくは迎えていなかったことを子どもながらに肌で感じていた。

いくつも良くないエピソードはあるが、この度、母の信念を感じたある話を思い出した。



盆や正月に父の田舎に帰省すると、帰る時には核家族では到底さばききれない量の土産を持たされるのが通例だった。

大量の野菜、米、果物、生魚。

それらは都会で配り歩く先がそんなにない我が家にとって、明らかに多すぎる量だった。

けれども父は縁のない人に配ってしまうことを嫌い、かといって食べきれない大量のナマモノをどうにかする知恵はくれず、母はいつも困っていた。

しかも、帰宅するとすぐにお礼の電話を入れなければならず、おそらくその時に田舎に忘れ物があったり、お気に召さないことがあったらお叱りの言葉を浴びたりしていたと思われる。

幼い子供でも、そういう雰囲気は察することができるもので、だから私は父の田舎が大嫌いだった。

帰省すると必ず祖母は「ばあちゃんからの小遣いだ」と言って私に万札を握らせた。大金の使い道がない年齢でも、お金をもらうことは少し嬉しかった。

だから、大量のナマモノ土産に困る母をなぐさめようと、「こんなに食べきれないお野菜とか買うくらいなら、お魚とお金にしてくれたらいいのにね」と私が言うと、

「人の好意を、これはいる、これはいらないって選ぶのは良くないことなの。そういうものなの。」と叱られた。

てっきり、意地悪ばあさんに困らされている母を助けたつもりだったのに、思いもよらない言葉が返ってきたので驚いた記憶がある。

あんなにお母さんをいじめる人たちが、いらないお土産でお母さんを困らせてるのに、どうしてお母さんは庇うんだろう。

なんで迷惑なのに、いらないって言ったり、これだけでいいって言っちゃいけないんだろう。

はっきりと疑問が浮かんだけれど、なぜか母に聞くことができなかったのを覚えている。



母が亡くなり、私も大人になって結婚した今なら、何となく分かる。

人の好意は、やはり好意なのだ。良かれと思ってほどこした事を、指でつまみ上げるように「これはいる」「これはいらない」と選り好みすることは、その人の思い全てを踏みにじる、失礼なことなのだ。

縁の続く人は、逃げられる関係じゃない。お互い嫌でもまた会うだろうし、その時はきっと好意が反転して敵意となって飛んでくるだろう。

可愛さ余って憎さ百倍。

べつに、母は可愛がられていなかったけど。




先日の、夫へのブチギレ案件で、私は何でそんなに爆発的にイラッとしたんだろうと考えていたところ、このエピソードが脳裏に浮かんだ。

夫が食事の際に、気に入らないものは残すことは、私の好意を選り好みされているということになる。

「お前のこの思いやりはいる、これはいらん」


どちらかというと私は現実主義者で合理的な方なので、「いる、いらない」を伝えることの方が効率が良いと考えていた。

でも、いざ自分の手料理を連日選り好みされたり残されたりするのが続くと、つらい。心が割り切れなかった。

いる、いらないではなく、夫への好意を丸っと受け止めて欲しかった、というのが私の本音だったのだ。

出された食事は、基本的に全部食べるのが常識。いる、いらないを選り好みしないこと。

やたらとこれにこだわる自分がいたのは、母の信念が心に残っているからな気がしている。




母は不思議な人だった。

必ず、数年後に役に立つ助言をする人だった。

その時はよくわからなかったが、数年後に雷に打たれたようにその言葉が意味をなすという出来事がいくつもあった。

今回は、約30年の時を経て、その雷が落ちてきた。

今までで、最長の時間を超えた雷だった。



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