私のすきなものについて

糸井重里さんのエッセイのようなものをインターネットで発見した。それは毎日更新されるようなのだが過去の投稿はアーカイブしない。つまり、見逃し配信の機会がない一期一会なシロモノってワケ。
そんなワケだからわたしはそのサイトに毎日、訪れることにした。
そのエッセイの一つ一つは一〇〇〇文字くらいで「ほえー」と思いながら読んでいる。二度と見られなくなってしまうのがイヤなので、A5サイズの6mm横罫ノートに書き写すことにした。デジタルで保存しておく方法でもよかったのかもしれないが近い未来、急に完成したシゲサトエッセイ本がわたしの目の前に現れる。って何か良くない?と思ってそういう手段を採用した。私は作家たちのことをリスペクトを込めて名前で呼び捨てにする。正しい敬い方がわからないので、いっそむしろ失礼だろという方向に舵を切っている。
私は「MOTHER2」というゲームが心の底から好きなのだけど、シゲサトが制作に携わっていることは「MOTHER2」を手に取った当時小学二年生だった私も、Androidスマホでなんかうまいことやって遊べるようにした高校二年生の私も、3DSを中古で買ってバーチャルコンソール版「MOTHER2」だけでしか遊ばなかった二十二歳の私も知らなかったと思う。ツイッター(現:X)のフォロワーたちが教えてくれたと記憶している。『夢で会いましょう』というエッセイを少し前に教えてもらって読んだ。シゲサトってなんだか不思議な人だなぁと思った。とはいえ、ある程度フシギな方じゃないとMOTHERシリーズはつくられなかったのでは。
実はエッセイが読めるようになったのは本当に最近の話なのです。幼き頃から「ひとの気持ちを考える」という能力が本当に劣っていて国語の授業で頻出するあの問題、そう「この時の筆者の気持ちを答えよ。」もし、文中から探す系ならば回答可能ではあるが、自分のあたまで考えるとなると空欄で提出するほかない。「わかりません」って解答欄に書いた気もしてきた。そもそも割と自由な作文の類も、自分の気持ちとか考えとかが不明瞭で碌なものを書けなかったのだから、ひとの気持ちなどなどに思考を巡らせることなんてできなかった。そういう小さき頃を送ったので、大きくなってからエッセイというモノに手を出してみるも苦手意識あいまって、こちらの方は何を伝えたいのか…サッパリ…な状態が読むたびに発生する数年だった。ツイッター(現:X)をはじめて、好きになったモノの一つがエッセイ。何故?と理由を聞かれて明らかに、コレですというキッカケはやっぱりシゲサトな気がする。お酒を飲んでいるやや酔い始めくらいの頭で読んだら楽しかったんだよね。詳しく説明できないのだけれどね。普通に、(この「普通に、」の使い方キラいだけど使っちゃう、悔しい。)素敵じゃん。エッセイ。って。とハイボールを飲みながら思ったワケね。
ありがとうツイッター。ありがとうフォロワー。ぜんぶにありがとう。
今日、ケンタッキーにしない?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?