見出し画像

唇に触れられうる資格はあるのか

 彼女を家に招くのはこれで3回目だろうか。

 1回目はゼミ発表会の打ち上げの二次会を一人暮らしの僕の家で行った時。数人の友人とともにやってきた。その時はそこまで仲が良いわけではなかった気がするけども、共通の友人のノリについてきただけだと思う。そこから彼女と少し距離が縮まった気がする。僕は映画が好きだったし、彼女もそうだった。趣味が合うという点もそうだったけど、何よりも彼女の一本芯が通った生き様に惹かれた。彼女の周囲がどうなろうと意に介せず、堂々と生きるそれは僕にはないものだったから。彼女に会うまでは周囲には黒髪の乙女が好きだと公言していたが、あの小麦色の髪を見てそんなものは話を合わせるための適当な口実だったと気づいた。彼女の趣味がどうとか、そんな問題ではないのだ。「映画なんてオタクが見るものだ。キモい目障りなお前はさっさと私の前から消えろ」と言い捨てられても、この気持ちは変わらないかもしれない。それは少々歪な感情かもしれないが。無論、彼女はそこまで小根が腐っているわけではない。

 2回目はおよそ1ヶ月前のこと。僕に元来備わっているとは思っていなかったなけなしの勇気を振り絞り彼女を映画に誘った。メッセージを送る指が震え、タイピングが終わってから送信ボタンを押すまでに何時間かかったかわからない。ボタンを押してからも1時間くらい動悸がおさまらなかった気がする。彼女から了承のメッセージが届いたときも動悸に苛まれた。
 その日はものすごく楽しかった。一緒に観た映画の面白さなど比べようもない。ただ、その楽しさの中に「そう思っているのはお前だけだぞ」となんとも意地の悪いもう一人の僕がたびたび顔を覗かせた。帰りの電車の中、僕は車内のモニターに流れている流行りのアイドルグループを指差して、君は彼女たちを知っているかと尋ねた。なんとも意味のない会話だった。ただ単に沈黙を作りたくなかったのである。あと数駅で僕が降りねばならなくなったくらいのところで、彼女が今日はまだ帰りたくないと言った。僕は家に来ないかと言った。この次点でハニートラップ的なことを疑うべきであったが、僕に理性などなかった。全く愚かしい限りである。まず最初に、この後にやましいことなど何一つなかったと断言しておこう。僕の家に彼女を招き、お互い一本の酒をちびちび飲みながら学校のこととか近況を話した気がする。ただ話しただけ。それだけ。本当にそれだけ。数時間たって彼女はそろそろ帰ると言い出した。さっきまではそんなことは言っていなかったのに。むしろ真逆のことを言っていたのに。そう思ったが酒に酔ったバカのフリをしてそれがいいよと言った。なんとかこの時間を伸ばそうとして途中まで送ることを提案した。彼女の家は結構近いらしい。夜の街を歩きながらずっと彼女の背中を見ていた。家で話しすぎてしまったのか、もう話題も尽きて口数も少なかった。深夜だったので誰もいない。道路にも走っている車はない。赤信号を律儀に二人で待つ。そこで好きだと彼女に言った。彼女は少し黙っていた。あまりにも何も言わないから僕はすごく不安だったけど、彼女はうんと言ってくれた。ちょうどその時くらいに信号が青に変わったが、渡ることはなかった。そうして今のような関係になった。この日を忘れることはできない。

 部屋の鍵を開ける。僕はドアを押さえなければならないので彼女から先に部屋に入る。まだ3回目だというのにそこに一切の気遣いは感じられない。それが何よりも嬉しいことだった。彼女が先に部屋に入る。「相変わらず小綺麗にしてるね」と部屋を見渡しながら言う。普段から小綺麗にしているわけがない。君が来るから片付けたのだ。彼女の小さい背中を追い僕も部屋に入る。
 「で、今日は何するの?」と彼女はこちらに一瞥もくれずに言う。咄嗟のことだった。彼女の肩を掴みこちらへ振り向かせる。正面から対峙した彼女の両肩を僕は両腕で掴んだ。僕は同年代と比べれば背が小さい方だが、それでも顔を見下ろせるくらいには彼女も小さかった。女性ではそれが一般的なのか?ええい。そんなことはどうでもいいのだ。さっきまであっけらかんとしていた彼女は戸惑っているようだった。いや、確実に戸惑っていた。しかし抵抗する様子はない。彼女の目を見る。彼女も僕の目を見ている。今まで人の目なんて真っ直ぐに見れた試しがなかった。しかしその時は彼女の目以外のものが見れなかった。かわいい。顔を近づけていく。その時間が異様に長く感じた。アキレスと亀の話ってこういうことを言うんだろうか。多分違う。どうでもいい。二人の鼻先が触れそうになる。光沢のある唇に触れるまであと数センチ。もう行くしかない。Fly Away。未来はもう僕らの手の中。
 我に返る。体が固まる。僕はなんてことをしてしまったんだ。彼女の体の自由を封じ、あまつさえ接吻しようとしているではないか。僕と彼女がそういう関係性であるとしてもそういうことは両者の同意があって初めて行われるものであって決して一方的なエゴによってなされてはいけない。しかし今の僕は完全にそれを一方的な感情で、しかもいきなり、なんの脈絡もなしに行おうとしている。これでは完全に強姦魔と同じではないか。僕はそういう行為を日頃から心底恨んでおり、偏差値が高い私立大学の学生と同様にそれを仮想敵として捉え長年脳内で戦ってきた。そのレベルの最低下劣、地球上で最も憎むべきものの一つにカウントされるおぞましい存在に成り下がってしまったのだ。人間、いや生物である以上そういう欲求が目覚めてしまうのは自然でありそれを否定するつもりはない(これは決して強姦をする欲求のことを言っているのではなく、生殖的欲求という意味である)。しかしそれを行動に移すかどうかは別の話だ。なんの断りもなしに、相手の了承も得ずにそんなことをするのは動物と同じではないか。人間としての尊厳を忘れ、他の生物に比べ格段に発達した脳が可能にしたコミュニケーションをドブに捨て、発情したサルの如く性に一直線に向かう見るのもおぞましい今すぐ生き絶えるべき存在。それが僕であった。
 数秒固まったのち僕はそこに膝をつき両手を地面に並べその場に首を垂れた。いわゆる土下座というものである。すいません。気の迷いでした。そんなことを言った気がする。その時彼女がどんな顔をしているのかわからなかった。なんせ地面を見ていたのだから。もしかしたらその細い指で110番を押しているのかもしれない。自分を油断させ家に招き入れ、背後から自由を奪い取り強姦魔のようなことをされかけたのだ。今に後ろのドアを蹴破りFBIが乗り込んでくる。それだけのことをしてしまったのだ。地に顔をつけた僕の後頭部にカカト落としでも食らわせ「くたばりやがれ性獣が」と吐き捨てる彼女の姿を想像する。
 「顔、あげてよ。」彼女の声が聞こえた。警察が到着したのだろうか。それとも鼻先に拳をお見舞いするためにメリケンサックを指にはめ終えたのだろうか。顔を恐る恐る上げるとそこに彼女の顔があった。「やるなら、最後までやれよ。」その言葉を聞いたときに目の前が真っ白になった。ポケモンで負けた時ってこんな感じなんだろうか。だがその時の僕は決して野良のトレーナーに負けたわけではない。唇に何か触れる。今までに一度も味わったことのない感触だった。今までに一度も味わったことがないのだから何にも喩えようがない。ただただ柔らかかった。やっと視界が晴れてきた。目の前には今までに見たことのない表情の彼女がいた。少し照れているような、でも今までに見たことがないのだから決めつけるのは些か不躾である。普段はハキハキ話す彼女が珍しく呟くように言った。「女からこんなことやらせんなよ。」予想外のことが起きると何もできずに固まってしまうのが僕の悪い癖だったが、ここでも見事に指一本動かせなかった。「嬉しかったのに。」彼女はそう言った気がした。

 その後はさっきまでのことなどなかったかのように過ごした。僕はいつも彼女から自分に自信がなさすぎる、ということを言われているが、この日はより拍車がかかっているような気がした。でもいつも通りだった気もする。

 いつも通りにその日は終わり、彼女は帰路につく。家を出るとき僕は送ろうかと声をかけたが断られた。去り際、彼女はいつも通りはっきりと「次はちゃんとしてよね」と言った。次か。次は少しわがままになってもいいんだろうか。彼女がいつも言うように。今度家に来るときは耳掃除でもお願いしようかな。そう思ったが絶対にそんなことはできない。いくらなんでもキモすぎるから。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?