2020年までを振り返る②
※今回の投稿は、西野亮廣エンタメ研究所の「1年以上前に書かれた記事をサロンメンバーは自由に転用して良い」というルールをふまえ、西野サロンの内容が含まれています
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自分は、まだ30人規模だった頃からの中田敦彦オンラインサロン初期メンバーである。サロンが立ち上がってまだ半年もしなかったころ、中田さんが客員講師を勤めていた青山学院大学のエンタメビジネス実践経済学の講義へ、えんとつ町のプペルのコスプレ衣装で参加し壇上の中田さんの目の前に空気椅子で着席したことがある。
文章だと意味が伝わりにくいと思うのでもう一度書くが自分は中田さんが講師を務める青学の講義に、えんとつ町のプペルのコスプレ衣装で出席し壇上の中田さんの目の前(2mの距離)に空気椅子で着席をしたことがある。ゴミ人間プペルだ。
但し、その理由は今日まで誰にも明かしてこなかった。
今回の投稿で伝えたいことは
『なぜ、そんなことをしたのか?』だ。
理由の一つ目は、その前の週の講義で中田さん自身が「もっと、自分を出せ!」「もし俺が生徒だったら、壇上に着座しておき、講師に「何でそんなことをしてるんだ!」と突っ込ませ、自分の名前を覚えさせるね!」と、消極的な授業ムードに対する叱責があったからだ。別の回の講義では「言われてないことをやるが、正解」という教えもあった。
つまり中田さんの講義内容そのものを正しく解釈するのなら、この非常識な行動はこの回に限っては「正解」と言えるタイミングだった。
また、この年の西野亮廣さんの近畿大学卒業式スピーチ内容も、「失敗なんてものは、ない。思いついたらまず行動しろ!」というものだった。
そもそも、当時 24時間走の世界選手権が控えていた自分が中田さんの幸福洗脳企画やオンラインサロンに率先して関わった目的は、この競技の元世界王者として、24時間走のことを少しでも多くの人に理解してほしかったからである。
ここで言う「24時間走のこと」とは、競技の存在のことだけではない。なぜ、井上真悟は24時間走り続けるという、過酷な競技で前例のない偉業を成し遂げられたのか、の根本についても、だ。
Facebookの記事では、もう何度も書いたが、もともと自分がコレらの競技に打ち込んだ根本は2005年に自殺した父への葛藤と、その後2度のサハラ砂漠マラソンを経て出逢うことのできた全国の児童養護施設の子供たちに、幸せになってほしいという想いからきている。
スコット・ジュレクやランス・アームストロングスもそうなのだが、ウルトラマラソンに限らずこのような過酷な競技で本当に勝てるのは、常識的な強い人間ではない。狂気的なほど何かに没頭しなければ壊れてしまいそうな弱さのある人間である。だからこそ、希望がある。
昔の自分と同じように暴力や虐待の辛い原体験をもつ子供たちに、何かを感じとってもらえるのではないか。
そう信じていた。
そして、欠落している人間だからこそ持つ可能性を社会に信じてもらえるんじゃないか、とも。
えんとつ町のプペルは、映画公開を控えたこのタイミングで、いよいよ認知度を増してきているが、大切なことは「キンコン西野亮廣さん」と言う苦労家の人生が反映された作品であることだと自分は、想っている。
そして、それは井上真悟の人生などよりも、遥かに多くの子どもたちへ希望を与えると感じた。
ゴミ人間プペルの、体現者になりたかった。
もしも1年半前、中田さんの講義ではなく西野さんのサロンイベントにプペルのコスプレで参加したなら、きっとそれは素直に喜ばれたことと思う。
中田敦彦さんの青山学院大学講義へ、中田さんの作成した「着たら生活に支障がでるようデザインされたおぞましいシャツ」幸福洗脳を着ていったなら、それは中田さんから素直に「PRしてくれてありがとう」と感謝されたことと思う。
しかし、自分はその逆をした。
あえて、西野亮廣サロンオフ会には幸福洗脳を着てゆき、中田敦彦さんの講義やオフ会へはプペルのコスプレで参加した。批判の声は、当然の如くあった。
しかし、もし本当に中田敦彦さんの「考え方」に
西野亮廣さんの「考え方」に、共感しているコミュニティであれば、その反応は、本来おかしいはずである。
幸福洗脳も、ゴミ人間も、もっと言うなら自分が作成したうんもりマンも、根本のメッセージは同じだと思うからだ。
あの日、24時間走元世界チャンピオン井上真悟がオリラジ中田敦彦の青山学院講義へプペルのコスプレで出席し、中田さんの目の前で空気椅子をした理由。
それは、映画『えんとつ町のプペル』公開直前のいま書き綴ったこの文章を他でもないあなたに、ここまで読んでもらうためである。
自分は、16年間。マラソンで生きてきた。
マラソンとは「ランニングすること」などではなく、目的からの逆算と行動による生き方のことである。
そしてランニング以上に辛い想いをした人、苦しい体験をした人こそ、本当の意味でマラソンの素質に恵まれている。
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※以下は、中田さんの講義内容と同じく当時 自分が参考にした西野亮廣エンタメ研究所2019年4月16日の西野さん本人の投稿です▼
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堀江さんがよく「遊びしか残らない」「遊びが仕事になる」とおっしゃっていますが、まさにその通りで、個別差はありますが、物質的にも時間的にも世界は確実に豊かになってきていて、僕らは「飢饉」で死ぬことはありません。
『働き方改革』とやらで長時間労働が禁止されて(賛否両論ありますが)、一昔前なら長時間労働するしか生きる道がなかったのですが、そういえば、長時間労働を禁止しても生きていけるようになっています。
労働時間が減り、暇が増えると、「結局、僕らに必要だったのは『仕事』ではなく『役割』だった」ということが見えてきます。
役割を見い出せない人は、孤独を覚え、精神的にこじらせ、衰弱していきます。
あれだけ禁止されているというのに、公園の鳩にパンを与えているオジサンは、そこに自分なりの「役割」を見いだして、今日も健康でいれるわけですね。
テレビをつけたららコメンテーターさんが有名人の熱愛報道に対して、あれやこれやとコメントしていますが、そこに何の意味があるの?
「意味」なんてありません。まったくもって、無駄です。
そこにあるのは「役割」で、時間とお金をかけて強引に「役割」を作り出して、精神的な衰弱を防いでいる。
動物のようにシンプルに食べていく為に働いているわけではなくて、食べてはいけるんだけど、「役割」がないと精神的に死んでしまうから働いているのが僕らです。
どうやら時間を持て余すと、正しいことや、意味があることの価値は下がり、「熱狂できる無駄」の価値が上がり、人やお金はそこに流れるようです。
小学校の時に、スライムを作って、教室の天井に投げつけて、いつ剥がれ落ちてくるかドキドキしませんでしたか?
すみずみまで無駄な時間でしたが、僕らは熱狂し、スライムが張りついた教室の天井の視聴率が急激に上がりました。
今、世の中はその方向に進んでいて、「熱狂できる無駄」がプラットフォームになりつつあります。
それこそが、僕らが作らなきゃいけないものだと思います。
『えんとつ町のプペル美術館』をランドマークにした「えんとつ町」なんて、べつに無くてもいいわけじゃないですか?
ついには巨大な時計台を作ろうとしているわけですが、スマホで時間が確認できるこの時代に、時計台なんて本当に必要がない。
ですが、僕らはそういった「必要のないもの」に数十億円をブチ込みます。
そこに「役割」があるからです。
「熱狂できる無駄」を開発する人がいて、
それを形にする人がいて、
それを評論する人がいて、
それを受けとる人がいて、
それらの価値を膨らませる人がいて、
それぞれ、まるで無駄な作業に使命感を覚えて生きていくのが現代で、『アートの時代』ですね。
食料や寝床は最悪どうにかなります。
僕らは「役割」をデザインしなくちゃいけなくて、つまるところ、ここから力を持つのは『エンターテイメント』です。
エンターテイメントの価値はこれからグイグイ上がるので、エンターテイメントに賭けた方がいいと思いますよ。
西野亮廣エンタメ研究所
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