幸せな人生とは、悔いを残さないことだと思う!
24時間走日本選手権が事故なく無事終了しました。結果は、石川佳彦がこちらの予想を上回る234kmの記録で優勝。相澤京佑は、前半戦で高山病の症状が出てしまい、38位の結果に。この投稿では石川くんや、今大会スタッフの岩本能史さんとの想い出を珍しく振り返りつつ、惨敗の悔しさを濁しちゃおうと思います。
<岩本能史さんとの想い出について>
コーチとしての書籍をたくさん出しており、2010年代の市民ランナーに対して知名度の高い岩本能史さん。
あまり知られていないけど、2006年に初開催された第1回神宮外苑24時間走の優勝者でもあります。
当時の24時間走は、世界選手権への出場条件が不明瞭ななか、日本代表選考レースとしてIAUが主催したもので、僕や岩本さんら当時の参加者は代表枠をかけて挑んだつもりでした。
ただ、事情は明かされなかったけど、優勝者の岩本さんは翌年の日本代表に選出されませんでした。それは、とても悔しいことだったと思う。
その後、読者がご存知のように岩本さんは日本では挑戦者の前例がなかった「バッドウォーターウルトラ」への挑戦を軸としながら多数の書籍を出し、24時間走に直接は出場しないながらも「24時間走」という種目の認知度も広められていました。
ちなみに今大会の途中で「井上くんはウルトラマラソン関係者の色んな人と大抵一度はケンカ別れしてるよね。してないのはオレとくらいじゃないかな?」とおっしゃっていましたが、実はそんなことはなく、僕としては2005年のスパルタスロンや第1回神宮外苑、その後の月刊ランナーズ誌面で活躍する岩本さんやclub☆My STARの皆さんのこともめっちゃ妬みつづけていましたので、20代のころは自分のなかではこっそりケンカしてるつもりでいました。「今にみておれ!」と。
今大会の開催を尽力いただいた主催者の根本務さんとは僕は面識がないのですが、根本さんももともと岩本能史さんのチーム「club☆My STAR」のメンバーとのことで、いま日本のトップウルトラランナーが競い合える「ジャパントロフィシリーズ戦」が生まれたことは、岩本さんがウルトラランナー兼コーチとして色々と頑張ってきたことの延長線上にあるんだなぁと感慨深いです。
<石川佳彦くんに託した想いについて>
話しは変わって石川くん。彼とは2016年台湾横断246kmレースの約186km地点で出逢いました。
当時の自分の状況は、4年間勤めた「Dr.ストレッチ」の職場でクソ生意気だった新入社員にうっかり頭突きかましてしまい、それによって生じた諸々のトラブルを処理するために責任とって退職。今後、食ってゆくために自分の得意なウルトラマラソンで実績を出し、ランニング業界で名を上げるしかない!と考え、台湾メディアに優勝を宣言してレースに挑んでいました。中盤から独走をつづけレースの主導権を掌握してると自覚しながら走っていたころ、背後から火の玉のような勢いで追い上げるランナーが突如現れ、正直「やばい!」と感じた
それが160kmの部に出場していた石川佳彦でした。
(160kmのラスト60km地点をこれだけペースを上げられるなら、24時間走でも通用するはず!)と感じ、その夏に自分が関わった「東海道ウルトラマラニック」を大会ゲストランナーの一人として走ってもらい、色々と24時間走の話しなどをしました。。。いや、違ったかな?逆に24時間走のことには一切触れず、当時お互いハマってたフリースタイルラップバトルの話しかしなかったかも。その後、なんやかんやあり、彼は今では24時間走はじめ200km級ウルトラマラソンの絶対王者です。今回も相変わらず、そうでした。
そのことをとても嬉しく思っています。
石川くんや岩本さんとはウルトラマラソンの何かでまた再会したかったので、今回ひとめ見れて嬉しかった。
その縁をくれた相澤選手に感謝しています。
彼を石川くんを脅かす存在にまで育て切れてなかったことだけは石川くんに対して申し訳なく思ってるけれど、本人の火は消えてないようなので、この件はまたチームとして仕切り直します。
井上真悟の24時間走はすでに終わりましたが
相澤京佑の24時間走はまだまだこれからなので。
あと別件でコロナがあけたらたぶん毎年ダンスの友だちと徳島に阿波踊りしにゆけると思うので、そのとき石川くんや松島さんにもまた会えたらイイなぁと思ってます。やっとさぁ。