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過去の出来事と今のわたし

突然ですが、過去の出来事をどうとらえようかわからなくなったので。
吐き出すためにこれを書いていくぅ。

過去の出来事とは、両親の離婚が原因で生じた精神的な辛さのこと。

「私の半分は無いも同然」という自己存在の否定、
楽しい・嬉しいことに対する抵抗感、
強すぎる責任感、
自己存在の肯定のために相手が誰でも過剰に奉仕すること など

一年と少し前、sokoage campにて上記のような生きづらさが自分にあることを自覚しました。
そこで、自分は生きていても良いこと、ありのままの感情を受け入れること、何もしなくてもいていいこと に気づきました。

それ以降、自分の思考や行動のクセとどう向き合うか考え、実践しています。

以前(中学~大学2年)は、「可哀想な私」像を作っては、自分で自分を慰めるor都合の良い人に慰めてもらって、刹那的な存在の肯定、安心感を得ようとしていました。
同情を買うことでやっと息ができる、そんな状態でした。

私はこの世で不幸な部類の人間だとマジに感じていたので、「こんなにしんどいならいっそ消えてしまいたい」と人に言うし、「一緒に死のう」なんて言われた当時、人生で最も幸せホルモンみたいなものがドバドバ出たのを感じました。

可哀想な私に同情されないと息ができない私は、
呼吸するために「可哀想な私」を作っていく必要がありました。
だから、楽しいや嬉しいといった感情を自分が感じるのにとても抵抗があり、そういう感情になったらブレーキをかけるようになっていました。

そんなことをしていたら、生きづらさも限界を迎えるに決まっていて、
学業、サークル活動、学外活動等に疲弊したことに加え、この精神状態を持ち合わせていた私は生活を送ることが困難になり、心身ともに限界を超えました。

そこで、良いタイミングで、上記のsokoage campに参加して、自分のことが少しだけ肯定できるようになり、生きることへの肯定もできるようになり、「まだ死にたくないな」という感じで日常生活を再スタートさせました。

でも、変化はゆっくりにしか進まないもので、両親の離婚関連で不幸をアピールをすることは無くなったけれど、今度はその時その時に置かれている状況で「可哀想な私」を強く認識またはアピールし、荒んだ心になってやっと息ができる生活が始まりました。

そんなこんなで、離婚が直接の原因になり自分を否定することはほとんどなくなったんです。
ただ、自己存在の承認の為に自分の身を削らなくていいところまで削っていました。

だけど、時間が経つにつれて、その悩みの種がだんだんとなくなりメンタルの調子が良くなっていきました。

その状態がここ半年くらい続いていました。

だけど、最近そんな自分に変化が訪れています。
生活リズムは最高で、友人仲間に恵まれ孤独じゃないし、タスクに追われているわけでもないのに、なぜか、積極的に自分の古傷を注視している自分がいるのに気がつきました。

私は、過去の出来事を乗り越えていない。乗り越えたいとも思っていないのかもしれないなと最近感じます。

それは、
私が不幸がアイデンティティだと誤認しているから?
ある種人間臭さのあるものを好む(または、それが落ち着く)傾向にあるから?
私は、不幸自慢をしたいのか?いや、それは無いはず…


しんどさと向き合ってみよう界隈でよく使われる、
『過去の出来事は変えられないけど、捉え方次第で様々な解釈ができる。』その言葉を信じて、時には過去を見るのを辞めたり、時には過去をガン見して状況を変えようと試みたり、親への感謝を持とう!!おりゃ!!という心持ちになったりもした。

でも、それらは私にも家族にも合わなくて、
結局、質が良くなって元に戻ってきた感じがする。
(ある意味、新しい捉え方が生まれたわけだが)

ああ、わかったかもしれない。
私は、自分の過去を、白か黒かで決着を着けてからじゃないと受け入れられなかったのかもしれません。
でも、今なら、自分の過去に白黒つけないで、そのままで受け入れることだってできるはず。

確かに、親の離婚、自己否定に走った10年間はしんどかったし、その辛さとはこれからも先も付き合っていくのだろうけど、
私には、私の過去の出来事が作る思考と感性があり、
それらを持っているから素敵だと思える人や表現に出会えたし、
損得勘定無しで人にやさしくある(実際できているかは主観で判断できず)という生き方を選んでいる。

しばらくは、自分の気の向くままに、過去の出来事と向き合っていこうと思います。
それで、また自分の身を削るようなことがあったら、新しい付き合い方を探すまでですね。



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