映画『南瓜とマヨネーズ』を観た
南瓜とマヨネーズを観た。ツチダが重い。せいちゃんはゆるやかに人生のV字回復、ハギオはクズど真ん中。途中、どうしてツチダはハギオと寝たんだろう。好きでもない人の愛人となったことが少しずつ心を蝕んでもう何でもいいや~~~この場で私を愛してくれる人こそ尊いみたいなマインドでいたのだろうか。一方、せいいちの精神衛生を回復していく様子は見ていて安心する。重いツチダ、希望のないキャバクラ、路線がブレブレの尚美。でも何か良かった。ツチダは重いままなのに。話自体は何も進んでいないのに(せいいちがツチダと別れ、ツチダがハギオと会わないと決めたくらい)。あと、ツチダ演じる臼田あさ美のスタイルが本当に画になる。スク水を着ても本来あるべき身体の正確さを保っているような気がしてくる。臼田あさ美を観た後はから揚げなんて食べられない。ポテトも食べられない。ハーゲンダッツしか食べちゃいけないような気がする。というか、この話、誰もマトモな人がいないのにちゃんと小さくハッピーエンドになっている不思議。せいいちを演じる太賀が唄う最後の劇中歌(今調べたら「ヒゲちゃん」っていう曲らしい。)で丸く収まっている感もある。いや太賀さんがしっかり歌上手い。あんな顔のどアップから歌いだしてサマになるなんて(「ゆとりですがなにか」でポンコツ役だった彼を観てた私としてはサマになりすぎてて素直に褒めたくないレベル)。あとはこの映画、常に「これいつ終わるの?」って思っていた。この感覚があると「面白かった」に結びつくのかもしれない。最後は笑顔で大泣きのツチダの前でせいいちが唄って終わり。何でそんなに泣いているんだツチダ。せいいちが曲作るとこまで成長したというか精神回復したから嬉しい、ということ?こういうちょっとした疑問というか意味深感がセンス良く積み重なると「深いね」なんて感想になるんだろう。ツチダが何でこんなに重いのか、バックグラウンドが全然描かれないところが全国上映系の映画とは一線を画すところ。そういえばこの映画のキャッチコピーが全然気に入らない。
<キャッチコピー>
• あたりまえだからこそ 儚くて尊い わたしたちの日常
• 2人でいること。それだけでシアワセだった
• そっとフタをして ずっとウソをついて やっと忘れたはずなのに
• 会えて嬉しいよ、でも苦しい。
• 大好きな人と忘れられない人のあいだ
• 女は過去の恋をひきずらない、なんてウソ。
これ考えたの配給のS・D・Pさんですか?一番正確そうなのは最後のキャッチ、「女は過去の恋をひきずらない、なんてウソ」だけど、ツチダがハギオになびいたのは、本当にハギオのことを忘れられなかったからなのか?結局せいちゃんが好きで、あてつけでハギオと会っていたくらいじゃないのか?あてつけにしちゃあとびきりの推しメンが現れすぎている気もするけど。でも「せいちゃんが私を振ってくれたら楽なのに」と言ったあと、「俺、近々出ていくわ」って言われたツチダは号泣していたから、半々くらいではあったものの、もうあの涙で勝負はついていた感じがする。しかも2人の間で揺れることがこの映画の主題だったのか?っていうか南瓜とマヨネーズどっからきた???(今調べたら南瓜とマヨネーズは原作でも特に触れていないらしい。ポテトとケチャップでも良いし、カレーと福神漬けでも良いし、パンケーキと自撮り棒でも良いんだろう。なんかそんな距離感のこと?なんでしょうか)おかずの話がタイトルなんだからこれはドラマじゃなく「THE☆日常」の映画であることは間違いない。あと、『夜空はいつでも最高密度の青色だ』でも思ったけど、なんでこうちょっと底辺臭する物語ってドラマみが高いんでしょう。余裕がないから感情の生々しいぶつかり合いがあるってことなのかな。『オーバー・フェンス』も『夜空はいつでも~』もスナックだかキャバクラだか出てきちゃうし、何だろう低予算映画ってそっちに寄るのが王道なのかな、画的に。都会都会している(バリキャリとかの)単館モノも是非見てみたいですね。探してみよう。最後にキャッチコピー自分で考えてみよう。この映画の主題がなんだかよく分からない(そこが「深いね」ってやつだし「面白かった」ってやつなんだけど)。クズが集まってしまっても人生何かしらは前進しているよって話?やっぱりツチダとせいちゃんしか成長(どころか人生の動き?)が無いので、このふたりにフォーカスした言葉が適当だと思う。「離れたほうが楽しいかも」じゃだめですか?最終的にふたりは別れるけどそっちのほうがふたりにとって精神衛生良さそうな感じがしたから。「離れたい、離れられない、どうしても」とか。なんか言葉に立体感が無いし手垢つきまくり。「上手くいかないけど、前にすすんでる」でもないしなー。恋愛沙汰じゃなくなってくるんだよなー。人生の映画みたいになってくるからなー。「それでいいって思っているから」かな、ツチダの目線だと。せいちゃんが曲作ってくれれば「それでいい」。だめだ、さっきから1つの疑問が頭をもたげている。ツチダ、どういうマインドでせいちゃんのことヒモにしてたんだ?好きだから?もう好き通り越して母親みたいになってないか?自立していない異性を好きになってヒモにする感覚がちっとも分からなくてこれはキャッチがつけられない。「落ちても、それで良いって思ってる」かな。落ちるってなんだ。「落ちたら、見えた」かな。でも主人公大して落ちてないような気もする。「それでいい」かな。これだと母親マインド出すぎなんだよな。「あんたぁ、生きてるだけで丸儲けだからねぇ」って。キャチコピーも簡単につけさせてくれないくらい感情のごった煮の映画というか。「ほんとうの気持ちは、ぐつぐつ煮られている」とか。煮てるのか?煮た結果別れましたという感じ。「ほんとうの気持ちは、焦げた鍋底にあった」的な。煮まくったら出汁が蒸発しちゃって、それでも煮て、焦げ付き始めたころに、「あ、もうこの料理は完成しないんだ。失敗しちゃったんだ」って気づきましたっていう。「ほんとうの気持ちは、完成しなかった」とか。意味深すぎる。ふわふわすぎる。「ほんとう」を平仮名にしちゃうあたり私の好みじゃない。んーでもこれが2500字近く書いたゴールかな。「本当の気持ちは、いつ完成するんだろう」「ほんとうの気持ちは、いつ完成するんだろう」「本当の気持ちが、完成しそう」気持ちって完成するのかな?よくわからなくなってきた。「愛されたくても、わたしはあいまい」とか。「愛されたくても、わたしは揺れる」。揺れるっていうのが何か違う。
案①「ほんとうの気持ちは、いつ完成するんだろう」
案②「愛されたくても、わたしはあいまい」
手垢ついてるっちゃついてるけど私はこっちのコピーのほうがしっくりきます。ハギオーツチダ間と、せいちゃんーツチダ間の恋模様が大事なのではなくて、ツチダの物語として解釈したほうが厚みが出ません?っていうこと。「好きは、まっすぐとは限らない」これもいいかも。こんな感じ。感想おしまい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?