あいちトリエンナーレ2019-nowhere/now here, Y/Our-

レビューを始める前に-都市再考-

あいちトリエンナーレは愛知県名古屋市を中心に2010年より3年に一度開催されている地方芸術祭であり、4回目にあたる今回は国内外からアーティストを招聘し、大々的な国際現代芸術展の様相を呈す。地方芸術祭という言葉を使用したが、「あいちトリエンナーレ」をその枠に入れ込むのには少し抵抗がある。
 「地方」とは一般的には東京都、もしくは首都圏以外を指す言葉であるが、会場となる名古屋市と豊田市は愛知県内における人口ランキングでは上位2つの都市であり、名古屋市に至っては人口約232万人。東京、横浜、大阪に次いで日本で4番目に大きな都市と言える。あいちトリエンナーレとは、東京ではない巨大な「都市」の芸術祭と言えるかもしれない。
 都市という言葉にはアノニマスな性質が含まれる。全面ガラスカーテンウォールの四角い高層ビルが立ち並び、AmazonやUber Eatsなどの宅配サービスが横断する。個人個人の顔が特定され得ない、コミュニケーションをとることが叶わない集団としての都市。都市は良くも悪くも同質化していく。それはつまりアイデンティティの喪失である
 あいちトリエンナーレ2019の会場には3つの美術館が含まれる。美術館の展示室内は一般的にホワイトキューブと呼ばれる白い壁面で統一され、中立性が担保された空間である。中立性の担保とは、サイトスペシフィック(場所の固有性)から独立した作品が展示可能だ、とも言い換えられる。固有のアイデンティティを持たないことがホワイトキューブの特徴の一つであり、アイデンティティを失った都市は白い箱へと変容する。
 様々な表現が許容されうる巨大なホワイトキューブにおいて展開されるあいちトリエンナーレ2019。
 本テキストは都市で開催される芸術祭を、印象に残った展示作品のレビューにより解体し、これまでに起こったこと、いま起きていることを真摯に見つめることを目標とする。


どこでもない場所

四間道商店街の細い路地に展示する葛宇路は、よく知った場所さえも架空の場所に変えてしまう。名前の末尾に「路」がつく彼は、かつて北京市内の名前のない複数の道に《葛宇路(グゥ・ユルー)》と名付け、案内標識を勝手に設置した。2015年頃には中国のオンラインマップに「葛宇路」が正式名称として登録され、展示室にはそれを示すように、「葛宇路」と印字された公共料金の支払い書や宅配サービスの配達書が展示される。
 中国政府は2018年までに1006の無名の道に名前をつけ、標識は次々と撤去されたがオンラインマップではいまだに「葛宇路」と表示されている。商店街の細い路地の入り口には案内標識が立っており、四間道にとってストレンジャーである鑑賞者にとって、この道は葛宇路に姿を変える。

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《葛宇路》/ 葛宇路


四間道の古い住宅の蔵で展開される岩崎貴宏の《町蔵》は、中に入ると箪笥や家具によって狭い通路がつくられている。通路を進み土間から一段上がると、そこには黒い風景が広がっている。蔵の持ち主である伊藤家はもともと炭を扱う商家であり、炭によって再現された石垣や門、橋などが並ぶその景色は、第二次世界大戦時の空襲による焼け跡を想起させる。奇妙なのは、名古屋テレビ塔など戦後に建設された建築物が混在している点である。
 広島出身の岩崎は現在の状況を、「戦後というだけではなく戦前とも捉えられる」と語る。展示空間を起点として、鑑賞者は過去に未来に思いを馳せる。

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《町蔵》/ 岩崎貴宏


作家であり研究者でもある小田原のどかは今回の芸術祭にて3つの展示を行っている。屋外スケートパークのすぐ横に設置された《↓(1923-1951)》は1923年から1951年まで、東京・三宅坂に実在していた台座を再現した作品である。現在は平和の象徴として3体の女性の裸婦像が設置されているこの台座は、かつては軍国主義の象徴として騎馬像が設置されていたという過去を持つ。


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《↓(1923-1951)》/ 小田原のどか


また豊田市駅地下に展示されている 《↓(1946-1948)》は、長崎の原爆投下中心地に建てられていた矢形標柱を赤いネオン管でかたどった作品である。多くの人が亡くなった爆心地に建てられながら、慰霊や追悼の機能が排されたこの矢形標柱を小田原は戦後の公共彫刻の起点として捉え、日本の近代彫刻の始まりを再現することを試みる。

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《↓(1946-1948)》/ 小田原のどか


これらをまとめ上げる《↓(1946-1948/1923-1951)》は、この二つの作品に関わる資料の展示や、小田原の考察をまとめたタブロイドが配布され、国の政治形態の変化によって流動する社会を「彫刻」というレイヤーから考える舞台として機能している。

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《↓(1946-1948/1923-1951)》/ 小田原のどか


高嶺格は豊田市の廃校となった高校のプールにて《反歌:見上げたる 空も悲しもその色に 染まり果てにき 我ならぬまで》を展示する。

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《反歌:見上げたる 空も悲しもその色に 染まり果てにき 我ならぬまで》
/ 高嶺格


プールに穿たれた大きな穴から、目の前に立つ巨大な壁はプールの底をくり抜き直立させたものだとわかる。近づけば近づくほど圧迫感と緊張感を放つ巨大なこの壁の高さは12mで、アメリカ-メキシコの国境に建設が進む壁と同じ高さを持っている。

葛宇路は四間道商店街の細い裏路地を「葛宇路」に変化させることで所有についての問いを投げかけ、岩崎は町の蔵に過去と現在が並存した架空の風景を立ち上げた。小田原は実在したモニュメントを媒介に政治に翻弄される諸問題を浮き彫りにし、高嶺は壁を出現させることで、遠い異国の話として流してしまいがちな事実を目の前に突きつける。
 ここで紹介した作品はいずれも我々が遠い「どこか」として認識している事象を「どこでもない場所」として提示することで、「確実にどこかにある場所」を出現させる。
 どこでもない場所(Nowhere)を、今どこかにある場所(Now Here)へ。場所から解放された作品たちは、確かにあるどこかを示していた。


答えを出さないという答え

永田康祐の《Translation Zone》では料理と言語にまつわる事例が参照されていく。分子ガストロノミーという新しい料理の研究分野において実現される、「ローストしないローストビーフ」の調理法。クックパッド内に大量に投稿される「ブートレグ・レシピ」。香港の逃亡犯条例の改正を受けてのデモについて、
「so sad to see hong kong become china(香港が中国の一部になるのはとても悲しい)」
という文章をGoogle翻訳で中国語に変換すると、
「很高兴看到香港成为中国(香港が中国の一部になるのはとても嬉しい)」
という真逆の意味の文章が生成される、という事件。
 これらに共通するのは情報の「翻訳」過程に起きる齟齬である。翻訳は本来情報が持っている、膨大な時間により形成された意味や文化を容易に削ぎ落としてしまう場合がある。そしてそれらは同じ「舌の上」で起こる。

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《Translation Zone》/ 永田康祐


キャンディス・ブレイツの《ラヴ・ストーリー》は、「難民」へのインタビューが編集され、俳優により再演される。俳優によって演じられるストーリーからは、取材された当人の表情やしゃべり口は排除され、別の存在感を醸し出す。

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《ラヴ・ストーリー》/ キャンディス・ブレイツ


アンナ・ヴィットの映像、《60分間の笑顔》は7人の男女がただこちらに微笑みかけてくる。その笑顔がポジティヴなものか、はたまたネガティヴな意味なのかを私たちは問うことはできない。笑顔という「情報」を摂取することしかできない、実に不気味な作品である。

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《60分間の笑顔》/ アンナ・ヴィット


タリン・サイモンの《公文書業務と資本の意思》は花束が収められた美しい写真作品である。これらは過去に執り行われた政治的行事の際の装花を再現しており、美しい装花の隣に様々な権力の執行があった事実のみが示される。

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《公文書業務と資本の意思》/ タリン・サイモン


これらの作品は我々に淡々と情報を提供するだけにとどまり、何か答えを出すことはしない。澤田華の《Gesture of Rally #1805 》はその最たる例である。
 「現代の代表的なオフィス環境を用意した企業」というなんでもない写真の中に、青い半透明の「何か」を発見した澤田は、様々な角度からその物体を検証するが、その行為は正体を特定するのではなく、「それっぽいもの」を際限なく増幅する。

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《Gesture of Rally #1805 》/ 澤田華

正体不明のもの、すぐに判別がつかないもの、理解できないものは、人を不安にさせることがあります。しかし、それらを簡単に白黒つけたり、排除したりしたくないと語る作家は、曖昧なまま、無理に答えを出さないことにこだわります。[1]

澤田が語るように、我々は知らないものを恐れる。そしてそれらに白黒つけることは往々にして排除へとつながる。

ここでもう一点、特筆したいのはキュンチョメによる映像作品である。キュンチョメの《声枯れるまで》はFtM(身体的には女性であるが性自認が男性)やXジェンダー(出生時に割り当てられた女性・男性のいずれでもないという性別の立場をとる人々)とカテゴライズされる3人の人物が登場する映像作品である。彼らに共通しているのは、自分自身に新しい名前を付けたという事実であり、この作品は彼ら個々人へのインタビュー形式で展開していく。

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《声枯れるまで》/ キュンチョメ


キュンチョメは彼らがどう生きてきたか、これからどうなっていきたいかを尋ねるが、トランスジェンダーや現行の社会制度についてどう考えているか、という大きな主語の話はしない。ここでは終始「彼ら個人」の話だけが語られる。
 インタビュー映像が終わると、画面は暗転し、真っ黒な画面からはキュンチョメの二人と対象者が、「自分で決めた自分の名前」を叫ぶ声が響く。

「あなたの名前はなんですか」
「私の名前は〇〇です」

ただただ繰り返し、彼らは自分の名前を叫ぶ。ほかでもない自分自身が決めた名前を叫ぶこの行為は、自分自身をこれ以上なく肯定する。

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《声枯れるまで》/ キュンチョメ


「名付け」は強い力を持つ。男性、女性、レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、クィア、まとめてLGBTQ。カテゴライズという「名付け」は個人という存在を曇らせる。
 《声枯れるまで》があらわにするのは、いわゆる「ジェンダーの問題」が未解決であり、議論も醸成していないこの時代を、我々が、確実に、今、生きている、ということだ。そしてこれはジェンダーだけの話ではない。
 個人ではなく人種、属性、枠組みで判断することで起こるすべてがここに詰まっている。

答えを出さないことは、議論を避けるためにあるのではない。凝り固まった無関心をほぐし、目の前にある全てが、どこかの誰かの話ではなく、今の私たちの話であると再確認させてくれる。

最後に-情の時代は続く-

あいちトリエンナーレ2019は様々な問題を抱えながら動き続けている。《表現の不自由展・その後》が公権力による介入、テロ予告を受け展示が中止され、様々なアーティストが展示の撤退や一時中止、内容の一部変更を決行した。その後様々な団体からの声明が発表され、「サナトリウム」や「ReFreedom_Aichi」など参加アーティストによるアクションが起こった。
 展示中止となった《表現の不自由展・その後》を私は鑑賞することが叶わなかったため多くを論じることはできないが、同展覧会は作品、展示企画、表現の持つメッセージではなく、「少女像」や「昭和天皇」といった作品を構成する要素の一つである「アイコン」に非難が殺到し、その後SNSやテレビなどのメディアでは政治的な論争が起こった。作品や展示企画から立ち上がった問題は、自分と違った主張をする者を叩くためのツールへと変化し、大きな主語を相手にすることに目的がすり替わっている。主義主張を違えるものと対立し、見知らぬ他者を排除する。その大義名分のために表現が犠牲にされ規制されていく現状を打破するために、ここでもう一度あいちトリエンナーレ2019のテーマを思い出したい。
 芸術監督である津田大介は「情の時代 Taming Y/Our Passion」というテーマを設けた。

「情報」によって我々の「感情」が煽られ、その結果、様々な分断や困難に直面している現代社会を象徴する言葉として、「情の時代」というテーマを設定しました。[2]

津田が語るように、現代社会は様々な「情」によって混乱が起こっている。イギリスのEU離脱や香港での逃亡犯条例の改正を受けての大規模なデモ、日韓関係の急激な悪化など数えきれない問題が日々起こっている。これらは国家間だけの問題にとどまらず、個人の間にも波及する。人種やジェンダーなど、属性、枠組みに対して行われる差別がその例だ。
 目の前に見えるものだけを真実だと思い込み、白と黒に分けようとする。数歩離れた現実を自分とは関係のない異世界だと誤認する。
 我々が生きるこの社会に風穴をあけるのはやはり情である。

人間は、たとえ守りたい伝統や理念が異なっても、合理的な選択ではなくても、困難に直面している他者に対し、とっさに手を差しのべ、連帯することができる生き物である。いま人類が直面している問題の原因は「情」にあるが、それを打ち破ることができるのもまた「情」なのだ。[3]


巨大な都市で開催された展覧会。先に述べた通り、都市はアノニマスな存在であるが、都市を形成するのは人である。情の集合体で開催された展覧会は、人々の情を揺りうごかす大きな装置として確かに機能していた。それを受け、我々はどう動くか。

Taming Y/Our Passion
あなたたちの/私たちの情を飼いならすこと。

情の時代は続く。


[1]あいちトリエンナーレ2019公式サイト 澤田華の作品解説より。
[2]各展示場入り口に掲出された「芸術監督のごあいさつ」より。
[3]あいちトリエンナーレ2019公式サイト コンセプトより。


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