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上書きされたコードと強制されるモード −目[mé] 《非常にはっきりとわからない》−

千葉市美術館は2020年5月を目処に改修工事を行っており、美術館の周辺は仮囲いで覆われ、時たま工事車両が出入りする。館内の柱は薄いビニールで覆われ、床はシートが敷かれ、普段見ることのない美術館の裏側を垣間見るようだ。
 この改修中の美術館の7階と8階の二つのフロアで「目」による展覧会《非常にはっきりとわからない》が開催される。私はまず7階へ向かうためにエレベーターに乗る。
 エレベーターの扉が開くと1階と同様に養生された空間が広がる。用意された3つの展示室内も壁や床は覆われ、単管パイプ、カラーコーンや高所作業用のローリングオンタワーなどが置かれる。
 エレベーターを降りて右手側にある小展示室ではガラスケースの中に絵画が数点展示されているが、養生が施されたケースの中は展示を見る状態とは程遠い。一番大きな展示室では文字盤が剥ぎ取られた時計の針が無数に吊ってあるが、未完成なのか傍らの机の上には制作途中のパーツが置かれ、壁にかかったレリーフ状の作品の前には畳まれたシートが置かれている。続く展示室の壁は黄色い石膏ボードにパテが塗られたまま放置され、彫刻は梱包され、蛍光色の絵画が展示されたガラスケースの表面は薄いビニールで覆われる。仮設壁には塗料で文字のようなものが描かれる。
 ここまで展示室の状況を列挙してみたが、一見すると展示作業中に誤って入ってしまったように感じられるこの空間が私に何を伝えようとしているのか、私に何を見せようとしているのか、釈然としない。私は不安を抱えたまま8階へ向かうためにエレベーターに乗る。

 エレベーターの扉が開くと1階と同様に養生された空間が広がる。用意された3つの展示室内も壁や床は覆われ、単管パイプ、カラーコーンや高所作業用のローリングオンタワーなどが置かれる。
 ここで一つの違和感に気づく。私は7階からエレベーターに乗り、8階でエレベーターを降りたはずであるが、私の目の前にある空間は先ほど見たものと寸分違わず同じに見える。疑念を抱きつつ小展示室を覗くが、そこには養生が施されたガラスケースの中の絵画や板材を積んだ台車が置かれている。一番大きい展示室には文字盤のない時計たちが吊られ、壁にかけられたレリーフも、折りたたまれたシートもそのまま同じである。続く展示室も黄色い石膏ボード、梱包された彫刻、蛍光色の絵画、描かれた文字など、下の展示室と同じ要素が配置される。間違い探しをするように、もう一度エレベーターに乗り7階へ移動する。言うまでもなく、移動した先でも上の階と同じ風景が広がる。移動を繰り返していくうちに、照明の灯数、台車にかかった上着、箱に書かれた文字、床に落ちているゴミの配置、壁に無造作に貼られたテープのような、初めは見落としていた諸要素が目に入るようになる。

こと展覧会という状況において我々が「見」るものは何か。この問いに多くの人は「作品」と答えるだろう。それでは「作品」とは何か。それは絵画のように平面的なものであったり、彫刻のように立体的なものであったり、もしくはインスタレーションのようにオブジェクトどうしの関係によるものかもしれないし、はたまたパフォーマンスのように実体が固定されないものかもしれない。これらは「作品」と呼ばれるもののほんの一例でしかない。「作品」の形態は多様化し、規範は日に日に不明瞭になっている。しかしどれだけ形態が多様化し、規範が不明瞭になっても、これらに共通して言えるのは展示がなされているという事実だ。展覧会場に置かれたオブジェクトは「展示」というフォーマットを介すことで「作品」と呼ばれるようになる。それでは「展示」とはどのような状態を指すか。
 展示空間に入った私たちは絵画や彫刻といった作品を「見」る。言い換えれば、展示空間には「見るためのオブジェクト」が配置されている。「見るためのオブジェクトが配置された状態」を「展示」と呼ぶなら、それは同時に目に映る様々なものを「見るべきもの」と「そうでないもの」に選別する行為を促す。そして展示によって無意識でありながら意識的に(もっと言えば意欲的に)行われるこの行為、あるいはモードを「鑑賞」と呼ぶ。
 それでは本展で「展示」されている「作品」はなにか。先ほど設定した定義に沿って言えば、本展における「見るためのオブジェクト」は目に映る情報すべてである。ここには「見るべきもの」しか存在せず、「そうでないもの」は端から存在しない。展示空間に存在するものはすべて鑑賞の対象となる。「見るべきでないもの」の不在による情報量の増加は私たちを混乱させ、階の往復を続けるうちに自分が今どちらの階にいるかわからなくなってくる。

鑑賞、すなわち見ることは何を持って「完了」するのか。全ての作品を目視すれば完了するのか。展示室から一歩外に出た瞬間に完了するのか。映像の場合はその頭から最後まで見切れば完了するのか。もっと言えば、鑑賞の「始まり」はどこに設定されるのか。これらの問いは無限後退して行方をくらましてしまう。ある行為が始まる瞬間には別の行為は完了、もしくは中断する。そしてその行為が完了した瞬間に、今度は別の行為が始まる、もしくは再開する。
 我々の身体は「目を凝らす」というコードを上書きされたことにより、展示空間に存在するものすべてを鑑賞対象として受容するようになってしまった。それだけに留まらず、「鑑賞」というモードを強制されたことで、展示空間に限らず存在するものすべては鑑賞対象に変化する。「目」が私たちの体に施したコードの上書きとモードの強制は、行為と行為の継ぎ目をなくし、シームレスに繋げてしまう。それらは芸術と非芸術のみならず事物と事物の間に存在する境界線、さらにそのライン上に内在する「非常にはっきりとわからない」あわいすら消却してしまう。
 「目」を知ってしまった我々は、知る前に戻ることはできない。我々の身体はつくり変えられてしまった。


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